『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)の焦点、山口一太郎大尉と、探偵役の林逸平憲兵軍曹について
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8月刊『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)について、このお話の焦点である山口一太郎大尉と、彼の行動を追う探偵役、林逸平憲兵軍曹について紹介します。やっぱりミステリといえば、犯人と探偵役が大事ですからね!(なお、本作は誰が犯人か【フーダニット】が問題になるのではなく、なぜ犯人がこのような行動を行ったのか【ワイダニット】が問題になるので、犯人は最初から明らかです。もっとも……ネタバレはこの程度にしましょう)
焦点・山口一太郎大尉
実在の人物です。
本作は二・二六事件直後、逮捕抑留された山口一太郎が黙秘するところから始まり、彼がなぜ二・二六事件に深く関わったのかを探偵役の林逸平が調査する流れとなっています。
この人物、なかなか面白い人です。
父親も陸軍軍人(最高位中将)という軍人家庭に育ち、陸軍士官学校を卒業、かなりの成績優秀者であったようです。しかし、陸軍大学校からの参謀コースを目指さず(註:当時、陸軍内で出世しようと思えば、陸軍大学校を卒業、参謀となってエリートコースに乗るのが一般的でした)、技術将校の道を進むことになります。技術将校とはその名の通り、軍の兵器開発に従事する特殊兵科です。山口一太郎は技術将校として様々な成果を挙げています。航空写真機のコピー、機関銃・機関砲の開発、電話盗聴器開発への協力などなど挙げれば切りがありません。とにかく、山口一太郎という将校は、一般的な軍人とは違うノリの方だったようです(実際、ある人物の回顧録には山口について「貴公子のようだった」と書かれています。また、仲間内では「ワン太」と呼ばれていた様子です。なんか可愛いですね)。
しかしこの山口大尉、随分早い時期から政治的活動をしていた様子で、昭和期に入って激化する陸軍内の政治運動にも身を投じ、ついには二・二六事件を起こすに至る青年将校たちとも付き合いを深めていきます。
そしてこの人物、二・二六事件当時、天皇の侍従武官長を務めていた本庄繁の娘婿で、どうやら本庄繁を通じて天皇に工作をしていた様子なのです。この辺り、証拠はそう多くないのですが、二・二六事件当時、本庄がやけに青年将校の肩を持つような発言を繰り返している様子が『本庄日記』にも残されています。
本作においては、山口が本庄を通じて天皇工作をしていたのでは? という疑惑から、探偵役の林逸平が専属で彼の調査を行なう流れになっています。
ここからは完璧に余談ですが、山口一太郎大尉、残っている逸話の数々を見るに、かなり面白い人です、というか、変人側の人です。詳しくは本編に譲りますが、逸話の端々に、頭が良すぎて色々振り切ってしまっている人特有のヤバさが滲んでいます。
個人的に、本作は、軍という閉鎖空間の中で、ぎりぎり居場所を得ていた変人の鬱屈を書いた話であったように思われます。そして、変人に存在する、普通の人たちへの愛惜の情とか。
探偵役・林逸平憲兵軍曹
この人物は実在しませんが、元ネタは存在します。
大谷敬二郎『憲兵』(光人社NF文庫)に曰くーー
大谷敬二郎氏がこの際に述べた「林軍曹」は口から出任せの存在(しかも下の名前は「健太郎」)なのですが、本作では、この「林軍曹」に元ネタがあって、それが「林逸平」だったという設定です。実はパイロット版ではそのまま「林健太郎」だったのですが、諸般の事情で「林逸平」となりました。
本作の林逸平軍曹は極めて優秀。若くして憲兵軍曹となり、地道で着実な働きぶりから「忠犬」の渾名がついた優秀な男でした。しかし、少し前に神経衰弱となり、当時の上司の計らいで休職扱いになっていたものの、二・二六事件の勃発により呼び戻され、山口一太郎大尉の思想調査に当たることになります。
軍曹(下士官)なので気苦労が絶えないポジションでありつつも、憲兵としては極めて折り目正しく、軍外の人間にも丁寧な、当時の軍にあっては特殊な立ち位置の人物です。そうした彼のパーソナリティ形成には、彼の生まれ育ちが関わってくるのですが……、ネタバレはこれくらいにしましょう。
とにかく、彼は上司の大谷敬二郎と共に、山口一太郎大尉の謎に迫っていくことになります。忠犬・林逸平は何を見たのか。そして、逸平がたどり着いた真実はいかに。
番外編 バディ? 石原莞爾
実は本作、林逸平憲兵軍曹のバディ? 的な存在として、石原莞爾が登場します。
言わずと知れた有名人ですね。満洲事変当時の関東軍参謀(当時の関東軍司令官は前述の本庄繁)で満洲国設立の立役者、と、とんでもない実績を持った軍人ですが、変人の逸話に事欠かない、陸軍の有名人です。二・二六事件直後は戒厳司令部の参謀を務めています。
この石原が、なぜか林逸平の捜査を手助けします。なぜ? このなぜもまた、本作の大きな謎となります。