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【第三世代フェミニストの弾薬庫】フェミニズム界隈には20世紀から21世紀にかけて何があったのか?①人文科学史全体の枠組みで考える。

以下に描いた「第3世代フェミニズム台頭期の景色」と「党派性の維持を最優先課題としたラディカル・フェミニズムとリベラル・フェミニズムだけが残った2020年代の景色」は直接繋がっている訳ではなさそうです。

ついでに「第3世代フェミニズム台頭期の原風景」をもう一つ。

  • 1990年代初頭、北米のワシントン州オリンピアに「Riot Grrrl」運動が現れた。音楽ジャンル的にはハードコアパンク系。この運動に携わったミュージシャンの多くは当初大手レコードレーベルを敬遠してインディーズレーベルと組み、頑なにアンダーグラウンド現象であり続け様としたが、やがて雑誌や新聞での扱いが大きくなるにつれ「このままメインストリーム化が進めば運度が歪むと考える強硬派とそれほどハードコアではないグループとの間に不和が生じ始める。

  • そこに1995年、颯爽と彗星の如く突如現れたのが子役出身で最初からメジャー化に抵抗がなかったカナダ人歌手アラニス・モリセットであった。元恋人を告発するアラニス・モリセットの「ユー・オウタ・ノウ」がヒットして大衆の注目を集めるとフェミニスト運動家達は彼女に鞍替え。またライオット・ガール提唱の「ガールパワー」なるスローガンもイギリスのアイドルグループ、スパイス・ガールズに奪われてしまう」。

  • こうして「Girls Power」の概念が商業主義の餌食となって陳腐化する一方、肝心の迷える少女達が選んだのは同じアラニス・モリセットの曲でも世間に対して斜に構える彼女達のスタンスを的確に表した「Hand in my Pocket(1995年)」の方だった。

  • 当時の欧米少女達の心境については恐ろしく資料が少ないのが、例えばまさにここで挙げた「Hand in my Pocket」を主題歌に選んだグレタ・ガーウィグ監督の反自伝的映画「レディ・バード(Lady Bird,2017年)」などがある。そこに描かれたのは地場産業たる農業から切り離されつつ、クリエイティブ分野は全て東海岸に持って行かれた(かろうじて金融支配によってごく一部が利益のお零れに預かってるだけの)「西海岸にはもはや何も残っていない」寂寥とした風景であった。

この情景は情景で以下の様な「アメリカの現在」に繋がりそうですね。

ピーター・アンドレアス・ティール(Peter Andreas Thiel、1967年10月11日 - )は、アメリカ合衆国の起業家、投資家。PayPal、OpenAI、Palantir共同創業者。Meta(Facebook)最初期投資家。「ペイパルマフィア」の中では「ドン」と呼ばれ、「影の米大統領」の異名を持つ。

ドナルド・トランプ元政策顧問。保守系動画サイトRumble支援者。ビルダーバーグ会議運営委員メンバー。Palantir取締役。自由至上主義哲学者。Meta(Facebook)最初期投資家でもあるが、Meta取締役を2022年2月8日に辞任した後、CEOのマーク・ザッカーバーグを敵対者リストに加えた政治家候補を支援している。また、イーロン・マスクとはPaypal時代からの友人であり関係が深い。

上掲Wikipedia「ピーター・ティール」

とりあえず「メキシコからの出稼ぎ小作人などに依存する様になって、米国人雇用と関係なくなってしまった」農業は置くとして、例えば自動車産業…

例えば航空産業…

しかしながら、こうした現実もまた「党派性の維持を最優先課題としたラディカル・フェミニズムとリベラル・フェミニズムだけが残った2020年代の景色」とはつながってこないのです。どうやら別アプローチが必要な模様…

「多様性からの乖離」が進行した21世紀米国フェミニズム

ネットを検索すると。どうやら以下の様な混沌たる状態から始まったラディカル・フェミニズムは…

コンピューター技術の発達を背景とする「科学的観察解像度の向上」によって議論範囲を集約させつつ…

「インターセクショナリティ」概念と「複合差別」概念にフォーカスしていったとされています。

インターセクショナリティと複合差別は、共に複数の社会的・政治的アイデンティティ(性別、人種、階級、性的指向など)が重なることで生じる不平等や差別に関する概念ですが、それぞれの歴史と相違点にいくつかの違いがあります。

1. インターセクショナリティの歴史
インターセクショナリティ(intersectionality)は、1989年にアメリカの法学者キンバリー・クレンショー(Kimberlé Crenshaw)が提唱した概念です。クレンショーは、黒人女性が性差別と人種差別の両方にさらされているが、その特有の経験が従来のフェミニズムや人種平等運動では十分に取り扱われていないことに着目しました。彼女は、黒人女性が性差別や人種差別だけでなく、これらの複数のアイデンティティが交差することによって特有の形で不利な立場に立たされることを指摘し、この交差する構造を説明するために「インターセクショナリティ」という用語を作りました。

インターセクショナリティは、社会的な不平等が単一の軸ではなく、複数の軸の交差によって形成されるという理解を促進しました。この考え方はフェミニズム、人種平等、LGBTQ+の権利運動など、多様な社会運動で重要な役割を果たしてきました。

2. 複合差別の歴史
複合差別は、インターセクショナリティと類似した概念で、複数の差別的要素が同時に作用して一個人に対して行われる差別の形態を指します。日本においては、複合差別という言葉は、例えば、部落差別、女性差別、障害者差別など、特定の属性が組み合わさることで経験する差別を表現するために使われています。特に日本におけるマイノリティや、障害を持つ女性、在日外国人女性など、複数のアイデンティティを持つ人々が直面する差別に焦点を当てる際に用いられることが多いです。

複合差別の概念は、特定の社会問題や法律の文脈で語られることが多く、個別の差別が同時に存在することで深刻な不平等が生じることを説明します。

相違点

① アカデミックな背景と理論化の程度: インターセクショナリティは、特にアメリカの学術界やフェミニズムの中で体系的に理論化され、特に人種、ジェンダー、階級、性的指向などの交差する不平等に焦点を当てています。一方、複合差別は、より実践的な文脈で使用され、理論的な精緻化が進んでいるわけではありませんが、現実の社会問題を説明するために重要な概念です。

②フォーカスの違い: インターセクショナリティは、特に交差するアイデンティティによる差別が個々に影響を与えるだけでなく、交差した結果として独自の形で差別が生じるという視点を強調します。複合差別は、複数の差別要因が同時に存在することに焦点を当てますが、それらの要素の交差がどのように独自の影響を生むかという理論的な議論が強調されるわけではありません。

要約すると、インターセクショナリティは学問的・理論的な枠組みで不平等を捉えるために用いられ、複合差別は、主に複数の差別要因が同時に影響する現実的な問題を説明するための実践的な概念です。

ChatGPTへの質問「インターセクショナリティ概念と複合差別概念について教えてください。」

しかしながら、ブラック・フェミニズムが導入した多変数解析概念(女性解放問題は少なくとも「男性・女性」「富裕層・貧困層」「白人・黒人」の三評価軸から構成されている)は、その本質からして「全ての次元で女性の解放を最優先課題と考えようとする」フェミニズム・イデオロギーと相性が悪かったのです。

  • 考えてみれば当たり前の話。「プライオリティをつけて多次元問題を順序解決していく際、必ずしも「差別された女性の解放」が最優先課題となる訳がない」なのです。それは「労働者は経営に関与せず」「経営者は生産の現場に口を出すな」をモットーとする米国労働組合が自動車業界Big3やボーイング社を次々と経営破綻に追いやって自らリストラを招いている悪循環同様の下策というもの。

ブラック・フェミニズムそのものの展開についても既存のアメリカ黒人の社会的地位が向上して今やその$${\frac{1}{4}}$$前後が中産階層以上に属する様になった事、全く過去の歴史に拘泥しない黒人新移民層の急増といった社会変化に対応できず、新たに台頭してきた「Black Establishment層とPoor Black層の分裂」といった問題について解決をもたらすどころか相互の憎悪を煽り立て、対立を激化させるばかりとなったのです。

多変量解析とは、複数の変数(データ)の関連性を分析して、予測や要約を行う統計的手法です。ビジネスシーンでは、マーケティングや商品開発など、さまざまな場面で活用されています。

多変量解析の目的は、予測と要約の2つです。

予測:未来の出来事を測定値から導き出す手法です。たとえば、スーパーの来店者数や気温、広告費、購入品数などのデータから、ビールの売上を予測します。

要約:複数の測定値をまとめてある要素について解析する手法です。たとえば、市場の特性や消費者の商品購入のメカニズムなど、複雑で多種多様な要因がからむ事象をわかりやすく単純化します。

多変量解析には、重回帰分析、ロジスティック回帰分析、因子分析、正準相関分析、クラスター分析など、さまざまな分析方法が含まれます。多変量解析を実施する際には、場面に応じた適切な分析手法を選択することが重要です。

多変量解析を行う前に、まずは「一変量解析」、「二変量解析」を充分に行うことが重要です

Google検索AIの答え「多変量解析とは何か?」
  • 「解決をもたらすどころか相互の憎悪を煽り立て、対立を激化させるばかりとなった」…かかる状況は黒人公民権運動の残党が人員不足を補う為に「女にも魂があると考えるのは黒人の伝統に反する」などと主張するミソジニー(misogyny)やLGBTQA/障害者差別を男らしさ(Masculinity)と勘違いしたストリート・ギャングに人材供給を頼る様になって急激に悪化した。無政府主義者の扇動に乗せられてBLM( Black Lives Matter)運動を暴動や略奪に発展させて快哉を叫んでいたのもこの層で、さらには良心的温和派のPoor Black層まで敵に回している。

その一方でアメリカにおいては「白人女性による人文学的大学院の占拠」となる事態が展開し、社会運動の担い手自身が多様性から乖離する傾向が見受けられたのでした。

グローバルな成功を考えると、公共社会学は社会学の新時代(社会学が少しも危機感を持たない時代)に先導役を務めていると結論しても間違いではない。社会学のラデカル化は実際に存在するすべての社会学を破壊したり攻撃することなく異議を唱えられないアプローチとして公共社会学を完全に制度化する地点に達した。

公共社会学 (publicsociology) という言葉はまだ馴染みが薄いが、最近アメリカの社会学者マイケル・ブラウォイによって社会学の一つの研究ジャンルを意味するものとして提唱されている (Eurawoy2004a,b,c 2005a,b)。ブラウォイによれば、公共社会学とは「社会学をアカデミズムの世界から公衆(publics)のもとに連れだすことにより、社会の命運に関わる諸々の事柄についての対話を促進し、われわれの信じる諸価値をミクロな視野のもとに提示することを追求する一つの社会学」である(Eurawoy 2004a: p. 104)。つまり、ブラウォイの構想する公共社会学とは、社会学の土台にある諸価値を公共圏のなかで開示し、そこでの公衆との対話と協働を通じて、そうした諸価値に基づく社会を構築しようとする社会学のことである。

こうしてみると、公共性の社会学は、自らの研究営為をたんに「公共性を記述するもの」としてだけではなく「公共性を構築するもの」としても捉える必要がある。あるいはそれは、公共圏の観察者であると同時に行為者でもなければならない。ただしこのような二重性もしくは再帰性は、社会学の研究営為一般にいえることである。つまり公共性というトピックは、社会学の研究営為のそうした特性をあらためて省察してみる重要な契機を提供しているともいえる。

例えば,その組織に関して ASA は多様性声明(diversity statement)にコミットしている。それは,有色,女性,ゲイ,レズビアン,バイセクシャル,ジェンダーを超越している人、障碍者,小さな大学研究施設の社会学者,政府,企業,その他の付属施設で働く社会学者,海外の学者を含めるという組織方針をとっている。もっとマイルドに述べると,いかなる学会組織にとっても,任意の特定のカテゴリーを排除することは具合が悪いのである。しかし学会組織があるカテゴリーだけを含める選択をするのはなぜか,他のカテゴリーを排除するのはなぜかは決して明白ではない。多様性声明ははっきり言って,偏っていて時代遅れである。もっと驚くのは,社会学会におけるマイノリティの数は極端に少ない状態が続いていることである。何らかの構造上の障害と文化的な傾性に関係なく有色の学者をリクルートするにはそれはあまり有効ではないので,社会学会のどこかが間違っているのかと尋ねねばならないほど少ないのである。2010年で13,708人の全会員うち,ASAはアフリカ系アメリカ人は6%,ヒスパニック系アメリカ人は4.3%である。対照的に女性の数は急激に増加し,1990年初め以来,女性会員の方が上回っている。院生身分で特に著しい。

その活動家的プログラムではASAは2003年にイラク戦争に反対の決議,2004年に同性婚賛成の決議をしている。学会はさらに幾つかの最高裁判決で,裁判所の友(amicus curiae)のブリーフをファイルしたことを自慢している。活動主義は学会年次集会でも支配している。2011年の「社会紛争」,2012年の「リアル ユートピア」,2013年の「不平等を尋問する」のようなトピックを含んでいる。政治化した社会学は社会学雑誌の頁を埋めている。その内容的な志向よりも方法論的アプローチの点で高度に科学的なブランド作品とそれは共存している。

上掲「米国学生運動が残した足跡」より。マイケル・ブラフォイ(Michael Burawoy)「公共社会学(publicsociology,1999~2004年)」

完璧なまでの「現実主義=多変量解析」からの決別。なるほど、結論からいえば(1970年代ウーマンリブ運動を失敗に追いやった)白人女性フェミニストの革命闘士が再び主導権を握る様になり、以下の様な修正主義的傾向を有する第三世代フェミニストを「歴史の掃き溜め」送りにする事に成功したという訳ですな。

  • 「夫が稼ぎ、妻が専業主婦として家事と育児を担当する家庭」と「夫も妻も稼ぎ、家事や育児を共同分担する家庭」についてそれぞれの判断を尊重する(ラディカル・フェミニストもリベラル・フェミニストも進歩主義的イデオロギーから前者を否定)。

  • LGBTQA当事者が自由に振る舞える様に「ミサンドリー(misandry=男性嫌悪)やミソジニー(Misogyny=女性嫌悪)に憑かれた「自称」同性愛者」や「あらゆる性表現を憎悪して地上から駆逐しようとする「自称」無性愛者(Asexial)」を追放(この層がリベラル・フェミニストに合流して「自分達こそLGBTQA当事者の代表」と主張して認められた事でリベラル・フェミニストと第三世代フェミニストの対立が加速)。

  • 例えば「Pink Tax反対運動」について、様々な理由からそれに乗り気でない女性を強引に動員しようとはせず、その一方で「剃刀のデザインが必ずしも男性的である必要はない」なる考え方に同意する男性層も巻き込んだ(全てを「男女間の闘争」と捉え「全女性の動員」に執着するラディカル・フェミニストの逆鱗に触れた)。

当時の全体像について随分と見通しが良くなりましたが、まだまだ足りません。当時の社会運動全体を視野に収める為にさらなる「検索範囲を拡大する方向に向けてのベイズ更新」が必要な様です。

20世紀のLOHASから21世紀のSDGsへ

ここで突破口となったのが以下のポスト。

そして上掲の「公共性の社会学」との接点として浮かび上がってきたのが「環境マルクス主義」なる見慣れぬ概念…

では、現在の資本主義のどの点がダメなのだろうか。斎藤さんは2つ問題があると指摘する。一つ目は、格差の問題だ。イーロン・マスクやザッカーバーグのように巨万の富を持つ富豪がいる一方で、世界の大半の人間が長時間労働をしたとしても、「普通の暮らし」ができないほど格差が広がっている。もう一つが、無限の経済成長を求め続ける資本主義が、地球環境を取り返しがつかないような形で破壊するようになっていることだという。行き過ぎた人類の経済活動が地球を壊す時代、それが本のタイトルにもなっている「人新世」だ。

だが、その問題への解決策がなぜマルクスなのか?社会主義を実行したソ連は結果的に成長を優先し、環境破壊を続けたため、社会主義と環境問題は相反するようなイメージがある。しかし、斎藤さんが研究するマルクスのノートには環境問題への解決策が示されているというのだ。

電気自動車や再生可能エネルギーも、無限の経済成長を求め続ける限り、資源やエネルギーを消費して行うことに変わりはなく、根本的な解決には至らない。マルクス主義の中には環境問題と経済格差を解 決する脱成長コミュニズムのビジョンがあり、その思想を再評価するためにも自著名は『人新世の「資本論(2020年)」』にしたとのこと。

上掲「「資本主義では環境問題は解決しない」マルクス主義者の斎藤幸平が激白!!」

斎藤幸平(以下、斎藤) 私自身、じつはブレグマンさんの説への疑問もあるんです。「ほとんどの人間は本質的に善良である」というあなたの主張にもかかわらず、今この瞬間にも、ウクライナでは戦争が起きています。なぜなのでしょうか。

ルトガー・ブレグマン(以下、ブレグマン) 確かにヨーロッパの歴史は戦争にまみれています。とくに20世紀の前半は二度の大戦が起こり悲惨でした。しかし、私が言いたいのはこうです――「ほとんどの人間は善良だ。しかし、権力は腐敗する」。そもそも、いわゆる“戦争”が起き始めたのは人類史において最近のことなんですよ。農耕文化や定住の始まりが、そのきっかけになったとの研究もあります。なぜ善良な人々が戦争するのかについては、仲間への共感、社会的な同調という観点からも説明が可能です。

斎藤 仲間や家族を敵から守るために、人間は残虐になってしまうということですね。まさに人間性の持つジレンマです。一方で「腐敗した権力」という言葉から私が連想するのが、世界の上位0.1パーセントを占めるような現代のスーパーリッチな人たちです。彼らは、他の人の生活を想像し、共感する力に欠けているように思えます。地球環境に悪影響を与えるプライベートジェットやクルーズ船を所持したりと、まるで地球は我々のものだと言わんばかりです。人権を侵害する独裁者に制限を加えるように、スーパーリッチたちにも制限を加えるべきではないでしょうか。

ブレグマン 私は、スーパーリッチや世界的エリートが集うダボス会議へ出席したことがあります。しかし彼らが傲慢で自己中心的かというと、実際はフレンドリーで人柄もあたたかいのです。そして彼らは、ネットフリックスで放映されている「OUR PLANET 私たちの地球」という環境ドキュメンタリー番組を観て、この地球が破壊されている、と共感して涙を流しているんです。でも私は、そんなあなたたちが地球を破壊しているのですよ、と言いたい(笑)。だって、1500機ものプライベートジェットでダボス会議に参加しているのですから。もともと人間は、映画「ダークナイト」のジョーカーのような、悪それ自体を楽しむような邪悪な存在ではありません。にもかかわらず、戦争や環境破壊などが起きてしまうのは、本当に悲劇的ですよね。

斎藤 共感する能力というのは、人間の強みでもあり、弱点でもあるということでしょうか。

ブレグマン はい。共感する能力、そして集団の一員でありたいという願望は、私たちのDNAに備わっています。日本は文化的にも、とくにその傾向が強いと感じています。人と違う意見を表明して目立ってしまうと、社会的なペナルティを受けるという現象も、日本においては顕著ですね。とはいえ、おかしいことにおかしいと声を上げないと社会は進歩しません。18世紀に奴隷制廃止のため、19世紀に女性解放のために声を上げて戦った人々には、“嫌われる勇気”がありました。彼ら彼女らは当時、変人扱いされましたし、生きているあいだに目に見える成果を得られなかったかも知れません。でも、そんなペナルティにもかかわらず、声を上げたのです。

斎藤 全く同感です。その意味で、グレタ・トゥンベリさんは本当に勇敢ですね。地球環境が危機的状況にあることを世界に知らしめて、私たちの考えを根本から変えてくれたのですから。けれども状況はあまり変わっていません。二酸化炭素の排出量は減っていない。私は『人新世の「資本論」』の冒頭で「SDGsは大衆のアヘンだ」と述べましたが、再生可能エネルギーに投資したり電気自動車を作ったりすれば環境によいことをしている、と私たちは安心しがちです。しかしやっていることは、今までと同じくお金儲けなのではないでしょうか。世界が直面している危機に対しては、もっとほかにするべきことがあります。たとえばコロナ禍の際には、人々の命を守るためにロックダウンや市場介入が実現しました。これらは、政治家や科学者が必要だと提唱したからです。同じような大胆な政策を、環境問題についても行うべきです。

ブレグマン だからこそ斎藤さんは、資本主義の限界を克服するために、脱成長を唱えているのですね。

斎藤 はい。脱成長については、マスコミや研究者のあいだでも、多くの反対意見があります。けれども『人新世の「資本論」』への読者からの反響は大きく、とくに若い世代からの支持を感じています。また、企業のSDGs担当者のなかにも、「自分がやっている仕事は、まやかしなのでないか」との矛盾した思いを私に打ち明ける人もいます。大企業に勤める人々も「じつは斎藤さんと、全く同じ意見です」「でも、大胆な変革の仕方が分からない」と悩んでいるのには驚きました。

上掲「世界の富を独占する「上位0.1%の超金持ち」は“善良”なのか? 哲学者・斎藤幸平が考える、資本主義の限界の克服法」

ルトガー・ブレグマン(以下、ブレグマン) 「世界を変えるのは小さなグループだ」――これは文化人類学者マーガレット・ミードの言葉にありますし、過去の歴史からも明らかです。良い例でいうと、奴隷解放や女性の権利獲得運動が挙げられます。ともに最初は少数の人々によって始められて広まっていったんです。悪い例ですと、ナチスドイツです。ヒトラーとその周辺の人たちによって、“悪への道”が始まったのです。いまの世界が直面している行き過ぎた資本主義や、気候変動問題をどう解決していくか。斎藤さんも、小さなグループが世界を変えると主張をなさっていますよね。

斎藤幸平(以下、斎藤) はい、政治学者エリカ・チェノウェスの研究にならって、3.5パーセントの人々が世界を変える、と主張しています。歴史を振り返ると、少数派の人たちが命を懸けたから、社会はよい方向に変わってきました。ただしその際には、多数派の人々が少数派の人々に対して、オープンなマインドを持つ必要があります。ヨーロッパでは、マイノリティの意見からも学ぼうという姿勢があるように感じます。一方で、日本では、なかなか当事者が声を上げても、マジョリティが耳を貸さないことが多い。

ブレグマン あくまで部外者としての私の意見ですが、日本の同調圧力が強いことも関係しているのではないでしょうか。たとえば法律で義務付けられていないにもかかわらず、人混みのない屋外でもマスクを着用し続ける。また、長時間労働も当たり前となっているようですね。しかし、「屋外でマスクをつける根拠はなかった」「週に70時間も働きたくないのは自分だけじゃなかった」とみなが気づけば、事態は急速に変化する気もしています。革命が起きるときは、1人が2人、2人が4人にと一挙に増えるものです。斎藤さんの『人新世の「資本論」』は、50万部近く売れていると聞きました。しかも若い人たちに読まれているということに、日本における変革への大きな可能性を感じています。

斎藤 多くの日本人は、現在の経済システムに満足していません。でも他に選択肢はないと思っているから、現行システムを続けているのです。そして、人口問題や、労働環境、気候危機も解決できないと諦めてしまっている。この状況を変えるために、『人新世の「資本論」』は、とにかく別の未来がありうるということを示すことを目指しました。でもそうしたことをやろうと思ったのも、資本主義への疑問、脱成長への共感が、欧州はじめ各国でも広まりつつあるのに触れたからです。ブレグマンさんは脱成長についてどう考えますか? 資本主義体制のまま気候変動を解決できると思っていますか?

ブレグマン 脱成長についてはじつは私自身、矛盾した思いを抱いています。たとえば資本主義の象徴のひとつである広告について言うと、昔の公共空間には存在しなかった種類の広告は、なくてもよいかも知れません。公共空間(コモン)を取り戻そうという斎藤さんの考えには同感です。ただし政治的なスローガンとして「脱成長」を掲げるのは、得策ではないかもしれません。「脱成長させますから、私に投票してください」と言うよりも、「成長させます」「豊かにさせます」と言った方が、人々からの支持が集まりますから。また、ここは斎藤さんと意見が違うかも知れないの ですが、私自身はテクノロジーには可能性があると思います。太陽光や風力発電なども技術の進歩があり、安価に利用できるようなりました。家畜の牛を食べることは環境に悪いかも知れません。1キロの牛肉を得るために、25キロの飼料が必要です。そのため、健康によくて美味しくて安価な代用肉のイノベーションが必要とされているのです。

斎藤 私も技術革新の必要性を否定しているわけではありません。けれども、技術がいくら発展しても、資本主義が大型化や計画的陳腐化を繰り返し、資源やエネルギーを浪費する限りで、環境危機を解決することができないのではないか。「成長しよう」「もっと豊かになろう」という人気取りを繰り返すことも、自分が次の選挙で勝つための無責任なスローガンだと、多くの人は気がつくようになっているのではないでしょうか。この点と関連して、もう一つ聞きたいのですが、資本主義の危機と並んで、民主主義の危機も深刻な問題です。今、日本では、AIやアルゴリズムを使った「無意識民主主義」という議論が注目を集めています。民主主義というシステムについてはどう思われますか。

ブレグマン 政治家を選ぶために数年ごとに選挙する間接民主主義は、じつは浅い考えです。そもそも選挙は、簡単に操られてしまいますから。じつは古代ギリシャの民主主義は真逆でした。選挙は非民主主義的だと思われていたんです。そのため代表は、抽選によって選ばれていました。間接民主主義を超えようとする試みは、現代でもあります。ラテンアメリカの一部の国では、市民が予算の使い方を決めるなど新しい試みを行い、うまくいっているそうです。市民を大人として扱えば大人として振る舞う、市民を無能として扱えば無能になるんです。だからこそ私は、ほとんどの人間は基本的に善であり、内なる力を秘めているという「新しい人間観」に基づいて社会設計をすべきと考えているんです。ちなみ にAIやアルゴリズムを使った資本主義や民主主義については、誰が設計するのか、という問題があります。

斎藤 私の本でも、バルセロナのミュニシパリズム(地域自治主義)を紹介しています。スペインでは消費問題相が脱成長を唱えています。より厳しい気候変動の時代を生きることになる若い世代がこの動きをとくに支持しています。そう考えると、10年か15年後には政治勢力図も変わるかも知れません。新しい経済の尺度も必要ですね。GDPだけではなく、環境への影響や人間の幸福度、社会の安全性などを測る尺度などです。たとえばGPI(世界平和度指数)を見ると、アメリカはナンバーワンではなく、ヨーロッパ諸国の方がランキングは高いのです。世界の見方を変える必要があります。

ブレグマン 歴史を見ると、大胆な変革には時間がかかることが多いです。奴隷制度の廃止には2世紀以上かかりました。米国での女性解放運動も1世紀かかりました。これは一般論なのですが、ほとんどの人は30歳を過ぎると変化を好まなくなる傾向があります。日本は高齢権力者が支配している社会なので、とくに停滞しています。

けれども気候変動を回避するために残されている時間は短い。なので、つい悲観的になってしまいます。もしこのまま気温が2度、3度と上がったときに、科学者が示す未来予測は恐ろしいものです。多くの死者が出るかも知れませんし、エコシステムも壊されるでしょう。じつは私の住むオランダは、国土の一番低いところが海抜より7メートル低いんです。ですから地球温暖化への危機感も半端ではないのです。

斎藤 だからこそユートピア的な思想が必要ですね。戦争やパンデミックは、地球環境やわれわれの生活を悪化させてしまう。もし希望を捨てて受け身になれば、さらに悪いかたちの戦争、差別や暴力が生まれるのではないでしょうか。これらのバックラッシュに負けないように、民主主義を打ち立てないと。その意味で、今日ユートピア主義というのは現実主義なのです。

上掲「「資本主義体制のまま、気候変動を解決できるか」と問われて…世界が注目する論客、ルトガー・ブレグマンの回答は?」
  • 主張その1「SDGsでも生温い。一刻も早く脱成長社会へ!!」…結局は多変数解析に基づく数理的状況コントロールに過ぎないSDGsに対して「そんな既存のやり方では地球はもたない」と一喝して人気を集める。「脱成長社会=高度成長期の恩恵に浴した団塊世代の綺麗事」を久し振りに肯定したのが50万部近い大ヒットの要因?

  • 主張その2「世界人口の3.5%が企業でもなく上からの国有化でもない「コモン」を形成する事により世界を救う」…その様な「社会を変えるコモン」の一つとしてNSDAP(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=国民社会主義ドイツ労働者党)やSA()Sturmabteilung=突撃隊)の名前も挙がるが、どうすれば「正しい」コモンだけを剪定出来るかについては一切論じられてない。

  • 疑問点1「それ本当に「マルクスの考えた事」なの?」…どちらかというと現在のマルクス主義の「資本主義より我々の方が上手くやれますよ」論の「必要なら暴力革命も起こします」の部分を「少数精鋭体制のコモン形成によって代替可能」と置き換えただけにしか見えない。

  • 疑問点2「勘違いして節約生活に入ったり、真逆に刹那的になってブランド品を買い漁る若者達」…実はこの考え方に魅せらた若者達に「コモンを形成せよ」なるメッセージ自体は届いておらず、ただ世紀末の「ノストラダムスの大予言」みたいに「単調な日常にショックを与えてくれる」ある種のエンターテイメントとして商業的に消費されているだけなのでは?

疑問点3「裏側で良くない人達が跋扈してる感じがする」…あくまで資本主義の枠内で「資本主義はもうお終い」と人気取りの発言をするだけの芸人枠?

こうして情報を追っていく過程で公定ナショナリズム論で著名なベネディクト・アンダーソン(Benedict Richard O'Gorman Anderson、1936年~2015年)の「アメリカ独立運動やフランス革命やパリ・コミューンの実態がどういうものだったか、それが当時どういう意味を持ったかなど後世には一切関係ない。ただその様な出来事が実際にあったという現実そのものが人類を救済するのである」なる粗雑な理想論的極論を思い出しました。

  • 最近の例では「アラブの春(The Arab Spring、2010年~2012年)」や、その余波として発生したスペインの「インティグナドス運動(2011年)」、ニューヨークの「ウォール街を占拠せよ運動(2011年)」、トルコの「タクスィム広場運動(2013年)」、香港の「雨傘運動(2014年)」、台湾の「ひまわり学生運動(2014年)」、そしてさらには「シアトル解放区」事件、あるいは「キャピトルヒル自治区(CHAZ)」事件(2020年6月8日-7月1日)など。その多くは悲劇的結末を迎え、何の成果も残せなかった。

結局、環境マルクス主義が目指す最終地点はここ?

労働者自主管理の原義は、勤労者たちが会社(オフィス、商店、工場など)で働く際に他者によって管理されるのではなく、権利として自分たちで自分たち自身を管理し、その結果責任を当然に負うこと。民主主義思想が政治の領域から経済や産業の領域に進出して生まれた社会思想である。旧ユーゴスラビアにおいて企業の労働者自主管理をシステムの基軸とする自主管理社会主義が1950年から1990年まで40年間にわたって全社会的に実験された。

思想は実践を通して社会を把握する。この管理する他者が資本の私的所有者とその代理人であるような経済社会を資本主義といい、資本の国家的所有の人格的表現者としての国家官僚であるような経済社会を国権的社会主義(ソ連型社会主義)という。

このような労働者自主管理の実践は、ソ連型社会主義諸国における改革運動や反体制運動に、たとえば、1968年チェコスロバキアの「プラハの春」や1980年ポーランドの独立自主管理労組「連帯」の運動に大きな影響を与えた。

1990年、ロシア・東欧のソ連型社会主義と同時に旧ユーゴスラビアにおける労働者自主管理の社会主義体制もまた崩壊する。その根本原因は、(1)経済活動や公共サービスの種類・性質を問わず、一律に平板的に労働者自主管理を実行した組織論、(2)ブルーカラー(肉体労働)をホワイトカラー(精神労働)より優位におく原始的社会主義のイデオロギー、(3)集団的意思決定の過剰と個人的意思決定の過少、(4)集団的意思決定の補完としての過剰な規範主義、(5)自主管理思想が原理主義化し国家官僚制の理論的承認ができなかった結果としての、責任感ある国家官僚制の創出の失敗、(6)市場メカニズムと協議システムの不整合、にあると思われるが、さらに究極の原因は、ユーゴスラビア共産主義者同盟の一党支配体制にある。

上掲コトバンク「労働者自主管理」

「政権交代至上主義」から「議会制民主主義の枠内における政策政治」へ

「第三世代フェミニズムの最終到達点」同様、多変数解析による問題解決手段最適化をSustainabilityの「手段として選ぶ立場は遅かれ早かれ最終的に掲題の様な結論に到達する様なんです?

さらには…

こうやってとりあえず21世紀全体を俯瞰する観点の一つに到達した時点で、以下続報…

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