プロダクト開発の根底に「人間観」があったほうがいい理由
TimeTree代表取締役の深川です。
このnoteは会社としての情報発信というよりも1個人としてTimeTreeという会社をやりながらこれまで悩んできたこと、反省したこと、気づいたことという観点で書いていきます。
先日、このようなポストをしたのですが、いろいろ反応いただけたので詳しく意図を書いてみようと思います。
僕はITプロダクトしか作ったことないですが、プロダクト開発は大変です。
リリースして終わりではなく、受け入れられるまでのチューニングやピボット、その後もフィードバックを得ての改善はどこまでも続きますし、さらに提供価値の拡大・深化を目指して新しい機能追加などのトライもどこまでも続きます。
しかもそれを一人でやるわけではなく、PdM、エンジニア、デザイナーなどなどたくさんのメンバーと一緒に行います。
正解なんてわからないので、方向性にも企画にも賛成・反対いろんな意見があります。そういう時にどう方向を描くか?「消費者としての自分の個人的な課題体験」や「こういうものを作りたいという強い想い」などだけでは、プロジェクトが耐えうる時間軸、チームの規模、ともに限界があります。なので「プロダクトビジョン」などが必要だと最近は言われますね。
そもそもプロダクトにはその存在自体「世の中、こういう方が良くないですか?」という提案の側面があると思っています。
この提案、プロダクトビジョンを支えるものは何か?ここに僕は「人間観」と「社会をどう捉えているか」を置くのが良いのではないかと思うのです。
(良いと思うというか、僕はそうしていますというだけの話でもあります)
簡単に言うと、
・人ってこういう存在だと思ってる
・世の中って最近こんな感じになってきてるよね
・だから今の社会状況で、人にこういう問題が起きてくるんじゃないか
・こういう存在だから、こういうプロダクトがあればそれをなんとかできるんじゃないか
という感じです
普通に暮らしてたら「人間ってこういう存在だよね」なんていちいち考えないと思います。
でもそれを自分なりに集めて、積み重ねて、理解を構築しておくことで社会や未来を考える足場になります。
人間観とかいうと難しく聞こえますが、僕は「あるある」の集積だと思ってます。ことわざなんかも「人間あるある」ですよね。「三日坊主」「灯台下暗し」とか。
「人間観」を意識しないと、人をすごく合理的で条理に沿った存在と考えてしまいがちです。みんな、冷静で損はしないように計算できて、交流を喜びつながることを是とする、みたいな。でもみんな知ってるように人ってもっと不合理でわかりにくい存在ですよね。
例えば僕の人間観
例えば、僕の場合はこんな人間観を根底に置いています。これが直接TimeTreeに結びついているわけではないですが、随所に影響していると感じます。新しいことを考える時も、こういった人間観をベースに脳内で参照しています。
・人はそんなに主体的で意思決定する生き物ではない
基本的に、自分のやりたいことを自分で決めて実行する、欲しいものを自分で選んで購入するといったことはレアケースなんじゃないかと思っています。
「内から意思が湧いてきてそれにそって決定をする」ってすごくパワーのいることで、そんな選択ができたらそれはいろんな条件が重なった幸福なことではないかと。
むしろ、誰かと話しているうちに話の流れでカラオケいくことになる、ラーメンの話聞いてラーメン食べたくなる、みたいなことがほとんどだと思います。
「何かを決める」ということは人にとって基本的にストレスで、常に決めることに対する後押しや、決めたことに対する肯定理由づけを求めているのではないでしょうか。
「行動分析」という、心理学の一種があります。
人の行動の原因を内部=心的なものに求めるのでなく、外的環境にあると仮定する学問です。「鈴がなったら餌がもらえる」を繰り返した結果、鈴の音を聞いたらよだれが出るパブロフの犬とかが有名です。
「水曜日のダウンタウン」の説で「カレーの匂いを嗅いだら、その後の食事にカレー食べる説」というものがありますがあれですね。
また哲学者である國分功一郎先生の「中動態の世界」という本があります。英語などの言語に能動態と受動態という態がありますよね。「give 与える」と「given 与えられる」のように、主体的に「する」態と、受動的に「される」態です。ところが古代ギリシアにはそのいずれでもない「中動態」という態があった。
中動態は能動態と受動態の中間という意味ではなく、「行動主体が、その行動に巻き込まれていくような」態とのことです。僕は「起業をする」という行動をしたけれども、それは純粋な意思の力での決定でなく、その時の様々な状況・関係の中で「起業をするという選択に流れ込んでいった」とも言えます。起業した後も日々、純粋な意思の力で選択をしているわけではなく、起業したことによる状況の変化に巻き込まれ、新しい行動を選んでいながら同時に選ばされているような、そんな感覚です。
誰もがこのように「自分の意思から内発的に行動している」のではなく、自分の行動や周囲の環境に巻き込まれて、事態が進んでいくという感覚を持っているのではないでしょうか?
なのでプロダクトを考える際にも、あまり「ユーザー自身の意思の力」を基盤に置かないようにしています。どうすれば、ヘルシーに行動が進む外的要因が生起し続けるか?ユーザー自身が巻き込まれて望ましい状況がつくられるか?をいつも考えています。
・人は個人で完結してない。関係によってかろうじて構築されている
「私」という存在は、どこにいても誰といてもぶれない確固たる存在ではなく、もっと曖昧でもろくて不安定なものだと考えています。
小説家の平野啓一郎さんが「分人」という概念を提唱していました。「個人」とはそれ以上分割できない確固たる単位、ですが平野さんはそれはもう現代にはそぐわないのではないか?と言っています。家族といる時の自分、職場での自分、相手やコミュニティに応じて違う自分が引き出され、その総体を自分と考えるのが自然ではないか?という考えです。そしてその分人は、自分が好きに作り上げるものではなく、相手との関係によって双方向的に、自然発生的に生まれるものであると。
関係によって「分人」が形作られ、その「分人」の総体として「私」の輪郭なんとなく捉えられる。
元から「私」があるのではなく、関係によって都度構築され続けている。
関係もまた形がないものです。それは「おはよう」「これ面白くない?」「締切間に合いそうですか?」みたいなやりとり、人と人とのインタラクション、お互いのプレゼンスの感覚によって構築され続けています。「遠くの親戚より近くの他人」という言葉があるように、インタラクションがなくなっていくと関係も薄れて消えていきます。
こう考えると「コミュニケーションサービス」や「ソーシャルメディア」は、単なる通信機能や情報媒体ではなく、関係を構築し続けて「私」を生成するという人のアイデンティティに深い影響を及ぼすサービスなのです。
社会構築主義という学説があります。一般に事実とされているものは客観的・普遍のものではなく「社会的に構築されたもので、変えることが可能」と捉えるという考え方です。
その中に「言説分析」という手法があり、事実そのものを分析するのではなく、それがどう語られているか?を分析するというものです。事実が社会的に構築されるもの、とすればそれは「語られることで構築される」とも言えます。
また、この社会構築主義の一種にブルーノ・ラトゥールという学者が提唱する「アクターネットワーク理論」というものがあります。これは人や人工物、自然物をこの世界の「アクター」として捉え、それらがつながることで社会的な事実・意味が生まれ、そのつながりが大きいほど「その時代の強固な事実」になるという考え方です。
こういった観点から僕はTimeTreeを見る時に「どう語られているか」「何と紐づけて語られているか」をとても重視してきました。ユーザー数などももちろん重要ではあるのですが、今日語られないものは今日存在していないのも同然だし、何か世の中の別の事実・世界と関連づけられなければ、それは宙吊りになっている「なんだかよくわからないもの」でしかないからです。
・人はコミュニケーションを求めるけれど、コミュニケーションはめんどくさい
前の項目で「コミュニケーションが関係を構築し続け、関係が私を構築する」とコミュニケーションの重要性について書きましたが、一方でコミュニケーションってめんどくさいものだと思います。
「友達に会いたくて、久しぶりに会う約束をしたけれど、その日が近づくと億劫になる」みたいな経験をみんなしたことあるのではないでしょうか?
面と向かって何かを喋り、その反応を気にし、相手の反応に対してこちらもまた何かを返す。何かを間違えれば、相手がつまらなそうにするかもしれない。もしくはこちらがつまらない思いをしながら気を使うかもしれない。コミュニケーションってすごくカロリーを必要とします。
僕の大好きなゲームにFromSoftware社の「DARK SOULS」があります。高難易度のアクションRPGで、オンラインプレイもできるのですが絶妙なコミュニケーション要素があります。一般的にオンラインのコミュニケーションといえば、チャットで会話をするといったものが思いつきますがDARK SOULSではそういったことはできません。そうではなく、ステージ上に定型文の組み合わせで伝言を残しておける。誰が読むかは分かりません。また、自分が死んだ場所が、他プレイヤーのプレイ中にステージ上に血痕としてあらわれて死んだ場面のリプレイが映るといった、非同期で非常に抽象的なものです。
そのプロデューサー・ディレクターの宮崎英高氏がインタビューで語っています。
TimeTreeで提供したいのもここだと思っています(まだ最適な表現は見つかっておらず模索中ですが)。何もメッセージをやりとりするだけがコミュニケーションではありません。同じカレンダーを見て、そこに書く、そこを見る。これは非同期で矢印がお互いに向いていないカロリーの低いコミュニケーションです。でも、もっと低カロリーで、自然で、意味がなく、でもお互いの関係を感じられるような、自分の存在を下支えしてくれるようなそんなコミュニケーションがあるのではないかと探しています。
・みんな存在不安を抱えている
「確固たる私はなく、関係によってその都度構築されている」と書きましたが、私の存在、私の現実とはとても不安定なもので、誰しもが「私って何なんだろう」「私は必要とされているのか」「何のために生きているんだろう」「私は何を求めているのだろう」「私をとりまく関係がある時、急になくなってしまうのではないか」そういった根源的な不安を、言葉にはできずとも奥底に抱えている。とそう思っています。
自分が自分でなくなってしまう感覚に陥ってしまう「離人症」という症状があるのですが、その初期症状として時間感覚がなくなってしまうそうです。木村敏先生の「時間と自己」によれば、その初期症状を時計を見れば何時ということはわかるが、時間が経つという感覚がわからない。時間のつながりが感じられず、ばらばらな今、今、今が続いていくようであると表現されています。
僕はこんな風に考えています。人という生物にとって意識というものは過剰で、人はそれに振り回されている。意識が意味を求めてしまうが、根源的に私が私であることや私が存在することに意味はない。「私はなんのために」のような問いを捨てることも不自然でそれがないと「私が私を生きる」下支えを失ってしまう。でもその問いに飲み込まれてしまうのも不健康。同時に必要なのは、そういった大きな問いを宙吊りにして、私を日常の実感の中に位置づける気晴らしのようなもの。週末のバーベキューの約束のようなものではないだろうか。
※この辺りは下記のnoteにも書きました
そして、私たちの不安を和らげるのは、私たちには変えようのないもっと大きな現実のものさしとリズムではないかと。一週間が7日で、日曜には終わる。12月31日には一年が終わり、正月が来る。正月には鏡餅を飾ったり、お参りに行ったり、冷静に考えたらなんだかよくわからない儀式を行う。でもこういうものさしがあるおかげで、どこまでも続く毎日を区切ることができ、リズムが生まれる。このものさしで刻まれる毎日の流れの中に、「バーベキューの約束」のようなこの先の楽しみを置いていく。こうやってやっと正常な気持ちで暮らしていける、とそのように思います。
カレンダーは、そのものさしとその上での自分のリズムを、いつでも確かめられるように側においておける道具でもあります。
とこのように「人間というものをどう考えているか」は根底的なところでプロダクトの思想に影響し、支えてくれます。
僕自身が持っている「人間観」は他にもたくさんあります
多すぎる選択肢は苦痛。でも勝手に決められると腹が立つ
「いつも正解」のような、あまりに精度の高いレコメンドはつまらない
綺麗すぎるもの、あまりによくできたものは否定したくなる
創造性の発揮は喜び。世界に関わり、変えることができる効用感を得られる
制限のない自由は苦痛。ちょうどよい制限が創造性や主体性を生む
などなど。これを読んでいるプロダクトマネージャーの方がいらっしゃたら、ご自身がどういう人間観をお持ちか、書き出してみるのも面白いのではないでしょうか?またこれは、プロダクトに限らない話でもあると思います。どういうスタイルでマネジメントをするか、なども同様かもですね。
こういった人間観のもとに「いま社会がどうなっているか?」と重ね合わせて、ではどういうプロダクトが必要なのか?の軸を考えていくのが良いのではないかと考えているですが、長くなったので社会の話はまた今度にします!