罰当たりな想像
包帯を巻いた指をすりすりとさすって「罰が当たったんだろうか」と言う老女がいた。
彼女は整骨院に、怪我してから十日も経ったその指を見せに来ていた。
整骨院の先生は、笑って「そうかもしれませんね」と一言。日常の会話の一幕かもしれないが、違和感を覚えた。
彼女はきっと、幼少期の躾で唱えられた「罰」という概念を、大人になった今も持っている。
それを、彼女は大人になって自分の子どもに繰り返したかもしれない。
罰は誰が与えるのか。
神か。
罰の基準を定めるのは誰か。
人か。
世相や個人の裁量で決まるこの「罰」というものを、私は真実味のないものだと思った。
私も小さい頃、罰が当たると繰り返されたが、
あるのは人間の倫理と道徳と、都合よく引き合いに出される神様なのではないか。
自然を破壊する人間なんて罰当たりな。
これは事実神が言いそうだとは思うが、誰も罰当たりなんて言わない。
僕らは見ないふりが得意。
包帯の老女は気づくだろうか。
原因があって、結果がある。
怪我なんて聖女でもし得るのだと。
もい