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本屋さんが消えた街

 あけましておめでとうございます。

 東京では、年初から緊急事態宣言の要請もあり、前途多難な年になりそうですが、お正月らしい「いいお天気」の三が日でした。テレビで放映された『天気の子』のディティール描写に見とれながら、『アーヤと魔女』のアーヤぐらいふてぶてしい陽菜と凪と帆高って考えられないかなぁと思ったり。

 以前は、手持ち無沙汰のお正月は、朝からお酒もはいって、ふらりと近くの本屋さんに行って、漫画と旅行と小説の棚を巡って幸せな時間を過ごせたものですが、その本屋さんも数年前に閉店してしまいました。もう新しいマンションが建つ余地はなく、高齢化も進み、amazonやデジタル書籍での購入にも移行して、本屋さんを利用する人はずいぶん減っていたのでしょう。

 年末に、noteで見つけた美代マチ子さんの漫画『光進堂メランコリー』。①②③をイッキ読みしました。登場する光進堂は、閉店した近所の本屋さんと同じ規模。バス停の前に在るまだ空き店舗のままのスペースを見ると、ここでも漫画のような情景があったんだろうなと、感慨に耽ってしまいます。この作品が気に入ったので、ギミックを織り込んだという『ぶっきんぐ‼︎』どうしようか迷ったのですが、”「光進堂メランコリー」も「ぶっきんぐ‼︎」も、両方大切な作品です。”という作者の言葉に、年始の本屋さんでの幸せタイムの代わりに、amazon でポチリ買い。年明けに読んだ『ぶっきんぐ‼︎』は、主人公の成長や、読者の感動、読んだ人が元気になれる漫画に仕上がっていて\おおっ/て、きっちり泣かされた幸せな時間でした。

 これは、『光進堂メランコリー』というweb作品があって、『ぶっきんぐ‼︎』という書籍があって、両者を俯瞰する『かの子とマチ子と光進堂』というnote の記事があって、3つの表現形態とスタンスと時間軸が交差して、それらを描いた美代マチ子さんという作者の生き様がスナップされたアートになっている。エンタメが問われる次元を超えた作品。現実と物語がハイブリットされて、今はなき私の近所の本屋さんとも共鳴して、深く心に刺さるものでした。(文末にそれぞれのリンクを添付しておきます)

 本屋さんと言えば、私が中学生の頃、家の近くで買うのが恥ずかしかった少女コミックを買いに、駅の向こう側にまで行っていた6畳程度の小さな本屋さん。昨年50年近くぶりに立ち寄ったら、多分その時もレジにいたおばちゃんがいて昔話。絞り込まれた本にそれぞれおすすめのキャプションが付けられていて「本のセレクションってどうやってるんですか」と尋ねたら、「新聞の広告や書評欄から私が選んでいる」と言っていました。

 そう言えば、実家近くでまだ残っているもう一件の本屋さんも、雑誌と絵本に絞り込んだ品揃え。50年以上前から自宅で本屋さんを営んできてるお店は、物件の減価償却が終了し経費圧縮できているからでしょうか、子育てなども終わって生活にお金がかからなくなって、利益を重視しなくていいからなのでしょうか、自由な品揃えとそれを手にとって買ってくれるお客さんが訪れる本屋さんを楽しんでいるように見えます。

 一方、消えてしまった本屋さんは、家賃が必要な本屋さんだったような気もします。収益が採算ラインを割ってしまうと(もちろんそこで働いた経験値は働いた人に残るのですが)、お店自体の歴史は、資本主義での貨幣価値に還元されて、精算、閉店されてしまいます。街が再開発されて、住居と店舗が分離され店舗に家賃が設定されてしまうと、儲からなくていいお店が残る隙間がなくなってしまいます。本屋さんが消えた街は、寂しいものです。
街の歴史にも所有権が設定されていて、資本や法人が持ってしまうと残らない。その場で歴史を積み重ねてきた「人」がこだわらないと消えてしまう。
その点、自宅を兼ねた家業の本屋さんは、成長や拡大を卒業して、償却後のお楽しみが残ったと言えるのかもしれません。

 最近、京都や東京でも八ヶ岳あたりでも、マニアックな本を集めたセレクトショップ型の本屋さんを見るようになりました。インターネットの普及がamazonや、デジタル書籍の販売といった一次的な利便性による拡大志向のみでなく、そろそろ、本を選択する本屋さん、その歴史や志をも付加価値として流通をサポートし、維持や継続を志向する方法が出てこないかなぁと。自分の街を紹介する時に、「こんな本屋さんが在る街に住んでいます」と言いたくなる本屋さん。そんなことに思いを巡らせる年初めでした。

さて、いい年になりますように。
2021年1月5日

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