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親父とオカンとオレ 15 〜2001年アジア放浪記 四 〜

旅の終わりを書きたいと思う。

 シェムリアップの町に3日間滞在して、バンコクに戻ることにした。
 帰りはバンコクまで直行するという、乗り合いバスを見つけた。

 カンボジアからタイの国境を越えると、すぐさま道が快適になった。

 途中に何度か、食堂のような所に停車し、休憩をした。日本のドライブインの原形というか、田舎の駐車場が広い食堂兼土産店。
 そんなある時、コーラの瓶を見つけたので買うことにした。

「テイクアウト?」
とアロハシャツを着た店員が聞いてきた。僕は
「イエス」
と答えて、待っていた。

 アロハの青年はビニール袋を取り出し、なんと直接手で掴んだ氷をその袋の中に入れ、そして、瓶のコーラをすべて注ぎ込んだ。

 さらに、ストローをさして、にっこりと笑い、僕に手渡した。瓶が貴重であったのだろうか。

 僕はアロハの彼が見ていない所で、一口も飲まずにそれを捨てた。
 次からはその場で飲んで、瓶を返すことにしようと心に誓った


 最後の夜はバンコク中央駅近くのホテルに泊まった。

 明日は早く起きてドムアン空港に行く。先輩は果たしてどんな旅をしてきたのか、会うのが楽しみになってきた。

「1人で南に行く」
と僕を置いていったのが、まだ1週間前とは思えない程、いろんなことが起きた。

 佐藤さんなら、マレー鉄道に乗って、マレーシアを越え、シンガポールまで行ったのでは、とか想いを巡らせながら、眠りについた。


 ドムアン空港で搭乗手続きを済ませ、ゲート前の待合場所で先輩を待っていた。

 明らかにズタボロの、誰も近づかない風貌で、先輩は現れた。

 死にかけのスナフキン。カンボジアの難民でも、これ程ボロボロの男はいなかった。

「お、おつ、お疲れ様でーす」
と僕から声をかけた。

「ああぁ、拓か」
と先輩は僕に気付いて、にっこり笑った。

 僕はその笑顔に少し違和感を感じたので、よーく見ると前歯が2本抜けていた。

「どうしたんすか、その前歯は?」
佐藤さんは、またにっこり笑って
「これねー、海岸を歩いてたらコケちゃって、、、」

と先輩は照れるように笑って、抜けた前歯を見せた。

「それはそうと、搭乗手続きを急ぎましょう」
と僕は出発時間が迫っている事に、気を取り戻し、出国ゲートを抜けて帰国の飛行機にギリギリ間に合った。


 機内の隣席にボロボロの破れたTシャツを着た先輩がいる。
 足元は便所スリッパを履いていた。

「そのスリッパはタイで買ったんですか?」
と僕は何から喋っていいのか、分からない状況で、とりあえず聞いてみた。

「ああぁ、これねー。最初はビーサンやったんだけど、かぶれちゃってね、、」
と先輩は目を落とした。

 足元をよく見ると親指と人差し指の間が赤くかぶれており、痛々しい傷の痕が見えた。

 聴くところによると、先輩はマレー鉄道に乗り、タイ南部にあるプーケットの近くまで行った。

 そして、まだ開発されていない島があると聞いて、船で行ったらしい。

 そこで先輩は海岸線をひたすら歩いて、足がズルムケになってしまった。
 そして、靴擦れの痛さに耐えかね、その便所スリッパを見つけ、購入したという。

 しかも、開発されていないと言われた島は、工事現場がたくさんあって、今まさに開発中であったらしい。

 残念なスナフキンを横に、今度は僕の話をした。本物のゲイに襲われそうになったこと。

 アユタヤ、アランヤプラテート、シェムリアップ。先輩がいなくなってからのタイとカンボジアでの旅を語った。


 僕らは成田空港に戻ってきた。入国審査官が先輩を不審者と決めつけ、別室に連れて行こうとしたが、無事に川崎まで帰ってきた。

 凍てつく寒さの中、真夏の格好をした2人は街で浮いた存在だったかもしれない。

 まだ夕方で少し早かったが、いつも行くバーのマスターを見つけて、店を開けてもらった。

 話の流れが西畑君にいった時、ふとマスターが、
「昨日、西畑君のお母さんから電話があって、実は長崎の実家に帰ってたんだって。
 でも、会社の人とは話したくないというから、会社から連絡があっても、ずっと隠してたって、、、
 でも、もう1か月も経ってしまって、どうしたらいい?」
と相談があったらしい。

 あのマジメで不器用な西畑君が失踪したと聞いたときは、ビックリした。
 でも、無事に実家にいると聞いて、なんだか安心した。

 佐藤さんが持っていた、少し血が滲んで底が擦り減ったビーチサンダルに
「マイペンライ」
と書いた。

 そして当時、流行っていたチェキを使い、バーのマスターが僕ら2人の写真を撮った。

 そのサンダルと一緒に送るという。本当は西畑君と佐藤さんと3人で行くはずの旅はこういう形で終結した。

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