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『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)の時代考証の苦労話つぶやきまとめ
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今更弱音を吐く谷津
『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)は、マジで時代考証に苦労しました……。普段ちょんまげものを書いている関係でその外側の時代の考証のあてがなく、右往左往する羽目になりましたYO。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 16, 2024
ぶっちゃけ、事実関係の確認よりも時代考証に時間を取られましたね……。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 16, 2024
本作の「昭和史時代ミステリ」呼称について
『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)は、歴史小説とミステリを溶接できないだろうかと考えて作り上げたのですが、溶接点の処理の観点から、「昭和史時代ミステリ」というコンセプトに落ち着いたといういきさつがあります。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 29, 2024
逆説的な話なのですけど、荒唐無稽な歴史創作より、史実の参照が丁寧な歴史創作の方が、史的イメージの介入という観点からは”危険”とすらいえるわけで……みたいな話と受け取って頂けましたら。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 29, 2024
【追記】
この発言には、「歴史ミステリ」に対する谷津のスタンスが反映されている。
「歴史ミステリ」は元来、「現代人が歴史の謎を解くミステリ」のことで、「当時の時代の人が当時の時代の謎を解く」のは時代ミステリである。しかし、近年ではこの境目が緩やかになり、「当時の時代の人間が当時の謎を解くことにより最終的に歴史の絵解きとなる」小説も「歴史ミステリ」に分類する風潮がある。この流れに谷津も基本的には同意するものであるが、仮に作品内で提示される「当時の謎」が小説的な虚構(=史実でないとする)ならば、それは歴史ミステリではなく時代ミステリとするべきだろう、とも谷津は考えている。
自作に対して「昭和史時代ミステリ」と位置づけるということは……谷津の言わんとするところはわかるな?
軍人口調について
『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)を書く中で「イメージの乖離」に一番悩んだのは、陸軍軍人同士の会話だったかもしれません。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 24, 2024
軍人同士というと、「~であります」「〇〇大尉殿」「✕✕大将閣下」のように、折り目の正しい受け答えをしているイメージがありますが、これ、多くは海軍のイメージで、少なくとも昭和初期の陸軍軍人たちは、もう少しざっくばらんに話していた様子です。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 24, 2024
当時の若手将校たちはそこまで鯱張った喋り方はしていない様子なんです。それもそのはず、創作物における軍人口調はある種の役割語なのではないかという指摘もあるくらいです。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 24, 2024
というわけで、第一稿はかなりざっくばらんな会話だったのですが、編集者さんより、もう少しイメージに寄せてくれないかとの相談がありました。ここについては、「戦前もの」のイメージを取ったほうが作品に資すると判断し、軍人口調をある程度踏襲しました次第です。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 24, 2024
これもまた、世に流通しているイメージと正しさの間で悩まされた事例で(こちらは数日間悩んだ)、正解のない戦いであったなと感じています。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 24, 2024
青年将校文化式の軍服について
『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)冒頭に「太田屋」という屋号のテーラーが会話に出てくるのですが、実は陸軍士官御用達の、実在の洋服店でした……あまりにさらっと出し過ぎてなんのこっちゃとなってるかと思い白状。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 14, 2024
『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)に出てくる「青年将校文化式」について。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 19, 2024
旧日本陸軍において、将校(少尉)以上の軍人の軍装品・軍服は、自前調達が基本でした。なので、将校たちは自分の給料をやりくりして軍服などをあつらえていたのですが……。
オーダーメイドということは、発注主の好みを反映できることとイコール。そういった事情から、大正期辺りには陸軍将校の間で一つのモード(服飾流行)が生まれます。これがいわゆる「青年将校文化式」です。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 19, 2024
一般には軍帽のトップ部分を高くするチェッコ帽、タイトなシルエットの軍服などで特徴付けられる「青年将校文化式」ですが、制式の生地が固いものであったそうで、タイトに作り過ぎると身動きが取りづらかったそう。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 19, 2024
この流行が大正期に始まっているというのが面白いですね。大正期、陸海軍は合理化・軍縮のお題目の下に大きな整理が行われていました。また、当時、国民は軍に対して野暮ったい印象を持っていた様子も。「青年将校文化式」は軍縮路線や国民の冷たい視線への反撥だったと見ても面白いかもしれません。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 19, 2024
なお、この「青年将校文化式」は将校だけではなく、すべての装備品が支給されている下士官の間にも波及しています。ただし、支給された装備品を改造する形なので、部隊の長の考えによって黙認されたり禁じられたりしている様子です。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 19, 2024
劇中、柴有時の軍服について
先日Twitterで「青年将校文化式」について説明しましたが、実はこれ、『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)におけるある描写への言い訳をするにあたっての前振りなのでした。なんの言い訳かって? ずばり、柴有時氏の描写についてです。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 20, 2024
柴有時氏は実在の人物で、基本的には本作に描かれているとおり、二・二六事件の前は陸軍戸山学校の教官でした(一時期他の処に転出していますが)。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 20, 2024
彼は丁度青年将校文化式が流行した時分に軍人としてのキャリアをスタートさせているので、考証を優先させれば格好良く軍服を着こなしていたはずです。
なんですが、本作ではそうなっていませんね。「昨今の若手将校の好む細身のものではなく、肩や腰回りがゆったりしていて、野暮ったくも見える」と書かれています。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 20, 2024
これはまさに「考証か演出か」の相克で悩んだ箇所でした(考えた時間、一秒くらい)。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 20, 2024
考証を優先させれば、青年将校文化式の軍服を着せるべきですが、著者としては登場人物としての柴有時に”演出”を施したかった。そのために、本作の柴は青年将校文化式に背を向けている造形となりました。
「考証か演出か」、この相克は、常に悩ましい問題です。この辺りの話は、一見すると正解である「考証」が存在するために話がややこしくなるのですが、歴史でフィクションを書くからには、拘っていきたいポイントでもあります。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 20, 2024
天保銭(陸軍大学校卒業徽章)に関するあれこれ
『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)に出てくる”天保銭”について。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 22, 2024
”天保銭”とは、陸軍大学校の卒業者に授与される徽章、「陸軍大学校卒業徽章」のことです。
陸軍大学校は陸軍将校を養成する陸軍士官学校の卒業生にしか入学資格のない参謀養成学校でした。ところが参謀が陸軍の出世コースとなったことから、事実上、陸軍首脳を育てる養成学校の側面が強くなり、「陸大卒」が陸軍内部で重要な意味を持つようになります。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 22, 2024
陸軍には他にも士官学校卒業者しか入学資格のない養成学校は存在するのですが……。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 22, 2024
なので、卒業徽章は陸大卒者にとってはエリートの証。やがて彼らは徽章の有無でも派閥を作るようになります。この徽章が縦長の楕円形であり天保通宝(天保銭)を思わせることから”天保銭”と呼ばれるようになり……
陸大卒者のことを"天保銭組"と呼ぶようになりました。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 22, 2024
本作においては石原莞爾、武藤章、本庄繁、田中弥らが天保銭組です。
”天保銭組”か否か(ちなみに天保銭組ではない士官は”無天組”と呼ばれる)はかなり出世に響き、天保銭組ならばどんなに無能でも大佐くらいまでは進めるとされていたようですが、無天組だと場合によると中佐くらいで足止めを食らってそのまま予備役(事実上の引退)となる場合もあったよう。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 22, 2024
憲兵のイメージに関して
『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)の視点人物が憲兵だったため、憲兵の生活を知る必要があったのですが、本作の調べもので一番楽しかったのは憲兵たちの生活に関するものでした。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 23, 2024
結論から言うと、この時期の憲兵たちはのんびりしている……というか、当人たちからすれば、後の時代と比べればまだ牧歌的な時代であった様子。予備役入りしている元中将に振り回されたり、某学者の言動に右往左往したり……という様子を当時憲兵大尉だった大谷敬二郎(なんと実在するのです)が証言。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 23, 2024
関東大震災での憲兵の行動や、ゴーストップ事件(信号でのいざこざを発端とした憲兵と警察の対立事件)などで憲兵の印象が少し悪くはあったものの、国民とは距離感があった様子が窺えます。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 23, 2024
憲兵が国民に目を光らせるようになるのは、もう少し後の話なんですね。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 23, 2024
なので、『二月二十六日のサクリファイス』においては、「怖い人たちではあるけどそこまで嫌われ者でもない」人々として憲兵を造形しました。
憲兵が嫌われ者になっていくのは、国家総動員体制が整ってからのことなんですね。そして戦後、捕虜の扱いを巡って責任を負わされることが多かったことも関係しているのではとされているそう。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 23, 2024
当時のイメージを表現することには、小説の上ではジレンマがあります。後代の我々からすると憲兵というとおっかない人たちですが、二・二六事件当時はそこまででもないはず。でも、読者さんのイメージもあるんだよなあ……みたいなとき、考証に基づくべきか、それとも現代のイメージに即するべきか。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 23, 2024
歴史物を書く中で悩ましいのは、こうしたイメージの乖離をどう処理するかにも掛かっているのだ、と再確認する事例ですねえ。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 23, 2024
二・二六事件当時における憲兵の空気感
『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)において、著者が一番史実をトリミングしたかもしれないと感じているのは、二・二六事件直後の憲兵たちの空気感です。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 27, 2024
本作でも多少書きました当時の首相、岡田啓介の救出作戦に当たったのは憲兵隊員たちだったのですが、救出後、憲兵隊の中でも彼らの行動に批判的な向きがあったそう。割と憲兵隊内部も皇道派シンパがいた様子なんですよ。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 27, 2024
憲兵将校はかなり特殊な立場にあります。法律の専門家としての専門教育を受けているにも拘わらず、陸大受験資格がないため、反エリート主義的な空気感を醸成しやすい環境だったのかも。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 27, 2024
とはいえ、体を張って岡田啓介首相を救出した憲兵がいたり、二・二六事件発生前に叛乱を察知して手を打とうとした憲兵がいたりもするので、憲兵全体がシンパだった訳ではない点も注意すべきかも。そんなわけで、本作の憲兵たちは皆、皇道派の影響を受けていない人たちとなりました。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 27, 2024
嗚呼電灯のスイッチの巻
『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)を描く中で、「あの時代って電気用スイッチあるのか?」と右往左往する羽目になった話をしますね(唐突)。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 18, 2024
演出上、公的施設内部にある大部屋の電気を一斉に点けたくなったんですよ。あくまで演出上。でも、あの頃の電灯は(アルコール式ランプのように)ソケット近くにあるつまみを回す形式一般的。この演出、諦めた方がいいのかなあとなったのですが……。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 18, 2024
色々調べてみると、戦前期、公的な施設ならばトグルスイッチが導入されていた由。おお、これなら一斉に電灯を点けることが出来る! というわけで、本作ではめでたく一斉に電灯を光らせることが出来たのでした。戦前期の時代考証難しい……。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 18, 2024
(当該施設の写真や図面などがないか調査して、スイッチに関しては特段の情報が見つからなかったという前段がありますよ)
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 18, 2024
石原莞爾はどんな映画を観ていたのか
『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)を書いていた際、突然主人公と石原莞爾を映画館で喋らせたくなり、映画を見せることにしたのですが、ここで一つ問題が。「この二人、どんな映画を観るのだ?」
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 30, 2024
当時はトーキー映画時で、記録映画なんかも全盛のはず。日本映画も隆盛していましたし、海外映画も買い付けられていた様子。色々悩んだのですが、実在するフランス映画を観ている設定としました。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 30, 2024
二人が誰もいない映画館で捜査内容を確認するので、日本映画や記録映画だとあんまりよくないかも、と思ったのと、叛乱に関するシリアスな話をしている前でロマンス映画が展開している方が落差があっていいかな、と思った次第。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 30, 2024
日本での封切りが昭和十一年一月ですし、その年、日本でも凄く評価された映画だったため、戒厳下でも放映されているだろうと踏みました次第。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 30, 2024
なお、担当さんにはその映画のタイトルを伝えそびれていたのですが、ゲラ確認の際、「この映画は『〇〇〇〇』と思われますが」と内容に関するエンピツがついていました。校閲さん(あるいは担当編集者さん)、すげえ……。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) August 30, 2024
(考証には関係ないけど)二・二六事件当時の国民作家、吉川英治の動向と彼の考え
『二月二十六日のサクリファイス』(PHP研究所)に記載できなかった話に、二・二六事件当時の国民作家・吉川英治の動向があります。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) September 13, 2024
二・二六事件当時、吉川は朝日新聞社で『宮本武蔵』を連載していました。朝日新聞社は二・二六事件当時、青年将校らによって活字ケースをひっくり返されるなどの被害を負っているのですが、吉川、なんとその日の憂国には朝日新聞社を見舞っているんですね。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) September 13, 2024
そしてその足で『サンデー毎日』主催の座談会に参加し、その日の夜、弟と共に蹶起部隊に差し入れをしています。これはどうやら空腹だろう兵士に同情した行いだったよう。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) September 13, 2024
兵士たちが国民作家・吉川英治に気づき敬礼をしたなんて逸話もあります。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) September 13, 2024
実は吉川は少し前から農村の貧窮に心を痛めており、農村青年の<精神的飢餓>に応えるとの理念から日本青年文化協会を設立しています。
吉川と蹶起将校たちの農村青年への眼差しは、出発点は違えど方向性は同じ。昭和恐慌に端を発する地方の青年たちへの眼差しは、当時、広く共有されていたのです。
— 谷津矢車(戯作者/小説家) (@yatsuyaguruma) September 13, 2024