「書く」のに必要なのは、語彙力でも文章力でもなかった
はじめは〜と伝えようと思っていたけれど、ワークをやってみて本当に伝えたいことは〜だったと気がつきました
と前置きをして、自分の書いた手紙を読み上げていく。その場にいる全員が、特定の誰かを思い浮かべて全身全霊をかけて、言葉を絞り出していた。
人が人を想う気持ちのエネルギーが、大きなうねりのようになって会場中に満ちている。あらゆる感情が自分の中に流れ込んで、2日間のワークでヘトヘトに疲れ果ててしまった。
山田ズーニーさんによる文章表現ワークショップのお題は、「誰かひとりに宛てた手紙を書くこと」。
200文字に満たないその文章を書くために、何時間もかけて自分の気持ちを深堀り、誰かの気持ちを想像するためのワークをした。自分と人にとことん向き合い、伝えたい本当の気持ちを引っ張り出すことに、たっぷりと時間をかける。
参加メンバーのなかには、ワークを通して伝えたいメッセージが変化した人が多いようだった。
亡くなった父に「感謝」を伝えようと思っていたけれど、自分の本当の気持ちは「寂しさ」でした。
別れた元恋人に「謝罪」を伝えようと思っていたけれど、それは実は自分に向いた気持ちだった。相手に贈るべきは「エール」でした。
これは単なる文章の練習なんかじゃない。
嘘をつかずに生き、人とまっすぐに対話するための練習である。まるで生き方を問い直されているようで、ヒリヒリした。
言葉は表現のいち手段でしかなく、大切なのは言葉の根っこにある根本思想であると、ズーニーさんは初めに言った。そのことが、ワークを終えたときに深く深く心に染み込んでいた。
「文章表現」に必要なものは、語彙力でも文章力でもない。言葉を支える根本思想、生き方・人との向き合い方だった。
文章は、身近な表現手段だ。誰もが気軽に使えるからこそ、簡単に嘘の表現もできてしまう。思ってもいないことを書いたり、相手のためと見せかけて自分のための言葉ばかりを並べたり。それで自分の気持ちを見失ったり、人を傷つけたりする。
言葉を使うことは、怖い。なのにその気軽さゆえに、怖さに気づきづらい。
たとえ空っぽの言葉を並べても、文章は成り立ってしまう。そこにどれだけの想いと思想をこめるのか、どれだけの覚悟を持って表現するのかは、一人ひとりに委ねられている。
ズーニーさんの著書はこれまでいくつか読んでいたけれど、読みながら涙するようなことが何度もあった。表現することへの責任とこだわり、表現した先にいる読者に向けた真摯な想いが心を震わせたからだと思う。
ライター・編集者と名乗り、言葉を仕事にしているはずの自分も、ズーニーさんの前に立つと言葉に対する真摯さが桁違いで、反省した。
これだけ真摯に表現する人がいるのだと、血を吐くような想いで言葉を選ぶことがあるのだと、体感した2日間だった。
こんなに消耗するのに、こんなに苦しいのに、ズーニーさんが書き続け、書くことを人に伝え続けるのは、そうして紡いだ言葉で「想いが通じる」という奇跡を何度も何度も見て来たからなのだろう。
私は今回のワークで、元教え子に宛てた手紙を書いた。本当はあと2人手紙を書きたい相手が思い浮かんだのだけど、今回は選ばなかった。「文章表現」が何たるかを知ってしまって、今の自分にはまだ書けない、向き合う覚悟がないと思ったから。
いつになるかわからないけれど、その覚悟ができたときはズーニーさんからいただいた資料を引っ張り出して、2人への手紙をしたためてみたいと思う。