オオカミ村滞在記 (全9話 8,600文字)
1.山道作り 前編
奈良県東吉野村に移住して早10ヶ月。
当初の目的であったサウナ小屋作りをスタートしたりするのだが、ここに至るまでかなりの日時を費やした。それを言い訳がましくダラダラ綴りたいと思う。
そもそも見ず知らずの人間に
「どうぞ空いている土地に小屋を作ってください」
なんて言う変わり者は何処にもいない。
まず、遠回りを覚悟して、道を作ることから始めた。小川という地区には、いくつかの集落があり上出垣内(カミデカイト)というのが自分の住む在所である。
家は村道に面しており、お隣さんは30メートル程離れて建っている。山の上には家が4軒くらい点在しているが、今は人が住んでいない。
グーグルマップを見れば、家から上の山を500メートルも歩けば小川城跡という史跡がある。引っ越して数日後、小川城跡へ妻を連れて行ってみた。
急な勾配の登山道を200メール程進むと道はなだらかになった。途中、苔むした石垣が積まれており、歴史を感じさせる道であった。
周りは、杉か桧が植えられており、20メートルはあろうか、枝打ちされ整然と立ち並ぶ木々の間を歩くのはとても心地よかった。
古城跡は大した見どころがなかったが、帰り道を歩きながら
「これは面白い、熊野古道みたいだ」
と感じていた。道幅は2メートルほどで杉や桧の枝が足元に落ちており、少し歩きにくい。しかし、見上げれば空がほとんど見えず、緑の中に覆われている感覚が心地よかった。
その日を境に僕はこの道がどこまで続くのか歩き回り、そして道に落ちている枝を拾っては、谷側へ捨てることを繰り返した。
ここでアントニオ猪木の言葉を引用したい。
「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。 ありがとう!」
2.山道作り 中編
古道作りというか山道の修復する工程を書こうと思う。
家から200メートルほど激坂の登山道を上るとなだらかな横道に変わり、しばらく歩くとT字路にぶつかる。
北に行けば村役場、南に行けばどこまで行くのか。捜索3日目にして「吉野フォレストヒルズ 花ごころ」通称、わらび園という所にたどり着いた。
途中、道が崩れている所や、風倒木が何ヶ所もあり、迂回したり倒れている木を潜ってようやくたどり着く。
そこは東吉野村と川上村を結ぶ林道武木線が通っており、久々にアスファルトの道に出た。ここまで家から5キロ程で、なだらかな上り坂が続いていた。
話は少し逸れるが、屋久島の縄文杉を見に行ったことがある。登山口から2時間くらいアップダウンの少ないトロッコ道をひたすら歩く。
トロッコ道の終点からは激坂が続くのだが、東吉野村で見つけた道はそのトロッコ道のように、なだらかな上り坂で普通に歩けば息は上がらない。
「トレイルランができる道が欲しい」
と東吉野村に引越して、願っていた事の1つが実現しそうだ。ホームセンターでクワを買ってきて崩れた道を直した。
基本的に砕石が多い地質の所が崩れる場合が多く、山側を少しクワで削って道を作る。砂や土が剥き出しになり、大雨が降ればまた崩れる可能性があるので、大きめの石を置いたりした。
あと、ノコギリで切れる範囲の風倒木を撤去したり、落ちている枝をひたすら拾っては谷側に捨てることを繰り返した。
この道作りを40日程かけて障害物はだいぶ少なくなった。ある日僕は、
「車と競走したら勝てるのでは?」
と思えてきた。わらび園の駐車場まで車で妻と一緒に来て、帰り道を競走する事にした。僕は、
「役場の駐車場まで勝負や」
と地下足袋を履いて走った。18分そこそこで役場の駐車場まで走り、地下足袋の勝利。30秒くらい遅れて妻の軽四が戻ってきた。まあ、妻の運転は未熟であるが距離にして倍以上の差がある。
もう少し古道を直して、風倒木を除けることが出来れば、F1ドライバーのアイルトンセナにでも勝てそうな気がした。
この後、わらび園から先の道を探すのに苦労するのだが、今回も猪木の言葉で締めたい。
「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。」
3.山道作り 後編
「サウナ小屋を作りたい」
これが東吉野村に移住した目的であると言い回っていたが、どこに作ろうかと思案していたら、3ヶ月が過ぎていた。
小川地区から古道作りをしていて、林道武木線の足ノ郷峠を越えると川上村まで出た。しかし、それは登山を思わせる激坂の上りと下りが続き、身体への負担が大きい。
試行錯誤を繰り返し、小村(おむら)のわらび園から三尾にかけて、山の中腹になだらかな道があるのが分かった。時間があればクワを持って崩れた道を直しながら何日も掛けて道作りを進めた。
何度も迷いながら、三尾の集落までたどり着いた。そこに蔵心寺というお寺があり、その上を登山道が通っている。
こちらも最初が勾配の急な坂道になるが、山の中腹は、ほとんどが緩やかな道である。
東吉野村の村史に「小川街道」は小、三尾、狭戸、大豆生、麦谷を経て、地蔵峠を越え、川上村の瀬戸に至る。と書かれている。
この小川、小(おむら)、三尾の部分が開通した訳だ。恐らくだが、アスファルトの道が出来るまで、人は、この道を歩いていたと思われる、、、しらんけど。
そうこうしていると4月になり、春の日差しが日を追うごとに強くなってきた。山道に落ちた枝を拾っては捨てる作業でも汗ばむ様になる。
移住者仲間と地元の若者で一緒に飲む機会が重なった。移住コーディネータのOさんは10年くらいこの村を見てきたが、
「地元の若者とこんな感じで交流するのは初めてだ」
と言っていた。そんな飲み会を繰り返す内に仲良くなった地元土建屋の息子さんが、
「仕事探しとんやったら、ウチに来たらええやん」
と言ってくれた。そして僕は
「週に2回、火曜と水曜だけでもいいですか?」
と答えた。すかさず、土建屋さんの専務をしている息子は
「いいでしょう!」
とこころよく受け入れてくれた。
今日はその土建屋さんの現場で働いて、家でシャワーを浴びビール片手にこれを書いている。夕日がまだ高く、風が涼しい。
とりあえず今日もアントニオの言葉で筆を置くことにする。
「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。 ありがとう!」
4.サウナ作り 上巻
村の土建屋さんで週2日だけ働き始めた。
残りの5日でやりたいことは、何か?
大きく分けて3つある。
1つ目はケータイ屋。
エックスモバイルの代理店を始めた。
これは物価高と言われる現在に於いて、生活費を下げるには通信費の見直しだと以前から思っていた。その中で特に携帯代の見直しはあまり知られていない様に思う。
山間部はドコモの電波が圧倒的に強いので、ドコモ回線を用いたMVNOのエックスモバイル社の代理店契約を取得した。
ケータイを売っている様に思われる事が多いが、回線を売っているのが現状である。周知してもらうには時間がかかるので、じっくり説明しながら長い目でやって行かなければならない。
まず戸別訪問というか、各戸にチラシを配っている。反応は少ないが、徐々に周知するには唯一の方法だと思う。
2つ目は、シェアハウスを作る。
これは村にある空き家を安く借りるか買い取って、改修しシェアハウスとして貸し出そうと考えている。
モデルは「山奥ニート」
十津川村近くにある和歌山県の山奥で流行っている形だ。最近は本だけでなく映画化されるという。
そしてその形が滋賀県やその近隣にも誕生している。
3つ目はサウナ小屋。
移住して来られたYさんの家の裏に山があり、そこを開拓して、畑を作ろうとされている。その空いている土地に
「小屋を作りたい」
と言われていた。僕が地元の土建屋さんと仲良くなるきっかけを作ってくれた人でもある。
「サウナ小屋でよかったら、僕作りますよ」
これがこのエッセイの元ネタである。
Yさんは必要な材料を全て揃えてくれて、ユンボやトラックも使っていいと言う。
今回はサウナ小屋を初めて作るので、
「仲間内で使うやつを作ろう」
という感じで始まった。何はともあれ、サウナ作り初日。トラックに乗って名張のビバホームまでやってきた。そして以下に記す大量の買い物をした。
バラス25キロ×10袋、束石10個、バタ角2m×2本、2×4(ツーバイフォー)8F×4本、10F×6本、野地板4畳分、防水シート、断熱材、などこれでも床を完成させるまでの買い物である。
メインはスギと桧の壁板なのだが、それらは後に地元の製材所で仕入れるとして、とりあえず床の材料を揃えた。
作っている動画を僕のX(旧Twitter)でアップしているので、興味ある方はいいねボタンとフォローをして頂くとありがたい。
5.サウナ作り 下巻
X(Twitter)で動画を上げているという話を前回はしたが、文章の好きなnoteファンにサウナ小屋作りの素晴らしさを文字で伝えたいと思う。
鍬で穴を掘り、束石を置く。
この基礎工事の基本中の基本。土木の教科書1ページ目に載っている工程だが、簡単そうに見えて実は難しい。
まず束石をどのように配置するか、これが重要である。四隅は絶対に必要だろう。
横273センチ、縦182センチの小屋を作る。
3尺ピッチというのが日本建築の基本とするなら、横は後2個、縦は真ん中に1個置けばいい。これが2辺あるので束石は合計10個になる。
絵にすると簡単なのだが、文字だと分かりづらいのが建築である。ちなみに建築資材は今でも尺貫法を使っているので、このサイズで建てれば無駄が少ない。
また、束石の周りはバラスを敷いて固める。バラスとは砂利石のことで束を安定させるために敷く。
ここで大切なポイントは大体の高さを合わせることだ。鍬で穴を掘ってレベルを出すのは10センチ程の誤差を目安にすれば楽にできると思う。
ミリ単位でレベルを合わすのは、バタ角の束と2×4(ツーバイフォー)の大引きである。
専門的な用語で何言ってるのか分からない方は僕のTwitterで動画を見れば解るかも、いいねとフォローも宜しく。
サウナ小屋の基礎と床工事のさらに詳細を書こうと思ったが
「誰が興味あんねん!」
と突っ込まれそうなので、土建屋さんで仕事の休憩中に聞いた話を少し書きたい。
ある時、東吉野村に国の補助金を使って各民家の近くに外灯をつけることになった。
地元の人は喜んだが、移住してきた人の中には何故か反対する人がいるらしい。
「月が綺麗に見えなくなる」
これが反対する人の理由らしい。足元を明るくして転ぶことを防止するよりも、月を見上げて夜の風情を優先する様な人間は地元にはいない。
なんせ変わり者だと、馬鹿にされるだけではなく、地区内で真剣に議論して揉めにもめた。冗談では無く本当の話である。
さて、サウナ小屋の基礎の話をしよう。
バラスを束石の周りに敷き詰めるのは基礎束を安定させるだけではなく、小屋の足元から雑草が生えるのを防止する効果もある。
バラスというのは、『砕石』とも呼ばれ、線路などに敷いてあるグレーからやや黒みがかった砂利のことである。
ホームセンターで大量にそれを購入したことを土建屋の社長に伝えると
「その半額の値段で、バラスを軽トラの荷台に積み上げてやるよ」
と言ってくれた。次からは、お願いしようと思う。
小屋の基礎の話など面白くないと思うので、水風呂の話をしたい。
サウナと言えば水風呂という人も多いのではないか。ここ東吉野村では冷たい沢の水を使い放題である。もちろんタダ。
タダより高いものはないと思われるかもしれないが、湧き出ている沢にエンビのホースを突っ込みタンクで受ける。
そのタンクはホームセンターに売っている1番デカいやつを買ってきた。
500リットルの大容量のタンクを山の斜面に設置して、サウナ小屋の横にホースを引っ張る。
まだ、床しか出来上がっていない小屋の横で、はやる気持ちを抑えきれずに水路を作った。
凄い水圧で冷たい水が出てきた時は、ウッドデッキにも満たない床だけの小屋の横で大はしゃぎした。
「捕らぬ狸の皮算用」
とはこのことか、妻から白い目で見られ
「水より先に壁を作れば 」
と言われているようで辛かった。次は壁の材料を買ってこようと思う。
6.天誅組の変 上巻
東吉野村にはニホンオオカミが最後に捕獲された場所として観光地化しようとしたが、インパクトの弱さというか...渋谷駅にある、ハチ公のような銅像が山間部の何もない県道沿いにポツンとある。
1905年に捕獲され、その剥製はロンドンの大英博物館に現存するらしい。
日本最後のオオカミが捕獲された日よりもさらに42年さかのぼる。幕末に天誅組の変という事件が起こる。
その幕末の志士が討ち取られた場所として、天誅組をこの村は観光の柱にしようとしているが、インパクトのほどは如何なものか。
1863年なので大政奉還の5年前の話である。幕末の歴史が好きな自分でも天誅組のことは、ほとんど知らなかった。
維新先駆けの志士と呼ばれる天誅組について少しだけ触れてみたい。
京都の長州藩邸にいた吉村寅太郎ら数十人が同志を募り討幕の兵をあげた。
そして現在の五條市にある五條代官所に打ち入り、代官の首を斬った。39人の若者が、
「江戸幕府を倒すぞ!」
とテロを起こしたワケである。
奈良県五條市の代官所は当時、15人しかおらず、しかもその夜は宴会をしていたそうだ。
錯覚革命という言葉があるとすれば、この天誅組の変こそまさにそうだと思う。
京都では尊王攘夷が盛り上がり始めていたが、日本中がまだ何事もなく暮らしているときに、大和の田舎で、「五條新政府」まで建てて騒いでいた。
五條代官所を襲撃した天誅組は、吉野の山中でキコリをする十津川郷士に声をかけ1000人を超す大部隊になった。
「次は高取城を落としてやる」
勢いに乗る天誅組に比べて、高取藩兵は150人。それは皆震え上がっていたと思う。
この譜代大名の高取藩植村家はブリキトースと呼ばれる大砲を持っていた。
それは大坂夏の陣で大阪城攻略のため作られた物で、淀様と秀頼公を震え上がらせた例の大砲である。
1615年、大阪夏の陣で使った6門の巨砲全てを徳川家康は高取藩にさずけた。それから約250年、一度も使われていなかったらしい。
各砲ごとに大砲方という役があり200年間もの長きに渡り、録をもらい、子を生み、受け継いできた。
たった一門の砲を撫でさするだけで、6つの家は、禄をもらい子々孫々生きてきた。
その6つの家は互いに牽制し合い、他家の大砲には触れないという掟があったそうだ。
どの大砲方の家も、200年のあいだ、口伝で火薬の調整法を伝えている。ただ一つの家を除いては、火をつけても爆発せず、実際は何の役にもたたなかった。
しかし、笠塚新次郎という緒方塾で学んだ者だけが、新知識の火薬を使い、轟然と砲口から火をふき、撃ちまくった。
笠塚家のブリキトースの大砲で天誅組は壊滅してしまう。
今回は歴史小説みたいになってしまい、纏まりがない感じなので、これにて。
7.天誅組の変 下巻
前回は歴史小説みたいになってしまい、不評かと思いきや、以外と好評だったので、今回は天誅組シリーズ第2弾を書きたいと思う。
ここ東吉野村には、天誅組が最後に殺された場所やその状況は多々見かけられるが、天誅組の彼らがどのように戦い、どんな思想を持っていたのかというところが、あまり知られていないと思っている。
偉そうな文体に見えて、大変恐縮なのだが、僕の書いている情報元は、ほとんどが司馬遼太郎の「おお、大砲」という短編小説からである。偏った見解と思われたら、ごめんなさい。
前回は、高取城にて天誅組が壊滅状態になったところまで書いた。その壊走した天誅組の損害は後から調べると、なんと十津川郷士1人のみで、しかも崩れたった味方の足に踏まれて死んだものであった。
そもそも天誅組は公卿の子(中山忠光19歳)に支配された浪人達と十津川郷士というキコリの集団である。
高取城攻撃は戦史にまれな、愚かな攻城法をとることになった。
高取城へ登る細い道を行列で攻めていく。行列で攻めるという事は、後ろの者が戦闘できない。
極端に言えば1000人もの縦隊の先頭数人だけが城の敵と戦っているようなものであった。後ろの者はただ行列を作って見ているだけである。
江戸幕府250年もの間、誰も戦争を経験していないので仕方のないことかもしれない。城を先頭に1,000人の行列が並んでいる状況で、あのブリキトースの巨砲が火を噴いた。
四分五裂した天誅組の敗兵は、その日没まで南大和のあらゆる村道で見られたというから、よほど手ひどい潰走だったらしい。
十津川郷士は天誅組を天朝様の軍だと思っていた。しかし、数日前に政変があり、ただの暴徒であると知らされ、ほとんどの者が憤慨して帰ることになる。
そして奥大和に逃げ込んだ天誅組の浪人隊士は戦死、自害もしくは刑死の運命をたどることになる。このくだりは、東吉野村ではよく知られている。
さて天誅組が壊滅したこの東吉野村からアントニオ猪木の言葉を送りたい。
「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ」
8. 日裏
妻と子供を連れて、日裏という集落に行った話を書こうと思う。
東吉野村は鷲家口から丹生川上神社がメインの通りで小学校、役場、こども園などがある。神社から上は高見川と四郷川の二手に分かれ、その川沿いを県道が走っている。
一般的に知られているのはそこまでだ。キャンプ場とつくばね発電所があるので、もしかしたら、日裏川の下流域までは訪れた人がいるかもしれない。
つくばね発電所から5キロ以上、日裏川沿いにその道は続く。途中は急勾配の上り坂や、ヘヤピンカーブの連続である。
日裏へ行くことになった、いきさつを少し触れておこう。大豆生(マメオ)にT爺と呼ばれる長老がいる。
「ワシは昔、ヘリコプターに乗っとった」
と山行きで、材木を搬出する仕事に就いておられたらしい。ふるさと村の食堂でお酒を飲んでいる席にご一緒させて頂いた。
ここで日裏からお嫁にこられた奧さんの話を少し聞いていた。
5月になり再会したのが、三尾の田中酒店でT爺は一人で飲んでおられて、
「よう走る兄ちゃんやな」
と声をかけられた。そして一緒に飲んでいると日裏の話になった。いろいろ聞いていると、ほんとに日裏を見に行きたくなってきた。
「T爺、明日迎えに行くから、一緒に行ってくれる?」
とお願いしたら、
「いいよー」
と二つ返事で返してくれた。
翌日、日裏への道をひたすら上っていると、左手に開けた土地が突如あらわれる。ヘリコプターの発着場で公衆トイレも見えた。
そこを少し過ぎると天一神社が右手にあり、車を停め家族3人とT爺で参拝した。境内には300年は優に超える巨木がある。
大人4〜5人が両手いっぱい広げて囲める程の幹は、天に向かって聳えていた。
境内だけではなく、周りを見渡せば何本も巨木が聳えたっており、神秘的な雰囲気を醸しだしている。
参拝を終え、車でカーブ2つを超えると集落が現れた。天に一番近い集落。周りの山が目線より下にあるので空が広く、日当たりは最高である。
「いや〜、懐かしいの〜、10年ぶりじゃ!」
奇しくもこの日は端午の節句で、4才の息子が陽気に走り回っている。区長とその隣の家で山行きの仕事をされている方と世間話をした。
この日は居なかったが、すぐ上の家にお婆さんが一人で住んでおられ、全部で3軒が日裏で残っている在所であるという。
東吉野村の中で標高が1番高い在所であろう。夏は涼しくて過ごしやすそうなので、8月にもう一度、訪れたのだが、扇風機も要らない快適さであった。
9.峠の水の行方
サウナ小屋作りをお休みしていたというか、頓挫した話をここでしなければならない。
まだ、そんなに経過していないので、上手く消化出来ていないが、とにかく今回のサウナ小屋に関しては中止という決定になった。
次の場所を一から探さなければならない。
何がいけなかったか、いろいろあるがここで書くと全て言い訳に見えるし、まだ日が浅いので、書くのはやめておく。
今日は雨が止んだので、久々に家から三尾の田中酒店まで山道を走った。59分43秒、コースレコードの更新である。
生ビールを3杯程頂きながら、酒店の大将との会話が興味深く感じたので少し書きたい。大将は、
「佐倉峠の水は何処に流れるか、知っちょるか?」
と聞いてきた。佐倉峠とは東吉野村の入口である。
南向きは鷲家川を伝って高見川、吉野川そして紀ノ川が紀伊水道に注ぐ。これは分かる。
よって北向きは、大和川水系かなと思い、その様に答えた。しかし、酒屋の大将は、
「それが違うんよ。室生の方に流れて名張川に出る、この名張川ちゅうのは淀川水系で大阪湾までいっちょるわけや」
と教えてくれた。後で調べてみると、本当に川は京都・大阪府境辺りで北東から宇治川(淀川水系本流)、北から桂川と合流し、淀川となっていた。
奈良から三重に入り北上して京都をぐるっと回って大阪にたどり着く。とても遠回りしている様で感慨深い。
いつも通る佐倉峠で立ち小便をすれば、それらルートを伝って大阪湾に至るということである。
この今回のシリーズはこれにて最終回にする。また新たに始めようと思っているが、最後にアントニオ猪木の言葉で締めたいと思う。
「道、この道はどうなるものか、行けばわかるさ、迷わず行けよ。」
完