「話す」が遠くなる
知人で、会話(会って話す)にはなるけれど、対話(対等に話す)にはならない人がいて、なんでだろう?とここ最近は悶々と考えておりました。
一つのテーマが落ち着かないと次のテーマには移れず、けれどようやく客観的に整理できる手がかりが見えてきたので、こうして書くことを通して解きほぐしてみようと思います。
「話す」とは自分の意志を示すと言うことで、「話さない(=黙る)」とは自分の意志を示さないと言うこと。
よくある事件のシーンで「お前がやったんだろ?早くやったって言えよ!」と言われ、やってないのに「やりました」と言ってしまうと、自分の意志としてみなされてしまうように。
たとえ伝えたい意志があろうと、「話す」としてアウトプットされたものは真実として捉えられてしまうから慎重になる。緊張もする。
自分一人で決めているようで実は周りの環境の影響も大きく、相手の巧みな話術によって自分が予期しないことを話す(口走る)ことだってある。
根底で望んでいた潜在的な欲求(例えばお金がほしいだとか言ったら楽になるだとか)を呼び起こされて、望んでいなかった結果に辿り着いてしまうこともある。
話すとは、意志の塊だから。
では「聞く」は?と言うと、相手の意志を受け止めること。いえ、受け止めようと努める、くらいかもしれません。
受け止められたと感じるのは話し手なので、うわの空で空返事だったり、ずっと携帯を触りながらの場合は「聞こうとはしているけれど、聞いていない(話し手から見て)」状態になる。
話すは一方的なのに対し、聞くは双方の同意があってこそ成立するもの。話しっぱなしはあっても、聞きっぱなしはないように。
冒頭に戻ると、会話(会って話す)にはなるけれど、対話(対等に話す)にはならない状態というのは、どちらか一方がずっと話しっぱなしなんだろうと思うのです。
話すという行為を通して、ひたすらに尽きるまで自分の意志を浴びせ続ける。
聞き手である相手が話すという行為を通して意志を示そうとしても、聞く姿勢は見せるけれど、自分の話すの中に飲み込んでいく。ずっと私のターン。
おそらく前者は「話す」が得意なのでしょう。
言葉は饒舌で、(強制的に)聞かせる話術も持っている。自信があるからこそ、相手が何を言おうとしているか?よりも話し方に目がいき、指摘する。
声が小さい、聞こえない、伝わらない。
もちろん話し手の努力も必要だけれど、それは聞き手が歩み寄ることではじめて成立する。だって聞くは双方で協力してつくりあげるものだから。
そうして聞いてもらえず、話すことを諦めていく。
言葉だけの問題ではなくて、だったら海外の方と話すときの方がよっぽど聞けているはずで。言葉が通じないからこそ、聞こうと努めるのだし、話そうと努める。
この「〜そうと」というのが、相手への態度を表すのだから、もしかしたらここを問われているのかもしれない。
こんなにも熱く語ってしまうのは、ただ単に愚痴として怒って誰かに理解してもらいたいわけではなくて、自分にも思い当たるところがあるからなのです。
昔、仕事で仲の良い同僚がいました。
何でも話し合える中で、私よりも相手が話し下手、聞いてもらえることを良いことに自分が話しまくっていた。
その人は聞くのが好きなんですよと言っていたけれど、
夢中になるほどにひたすらに話して、飲み会が終わる頃には8割型自分が話してしまったほどに。
会話の平等さは発言量であるべきだなと思っていて、どうにかして5:5の割合で自分と相手が交互に話すのがいいのではないかと思っている。
思っているけれど、聞いてもらえることに甘えて、ついつい話してしまう。本当は話したいかもしれないのに。
あぁ、話すが遠くなる。
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