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デパス中毒だった私…

第1章 パニック障害の始まり…

彌生です…

私が初めてパニック障害になったのは29歳の時です…

その頃は青山の骨董通りにあるブティックに勤めていて、店長が超変わったババアで、いや?あちらから観たら私が変わっていたのでしょう…

船橋の自宅から2時間かけて通っているババアで「大変ですね、近くにマンション借りたらどうですか?」と言うと

ワタクシ!!!!一人暮らしなんかする人間じゃありません!!!!嫁入り前の娘がふしだらな💢💢💢💢😳😳😳😳😳

そんな凄い家柄なのに販売員ですか?🤷‍♀️

とにかく、結婚しているわたしが大嫌いだったんでしょうね、私が何気にため息😮‍💨をつくと…

大変ですわね、ワタクシの友達は結婚したら、皆んな家庭に入って主婦ですわ、働いている人はいませんの…笑


とにかく、バケモノみたいなババアで、あっ!年齢は当時36歳でした、ある時久しぶりに彼氏が出来てるんるん🎶でもう舞い上がり…

ワタクシ、彼の年収で選びましたのよ、ホホ…


私がすんごい貧乏で旦那が甲斐性なしな男と思い込んでいたんですね…

ある日、夫が部下を引き連れてブティックに来て、皆んなにホワイトデーのお返しを買わせている風景をみたら(ブティックは部屋着のブランドで、みんなお洒落なショーツとか買ってプレゼント用に包装しました)

怒りが爆発💥

私と全く口を聞かなくなり…


雨が降っているから「嫌な雨ですね」「そりゃそうですわよ💢」朝からの会話はこの一言だけ…

私は我慢出来ず、会社に何回も「移動願い」を出しましたが、なにしろ、いわく付きの店長、部下が次々と辞めて行くから会社は「彌生なら大丈夫だろう」と勝手に「白羽の矢」を立てたんですが、「大迷惑」なんですよ💢私は辞めて行った人の気持ちが染み染み分かりましたね…そして、ひたすら我慢の日々…

それが一番の原因だったと思います…

私だけ我慢を強いられ押し付けられて、私がいくら上司に訴えてもスルー…もう辞めようかな?と思っていたある日

吉祥寺から井の頭線の先頭車両に乗り、私は座っていたのですが、凄い通勤ラッシュで余りの混みようで、人が私の上に息が掛かるほど被さり暑い日でした…そうしたら…

いきなり動悸が激しくなり、汗が吹き出し、過呼吸になり、電車から飛び出したいのに出来ない恐怖に襲われた…


本当にムンクの叫びです…それから私は電車に乗れなくなりました…


第二章 苦しみの日々

1回目の電車の中の発作から…

私は電車に乗れなくなりました… 

とにかく「またなったらどうしよう😨」の恐怖心が凄いんですよ…

特に急行に乗れないんです、何駅もすっ飛ばしてくれて便利なんですが、怖くて怖くて閉じ込められた中で途中で発作が起きたらと思うと、もう無理なんです…

仕方ないから3時間かけて通勤しました「各駅停車」に乗り過呼吸になったら電車を降りてホームのベンチに座り、深呼吸😮‍💨して呼吸を整えてから、思い切ってまた電車に飛び乗る毎日…

身長は162センチなのに体重は40キロ切るまで落ちて行きSサイズを更に詰めて着ていました…

会社に行くと、余りの私の激痩せぶりに上司はビックリして「大丈夫?」と聞いてはくれるが、私が「あの店は移動させてください」と言うと沈黙してスルー…

余りの辛さに日赤や女子医大や有名な病院はかなり周りましたが「医学的に問題無し」なんですよ…ある医師からは「気のせいじゃない?」ですから、あの当時の医学は今に比べたら本当に遅れていたと思います…

今なら「この患者はメンタル系だな、そっちに紹介状を書いて回そう」になるんですが、内科的には問題ないので、門前払いなんですね

当時は私は吉祥寺に住んでいて、休みの日にブラブラと歩いていたら…

ふと上を見たら「心療内科」の文字が目に飛び込みました、心療内科?何?ちょっと行ってみよう…

そのビルの2階にある「診療内科」に吸い寄せられる様に入って行きました…


第三章 デパスとの出逢い

初めての「心療内科」そもそも「診療内科」って何?の世界…

ドクターは初老のシルバーヘアをオールバックにしたイケオジで「どうしました?」と聞くので、急に電車に乗れなくなり生活に支障がある事、過呼吸、動悸が激しく辛いのに、どの病院へ行っても何処も何とも無いと言われて困っている事などを話したら…

自律神経失調症ですね、お薬を出しておきましょう…デパスという薬ですが、失礼ですが、彌生さん妊娠していますか?していない…では妊娠したらこの薬はやめてください。

そう言われて、初めて薬を貰いました、どの病院へ行っても門前払いだった私は初めて貰う薬にホッとしました😮‍💨

家から歩いて5分の所だったので、心強かったのを覚えいます、今ならスマホ📱でググれば自律神経失調症なんてスグにわかりますが、全く調べる手段も無くて医師から言われた事をただ信じるしか出来なかったし、そもそも「パニック障害」なんて言葉もまだ日本には入って来ていない時代でした…


そして家に帰り、ベッドに横になりその薬をのんだら…

何ともいえない高揚感が出て、フヮ〜〜とした良い気分になり、そのまま熟睡しました、本当に久しぶりの熟睡でした、気持ち良い…

目覚めたら、まだ気怠い気持ち良さで…

なんて良い薬なの💖そう思いました…

それからは電車に乗る前にデパスを飲み、寝ながら終点の渋谷まで行けて、かなり楽になりました….

ある日店長に「彌生さん!この前指示した事まだやってないじゃないの?なんでやらないの!」と怒鳴られました

そう言われる事が増えて来て、私は指示された記憶が全く無く忘れている事に気がつき、それから必ずメモ📝する様にメモ帳を常に手元に起きメモする習慣を身に付けました

私は今でもメモ魔です、今はボケ防止なんですが、スマホ📱に必ずメモをしています、災い転じて福をなすですね。


第四章 私の後悔

まさか、自分の記憶が飛んでしまうのは薬の副作用だとは思ってもいませんでした…

私は結婚して寿退社をしたのですが、6年間も子供が出来ず、様々なマネキンの仕事をしていました(マネキンとは販売員の人材派遣会社に登録していろいろな仕事を紹介して貰う販売員の名称です)

例えば水着やスキーウェアの商品を販売したりとハウスマヌカンより商品はダサいが楽しかったですよ、水着などは私は常に成績はトップでかなりなギャラを貰っていました

私の親友が「子供も出来ないんだし、会社に戻らない?」と声をかけてくれて正社員の方が保険だ年金だと煩わしくないから戻ったんですが、甘かったですね…

後悔しています、戻らなければメンタルをやられる事はなかった!!!!しかも親友も助けてくれなかった!!!!助けてくれる立場なのに、ひたすらスル〜されてしまった、親友じゃなかったと今は思います。

とにかく、毎日毎日ひとつの空間で一日中、会話も無くて暇なブティックで、デザイナーの先生が道楽で始めた、部屋着ブランド…

売り上げゼロなんてザラで、すると店長が商品を買い、次のゼロの日は私が買うという毎日…お客様は来ないから接客なし、店長とは会話も無し…

私もいい加減キレてましたから、私から話し掛けるのも一切辞めました、閉店前のレジ締めも無言です、このバケモノみたいなババアとは話すのも汚らわしいと思っていました、何故か怒りが沸々と湧いていました

そんなある日、月末の棚卸しの時…

私はいきなり過呼吸の発作に襲われて、救急車で店から病院へ運ばれました…

会社は誰も私を庇ってくれない、助けてもくれない、私はあの会社が大嫌いです💢

ますます私は薬を飲む様になりました…

本当に昔の会社はまだ良かった、少なくともその会社の服が好きで誇りを持ち売っていたのに、6年のブランクの後会社は大きくなり過ぎ変な販売員ばかりになり、仕事が終わったらCHANELにお着替えしてデートにいく人間、店長も自社ブランドを着ないでソニア.リキエルの服しか着ないハウスマヌカンなんてもういないのを実感しましたね。

ひたすら薬を飲んで寝る生活が増えました…

今でもあの会社は憎いです、考えたくもないですね…

第五章 夫も理解してくれない

夫は私の苦しみをサッパリ理解出来ず、私が愚痴を言うと黙って聞いてはくれますが「お前、現実を見ろよ、お前の年齢で正社員で雇ってくれる会社なんか今時無いぜ、然も皆んな憧れている会社なんだぜ」しかし、夫の会社は更に凄い発展を遂げて私の会社より凄くなっていました。

私は夫の会社からも誘われていたのですが夫は嫌がり、仕方なく今の会社に出戻ったのです…

「一回はブランドリーダーまでなったんだし、頑張ってまた上を目指せよ」と励ますばかりでした、私は店長とかブランドリーダーなんか目指していないのに…

頑張れ!!!!🫨

頑張れ!!!!🫨

頑張れ!!!!🫨

頑張れ!!!!🫨

もう「現実」しか押し付けて来るだけ…

どれだけ私が命懸けで電車に乗っているか全く理解しない…

精神病って「真面目」な人がなるといいますが正解だと思いますね…

ある時、仕事帰りに電車の中でまたまた発作が起きて、明大前でタクシーに乗ろうとしたらカネが無い、その当時はコンビニATM🏧なんて無いから困ったもんです、私は交番まで歩いて行き…

すみません、体調が悪くて電車に乗れないんです、申し訳ないですがお金を貸してください。

警官の方はビックリしていましたが、親切にも5000円貸してくれました、今思えば、実に変な人間ですよね。

だんだんと行動も変になって来ました

タクシーに乗ってヘロヘロになって帰っても夫は「どうした?」と言うには言うのですが「薬、飲んで寝れば治るよ」ですから、夫も私が「精神病」とは思ってもいなかったのでしょう…

私が働いていれば生活は豊かになるし、辞めたら○○万のカネが無くなると困るしとか考えていなかったのはミエミエで私は夫を憎む様になって行きます…

なんでこの苦しみをわかってくれないの… 

そしてデパスを浴びる様に飲み続ける毎日…

本当に理解者がいないのは辛かった… 

然も体調が悪くて仕事を休むと…

彌生は旦那が会社が休みの土日に休むと噂されて私は限界だと思い遂に会社を辞めました

本当になんなんでしょうね、送別会すらしてくれなくて「お疲れ様」の一言も無い酷い職場…

親友はあの会社の同窓会とか参加していて、あの会社にかなり思い入れがある様ですが…

私はアイツたちの顔は一切見たくない!!!!

懐かしさなんて皆無です…

懐かしいのは最初に入社した9年前のみです


第六章 デパスは絶対にダメです

もし、私の友人、知人がちょっとメンタルに疲れて、行った病院でデパスを貰い「彌生、この薬飲んでも大丈夫かな?」と質問されたら…

NO!!!!!絶対にダメ!!!!!🖐️
そう言い切りますね…

こちらのドクター…

悪名高いデパス!!!そう言い切っています…


私が飲んでいた「デパス」って「抗不安薬」だったんですね、だからあんなに気分が良くなるんですね…


デパスを飲んで落ち着くなら良いのでは?


そうなんですよ、知らない内に「依存」しているんですよ、やめられなくなってしまうんですよ


私は正に「依存症」になっていたのだと思います。辛い現実から逃げて薬で「ほゎん」とした気分になっていた…

後に子供が2人生まれて、母は「今度こそ愛人の本田と別れるから、頭金も少し出すから」「私は孫に囲まれて老後を過ごしたいの」と言って来たので、夫も腹を括り母との同居を決意して自然の中で暮らそうと山梨に家を買ったのですが、私は本田が大嫌いだし、大反対したのですが、夫は年齢的に「そろそろ家が欲しい」と思っていたし、母の正体を理解していませんでしたね…

引っ越し当日、母は来ません本田と妹と京都に旅行です、引っ越し屋が運んだ膨大な荷物を夫と2人で運び、私たちの部屋にする筈だった所に置きました、夫は話しが違うと私を責め立てました、私はまたまた浴びる様にデパスを飲みました…

山梨の大自然が私を呑み込みそうでした…


私が今も山や川が大嫌いで癒されず、都会のビルの谷間が好きなのはそんな訳です…


第7章 崩壊していく私…

夫と母の関係は最悪で、夫は母を信じて同居したのに、愛人と別れずしょっちゅう旅行に行き「あの、詐欺ババア」と読んでいました…そして…

俺はお袋さんの入った風呂には入りたくないから俺が帰ってくるまでに風呂を綺麗にしておいてくれ💢

私は母を午後に風呂に入ってもらい、風呂場を洗い、夫が帰って来たら風呂に入れる様にしました。

そして会社から帰って来たら、ひたすら小声の連続…私はそれを聞くのが嫌でデパスを飲んでウトウトと身体が揺れて聞いているのかいないのかわからない状態…

夫はキレて💢真面目に聞かないならいい💢そう言って私にタバコの箱を投げつけます、そしてまたまたデパス…


もう身体を求められても嫌で嫌でたまらないからデパスを飲んで相手をする日々….

私は明らかにおかしくなって行きました、ある日、母がキレて💢自分が夫と上手く行かないのは全てお前がいけないんだ!!!!この野郎!!と長靴を玄関から持って来て私をボコボコに殴りました…

私は「殺意」を感じて、子供2人を車に乗せて、夫の実家の名古屋に中央高速に乗り逃げました、運転は大嫌いでペーパードライバーでしたが、とにかく怖いんですよ、高速道路を初めて運転なんて今思えば無謀なでしたが、それだけ母が怖いし、母と夫の板挟みが辛いなんてもんじゃない、ひたすらアクセルを踏みました。

息子はもう小学3年生くらいでしたが、かなり緊張していましたね、私が運転なんて滅多に無い上に高速道路ですから、娘も幼稚園の年長さんで、2人で緊張して乗っていました。

今、冷静に考えると、明らかに私の行動は衝動的でおかしいと思います…変ですよ…

やっと名古屋に着いたら、ゆっくりして行きなさいと言われると思ったら、舅に正座をさせられて全て嫁のお前が悪いと、こんこんと説教をされ、息子とお前の母親の仲を取り持つのが、お前の仕事だ!!!!帰れ!!!!そう言われました、酷い義両親です、麦茶も飲ませてくれない

夫の実家は実に「普通」なんですよ、普通だから却って変わっているし、母の正体をしらないんですよね

良かったらこちらを読んでください、母の正体が分かりますので…

私は何処にも逃げ場が無い、自宅近所ではしょちゅう母が叫んでいる「変な家」特定です、何処に逃げれば良いんでしょうか?ママ友もいない、孤独な私…

ある日私はデパスを全部飲みました、もう限界です…早くこの世からおさらばしたかった…


病院で目覚めた時…

良かったママ!!!!子供たちは叫び!!!夫は
彌生!!!!そう叫んでいましたが、私は目覚めたのが残念で顔をしかめました、本当にガッカリです、今でもこの日の私の態度はムカついたと子供たちに言われますが…


私は本当にガッカリだったんです、だって生きていたく無いんですから、この世から消えたいんでから…

しかし、これから私は何回もオーバードースを繰り返します、本当に生きるのが嫌で嫌でたまらず、おまけに薬の副作用で私は太ってトドの様な姿になってしまいました…


King Gnuの「Prayer X」素晴らしい曲だと思います、正に病んだ人間を写し出した傑作です…


あの頃の私は、本当に未熟でなんでも「母のせい」「夫のせい」となんでも人のせいにばかりして生きて来た、どうしようもない甘ったれだったと今は思います、もっと自分と家族と向き合うべきでした、何でも一人で抱え込んで自爆ばかりしていた、息子は今でも彼女が出来ると私のオーバードーズの話しをします、それだけ傷付いているのでしょう、申し訳無いとおもっています…

第八章 ヤバかった病院

私はオーバードーズに加えてリストカット、摂食障害も起こす様になって行きました…

バカみたいに大食いして吐くを繰り返し、カミソリで手首を斬るの繰り返しで、蛇口の水をジャージャー流しながら手首を斬り、それを見つけた夫が止めるんですがドラマみたいに死ねないんですよね、あれはかなり深く切らないとダメなんだと分かりました、今でも左手首にリストカットの跡が数本残っています…

しかし子供たちの悲しい顔を見て「このままじゃいけない!なんとかしなくては!」と考える様になりました…

母はもう私に見切りをつけて埼玉の本田の元へ引っ越しして、空いた12畳のだだっ広い部屋で一人で布団を敷いて寝ていました…

子供たちはソッと私を覗きに来ていましたが、明らかに私を恐れていましたね、だだっ広い部屋に変わり果てた母親が一日中布団を敷いて寝ているんですから…

家事全般はなんとか頑張ってやりましたが、クタクタになってしまうんです、もうフラフラなんです、しかし幼い子供たちには私を理解する知識も経験も無いのですから、母親を恐れるのは無理ありません。


こんな顔をしているのですから、メンヘラの母親、申し訳なかったと今も悔いています。

私は「このままではヤバい!!!!」そう思い、思い切って始発の電車に乗り精神科のある大学病院へ行く決意をしました…

まだ薄暗い始発の駅の光が美しく輝いていて「なんて綺麗なの…」「もしかしたら助かるかも」そう思いました…

私は何かに導かれる様に病院へ行き、その当時は「紹介状」も無しに診てくれました…

精神科のドクターは中年の優しい感じの方で、私の話しを真剣に聞いてくれて、私はデパスをくれる医師以外は初めての精神科経験だったのですが…

そんなに悩むなら離婚した方が良くないですか?そうキッパリ言ってくれました…

そうかもしれない…

このデパスはどの病院で貰っているのですか?

…あの、送って貰っています…

えぇ!!!!診察もせずに薬だけ送る????


かなり驚いていましたね…

このデパスを送ってくれた病院は遠方の患者さんには精神薬を送ったいて、後に誰かが保健所に告発して閉院に追い込まれました。

違反行為だったんですね…

後に私は障害年金を申請する為に社労士さんと悪戦苦闘しますが、障害年金は初診の病院の診断書が必要で病院はもう無い、大学病院のカルテを開示して貰い調べると「床鍋病院」とハッキリ書いてあり、初診時、精神錯乱、デパス依存、入院必要となどなどいろいろ書いてありました。

次の受診は夫も同伴でした、医師は「奥さんは入院が必要です!!!!」キッパリ言ってくれて、私は号泣しました。

しかしこの大学病院は毎年3月になるとドクターが変わるんです、長年通いましたが「このドクターは良い人だなぁ」と思った人はあと1人だけ、私は精神科のドクターはかなり当たり外れがあるのを知りましたね。

大学病院は精神科の入院施設が無くて別の病院を夫といろいろ観て周りましたが、異常な私が見ても異常な人だらけで夫は「俺は入院に反対だ却って悪くなるぞ」私も「ここに入院したらもう出れないかも」そう思いました…

デパスの代わりにパキシルという薬を貰いましたが、やたらと目眩がして辞めました。

私は懲りずに夫に内緒で床鍋医院からデパスを貰っていました…

明らかに依存症です…


第九章 私は反面教師

夫は床鍋医院から送られて来るデパスを隠す様になりました。それを私が必死になって探して、ある時はジャケットのポケット、ある時は食器の中、直ぐに見つけてしまうんですよ笑

私がどうやってデパスを辞めたのか記憶にありません、ドラマみたいな禁断症状とかは無かったですね、やはり大学病院の医師が次々と新しい薬を試してくれている内にデパスを自然と飲まなくなったが正解ですかね?

ドクターも「彌生さん、せっかくデパスを辞められたんだからこの調子で行きましょう」と言ってくれるまで回復して行きました…

そう言われて「そうだな、この調子でデパスは忘れよう」そう素直に思いました…本当に禁断症状は全く無かったです。不思議ですね。

あと「いびき」をかかなくなりました。

夫が「お前、いびきをかかなくなったよなぁ〜〜、凄い、いびきだったよなぁ〜〜」と染み染みと言いました…

子供たちも喜んでいるのもわかりました、伝わって来ました… 

やっとデパスからは脱却出来ましたが、未だにメンタルクリニックに通い精神薬は飲んでいます…

オマケに障害者手帳に障害年金も貰っています…

息子は現在ドイツ在住ですが、息子に「ドイツってマリファナが合法になったんでしょ?何処で買えるの?」そう質問したら…

知らないよ💢

吐き捨てる様に言いました…

俺、オカンみたいな依存症にはなりたくない!!!!麻薬なんて絶対にやらない!!!

…私はいい反面教師なんだね…

だけどね、オカンは思うんだけど、人間皆何かに依存して生きていない?ある人はタバコ、ある人は愛情、ある人は宗教、ある人はカネ、ある人は酒、ある人はカラオケ、ある人は読書、様々だよね…

人間、何かに依存しないと生きて行けない動物なんじゃないのかな?

…その通りだな、人生いろいろだから…

そう言って笑い合いました、私の子供たちはあんな経験をしたのに曲がらず育って本当に感謝しています…神様ありがとうございます…

ここまで来るのに何十年かかったか…

人生いろいろ…


私は演歌はあまり好きではないですが、この歌は傑作出し歌詞が素晴らしいですね…

私はこのままでは終わらない、前だけを見て、失った人生を取り戻してみせる、精一杯生き抜き「ありがとう」と言って人生を終わってるみせる、素晴らしい人生にしてやる!!!!!

続きます…


#創作大賞2024
#エッセイ部門


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