井上毅郎評 タン・トゥアンエン『夕霧花園』(宮崎一郎訳、彩流社)
評者◆井上毅郎
記され、理解される記憶――物事の緻密な描写により仮想と現実の境目は見事にかき消されている
夕霧花園
タン・トゥアンエン 著、宮崎一郎 訳
彩流社
No.3595 ・ 2023年06月17日
■本作はマレーシア人作家タン・トゥアンエン著The Garden of Evening Mistsの邦訳である。第二次大戦後のマラヤ(現マレーシア)を舞台に、亡き姉の夢である日本庭園造りを目指すテオ・ユンリンと、現地に暮らす日本人庭師ナカムラ・アリトモをめぐる恋愛・歴史ドラマを描く。
訳者あとがきにもある通り、本作で取り扱われる庭は日本庭園であるものの、訳書に先んじて公開された映画(アリトモは阿部寛が演じる)のタイトル『夕霧花園』にならって本作も花園とされている。映画版は二〇一九年末から台湾、香港、マレーシア、シンガポールにて順次公開され、日本では二〇二一年に封が切られた。そのためタイトルは中国語訳が先に検討され、日本庭園を含む庭一般を意味する中国語としての「花園」が選ばれたのだと思われる。
主人公のテオ・ユンリンはペナン島出身の海峡華人(ストレイツ・チャイニーズ)である。プラナカンとも呼ばれる海峡華人は、欧米列強の統治下にあったマラヤ周辺に移住し、母国である中国よりも現地の宗主国との結びつきを重視する中華系移民を指す。物語が展開する一九五〇年代のマラヤは海峡華人の他に宗主国のイギリス人、現地に古くから住むマレー人、出身地の文化を守る中華系移民(華僑)、インド系移民などが混在する複雑な社会環境である。海峡華人の独自の立ち位置によりテオ・ユンリンが経験する出来事には、同じくペナン島出身の海峡華人であるタン・トゥアンエン自身が経験したり見聞きしたりしたものが表現されているのだろう。
明らかな歴史上の人物を除いて、この小説の登場人物はすべて著者の想像によって生み出されたものであるとの注釈が著者自身によって付されているが、物事の緻密な描写により仮想と現実の境目は見事にかき消されている。アリトモの日本庭園『夕霧』や彼の友人のマグナスが経営する茶園はキャメロン高原にあるとされ、当地の雰囲気に馴染んでいる様子がうかがえる。また、当時は第二次大戦後にイギリスとマラヤ共産党が衝突する「マラヤ危機」のさなかであり、周辺のジャングルに潜む共産ゲリラへの恐怖もひしひしと伝わってくる。
物語に登場するいくつもの言語によっても社会的な複雑さが的確に表現されており、本書で丁寧に訳されている。海峡華人であるユンリンが話す言語として英語と中国語(広東語)が用いられ、使用人等との会話にはマレー語が登場し、マグナスはブール人(南アフリカに入植したオランダ系白人)として会話の節々にアフリカーンス語を織り交ぜる。南アフリカでの祖国トランスヴァール共和国とイギリスとの戦争を経てマラヤに行き着いた。余談だが、動乱においてイギリスを媒介として南アフリカと東南アジアが繋がる事例は実際にあり、旧オランダ領東インド(現インドネシア)のジャワ島を舞台とする映画『戦場のメリークリスマス』の原作は南アフリカ人記者のローレンス・ヴァン・デル・ポストがイギリス陸軍将校として日本軍が侵攻した東南アジアに派遣された際の体験を綴ったものである。
物語の重要な要素である日本庭園を中心とする日本文化についても、その奥ゆかしさに触れることでアリトモの謎めいた雰囲気を効果的に表している。ユンリンは戦争中に日本人に苦しめられて亡くなった姉のために日本庭園を造るべく、庭師のアリトモに師事をする。当初は日本人としてのアリトモに憎しみを抱くも、日本文化の実践を通して彼の人となりを理解していく。その過程で言及される、日本庭園における借景の時間的な解釈、弓道の精神的な作用、木版画と彫り物(刺青)との関連は日本人にとっても興味深い内容であろう。
ユンリンの姉もその犠牲となった日本軍によるマレー半島での華僑虐殺では、一説によると約一〇万人の華僑が殺害された。マレーシアの歴史上の一大事であるにもかかわらず日本軍のマラヤ占領について周囲が無知であることがきっかけとなり、タン・トゥアンエンは本作およびデビュー作The Gift of Rainを執筆した。中国はもちろんのこと、東南アジアにおいても日本軍の殺害、掠奪、強制労働などによって諸民族が受けた被害は甚大だった。中には十分に知られ、対処されたとはいえないものもあるだろう。戦争から長い年月が過ぎた今、当事者たちの記憶が知られ、語り継がれるための努力がますます求められている。
(デジタルエンタテインメント企業PM/翻訳者)
「図書新聞」No.3595 ・ 2023年06月17日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。