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気になるコトバ #3|阿部謹也

 (歴史学とは)はっきりいえば歴史的にものごとを考える。その考え方を学び,自ら世界についての像を描いてゆく学問だといってよいでしょう。

(阿部謹也追悼集会刊行の会 2008: 3)括弧内は筆者による補足。

 解るとは一体どういうことか。
 ある対象の在り方を別の,自分にとって自明な言葉で説明できること。いいかえれば,ほかの対象(ものごと)との関連が明らかになること。さらにその対象と自分又は自分を含む集団との価値連関が明らかになること。

(阿部謹也追悼集会刊行の会 2008: 3-4)

 世界についての像(世界像)を描く,というと言葉は難しいのですが,これは自分を知るということを出発点とし,又目的ともする姿勢です。例によってすぐ問題になるのは,この場合の自分とは何か,という点です。自分とは誠に自明な前提だと思う人もあるでしょうが,実はそうではありません。小樽の雪の寒い夜に一人で下宿の冷たい布団のなかで,何の為にここへわざわざ出かけて来たのだろうか,とふと考えるとき,それはすでに自分とは何か,という問いを自らに問いかけているときです。

(阿部謹也追悼集会刊行の会 2008: 5)

 ……自分という存在は否応なしに歴史のある時期に置かれてしまっているのです。どうあがいてもそこから抜け出すことはできません。

(阿部謹也追悼集会刊行の会 2008: 6)

 今の日本の情勢がどのようになっているか,ということに無頓着に生きてゆける,と思い込んでいる人は多いのですが,そういう人でも今の日本の情勢に規定されています。自分を規定しているものとしての周囲の環境(自分も又環境に働きかけてもいるのですが)を理知的に理解しようとするとき,そこに一つの像が生まれます。その像は日夜修正されてゆくものですが,それなしにはおのれの位置を知ることができないようなものです。その像は広ければ広いほど有効です。どのようにしてその像を作りあげてゆくか,ということは歴史学という学問の問題で,……

(阿部謹也追悼集会刊行の会 2008: 6)

 歴史を学ぶことの意味は,「世界についての自分なりの認識」を構築し修正することによって(あるいはそれと同時に),翻って「自分とは何者か」という自己理解を深めていくことろにある。

 世界についての像(世界像)の描き方は一様ではないはずで,その描いた像は,すなわちその人の自己を表出したものとして理解できるのだろう。では,自分はどのように世界についての像を描くか,それを考える際の基盤や方法を(阿部謹也先生の)歴史学(の授業)は提供しているということなのだろう。


  • 阿部謹也追悼集会刊行の会編,2008,『阿部謹也 最初の授業・最後の授業 附・追悼の記録』日本エディタースクール出版部.

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