文章ならうまく伝えられるのに。
以前付き合っていた人に
「書いて何かを伝えようとすると、自分をよく見せようとして美辞麗句で飾ってしまう。悪い意味で体裁を整えてしまう。だから良くないんだ」
というような事を言われた記憶がある。
何が「だから」なのか覚えていなけど、ショックを受けると共に確かにそうだと思い、そして私は否定されたと感じた。
なぜそんな話になったのか、一般論だったのか、私だけに向けた話だったのか、何を意図してそう言われたのか。
今となっては思い出せない。
その時の私は、
貴方の書いた文章は嘘です。貴方は嘘つきです。
と言われたと受け止めて呪いとして残った。
ふと思い出す。
Twitterで書いた文章を推敲しているとき。
noteに何かを残そうとしている時。
正しく伝えようと表現を探っているのか。
自分を良く見せようと恣意的に表現を曲げているのか。
呪いの言葉を思い出して書くのをやめてしまうときがある。
私には普段から意識していることがある。
「辛い辛いと言うだけのかまってちゃんじゃなくて弱音は吐くけどポジティブに考えられる人。人を思いやれる人。」でありたいと思い、そう見えるような言葉を選んで発言をしている。
無意識な時もあるけど、意識的に戦略的に言葉を選んでいる。
ゆっくり考えて文章を書く時は「そうありたい自分」に沿った言葉を選ぶことができる。知っている語彙の範囲内で、できるだけそう見えるように熟考できる。
でも、話すときはそうはいかない。
とっさに出てきた言葉をつなぎ合わせて発言する。私は落ち着いて考えて話すことが苦手だ。言った後に、ああ言えば良かった、こういえば良かった。メールだったらもっと違う事が言えたのに。と悔やむことばかり。
文章の私と喋る私には乖離がある。
「書いて何かを伝えようとすると、自分をよく見せようとして美辞麗句で飾ってしまう。悪い意味で体裁を整えてしまう。」のは事実だ。
でも今の私はそれを悪いことだと思わない。自分を嘘つきだとも思わない。
だってそれは「そうありたい自分」に近づけるように努力した結果だから。
文章ならうまく伝えられるのに。
だって「そうありたい自分」になる過程段階にいるのだから仕方ない。
今の自分を否定しないように。
という自分への戒めとしてのnoteでした。