職場コミュニケーションにおいては感情ケアはノイズである、という問題
営業会議でやらかした
先日、営業会議でやらかしてしまった。
ただでさえ気分の重たい月曜の、輪をかけて気分が重い営業会議でのこと、「最近の営業での成功体験をみんなで言い合いましょう」と求められた。
私。その場で求められたのは、営業体験のシェアを豊かにすることだった。なのにあろうことか、なぜだかふてくされた気持ちになってしまった私。「ありません」と一言だけ言い捨ててむすっとしてしまったのだ!
42歳のおじさんが何をやっているのか・・・と恥ずかしくなった。本当に恥ずかしい。
でも、そのときの私は、憂鬱とか不安とか怒りとか劣等感とか、自分のわけのわからない感情に圧倒され、頭が真っ白になり、感情を押し殺すのが難しくなってしまい、苦しいまま、行動してしまったのだった。
感情は勝手に湧き上がってくる
感情が勝手にわっと湧き上がってくることがある。
こっちの事情などおかまいなしに、いきなりやってくる。大抵は、マイナスの感情。不安とか怒りとか、そういうもの。
自分がないがしろにされたように感じたときとか、これまでと大きな変化が起こりそうなときとか。悪いときには単に「月曜だから」とか「低気圧だから」というときもある。
感情が湧いてきたとき、それがまるでないかのようにコミュニケーションするのはとても難しい。大人だから多少は頑張るが、めちゃくちゃ負担がでかくてつらい。
私の場合は不安感情が大きいのだが、不安が起こると、怖くて怖くて仕方なくなる。私は話せなくなってしまう。
「恥」にまつわるひどい孤独感とか、コントロールの大変難しい怒りもある。
職場における感情ケアはむずかしい
「ああ、この人は、いま反対意見や文句を言っているが、実は自分の感情を吐露しているのだな」
とわかるときがある。
表面のコミュニケーションでは「私は怒っている」「私は不安だ」とは言わない。コミュニケーションを表面上継続するため、論理的に整合するように話すからだ。
ゆえに、そのコミュニケーションは感情に沿った表出をするため、「反対意見」や「懸念」として表れたり、私のように「思いつかないですね」とムスッとした態度に出てしまうこともある。
しかし、本当に必要としているのは「私の感情を理解し、受け入れてほしい」という感情の吐露であり、ケアなのではないだろうか。
しかし悲しいかな、職場とは、論理的で、建設的な話をする場である。
それなのに、感情は非論理的で、非建設的だ。
職場で望まれているコミュニケーションにおいては、感情は行き場を失う。
もし、感情を感情のまま出したら、それは「ノイズ」になってしまう。
感情ケアが管理職を圧迫している?
「罰ゲーム化する管理職」という本が売れている。この本の中では、管理職がいかに構造的に負荷を抱えているか、その処方箋は何なのか、ということが丁寧に紐解かれている。
人間は感情の生き物だ。感情に振り回されないことはない。「上司(部下)の機嫌が悪い」というのも感情問題だし、「やる気が起きない」「指示に従いたくない」というのも感情問題だし、人間関係のトラブルの多くは感情が起因している(面倒くさい!)。
「表面上は論理的なコミュニケーションだが、本質的には感情ケアである」というやりとりをするとき、ケアする側自身の感情は抑圧しなくてはいけない、という場合がほとんどだ。
だから、その役割に当たる人は本当に大変だと思う。
感情をまるでないかのように無視したり、放っておくと、やがて職場崩壊やうつ病など、何倍にもなって復讐してくる。
しかし、職場コミュニケーションにおいては感情は「ノイズ」だから、それは表面上表出されない。みんな頑張って、論理的整合を取るために話す。
感情をいったいどうしたらいいのか
感情は非論理的で、非建設的だ。だから、感情を語る言葉は、少なくとも職場におけるコミュニケーションにおいては存在しない。心理カウンセリングの領域になってしまう。
これまでは、職場においてこんなに「感情ケア」が問題になることはなかったように思う。これにはいろんな要因が、それこそ構造的に絡み合っている。感情をケアするコミュニティとしての側面を職場が失ってきていることも要因のひとつなのかもしれない。
例えば、職場コミュニケーションのなかにおいて、「感情ケアは難しいね」という共通認識の形成を試みるだけでも、少し変わってくるような気もする。もう少し考えてみよう。
このnoteは、私の個人ブログ「ヤトミックカフェ」の姉妹ブログです。私が生活しながら気づいたこと、思ったことを書き留めていきます。👇のブログも良ければご覧下さい(現在は実験的に日記サイトにしています)。