忘れられない日
人には誰しも忘れられない日や瞬間があるだろう。学生時代の大会やコンクール、志望校に合格して喜んだ日や、反対に涙を飲んだ日など、普段は意識しないものの、ふとしたきっかけでまるであの日、あの瞬間に戻ったように思い起こされる、そういう時が。
私にもそういう一日がある。
2016年3月31日は、私にとってのそういう一日だ。年度の終わりではあるが、その日に何か特別な行事があったわけではない。長い人生の中で無為に過ごした一日くらい誰にだってあるはずだ。その日も私にとってそんな無為な一日になるはずだった。しかし、その日はなぜか5年以上たった今でも忘れられない一日になっている。
時計の針をその日から数日戻してみる。私たち家族はミニバンのマイカーに大量の荷物を積めながら、東北道を上っていった。東京の大学に合格した私にとっては念願の上京。私の故郷は東北地方の小さな港町で、何をするにも不便なところだった。映画を見るにも1時間半をかけて車に揺られねばならず、コンビニに行くにも車を使わわねば不便な、まさに僻地だった。それ故か、私は東京に出たい一心で東京の大学を受験をして―もちろん勉強したいという願望はあったが―合格し、実際に東京で暮せることが決まってからは、上京までの数か月を指折り数えて楽しみにしていた。そんな中での上京には、なぜか私の家族も私と同じテンションで興奮し、引っ越しの手伝いという名目で一緒についてくることになった。夜の11時頃に出発した私たちは、途中で幾度かの休憩を挟みながらも7時間余りをかけて練馬区のワンルームマンションに行き着いた。マンションには備え付けのベッドと勉強机、テレビ台のほかは何もなく、無機質で生活感の欠片もなかった。そこからは、一人で生活するに必要な家具や家電を買いそろえたり、近郊に住む親戚たちに挨拶をしたりと怒涛のような数日だった。
3月31日の朝は、ごく当たり前の朝だった。父が仕事で戻った後のワンルームマンションでは、私となぜかまだ居座り続ける母と妹の三人が地元に住んでいたころの延長のような生活を送っていた。その朝もそのような具合で、母が一畳ほどの狭いキッチンで拵えた目玉焼きとウインナーを眠い目を擦りながら食べた後は、まだやることが多く残っている新生活の準備に取りかかった。
しかし、いつもと一つ違うことがあった。それは、その日の晩に母と妹を連れて私が思う東京らしいところに連れていくという謎のミッションが私に課せられているということだった。元来、東京―というより、都会―が好きな母たちは、数日間私の引っ越しなどで忙殺されていたことにフラストレーションを感じていたらしく、東京でしか体感できないことに飢えていたのだ。どこに連れていこうか逡巡した私は数月前の受験の日を思い出した。受験が終わり、安堵感を覚えた私は、JRと大江戸線を乗り継ぎ、六本木ヒルズに向かったのだ。六本木という街にとって田舎の高校生はおおよそ相応しくない存在であることには薄々気づいてはいたが、高校生の私が思いつく最も東京らしいところだったのだ。日が暮れて地元ならばとっくの当に漆黒の闇に包まれる時間でも、六本木ヒルズの森タワー展望台から見る東京は、宝玉を散らしたように煌びやかで美しかった。
それを思い出した私は家族を六本木ヒルズに連れていくことに決めた。夕刻になり、練馬の駅から大江戸線に乗って六本木の駅に到着して、大江戸線の異常に深いホーム階から、これまた異常に長いエスカレータを上り、青山ブックセンター脇の出口を出ると、空はすっかりと暗くなっており、それと対照的に街はとても眩しかった。私たちは、あの土地独特の体に食い込まんばかりのスーツを着た黒光りした如何にも胡散臭い成金風の―半グレ風、関東連合風とも云える―男や、堅気で生活しているとは思えない強面の外国人、ヨーロッパなら街娼と間違われんばかりの露出の多い服を着た女たちをかき分けて森タワーを目指した。
森タワーにつくと、早速展望台で東京の街を見下ろし、その光景に母たちは興奮している様子だった。この日、一つ誤算だったのは、その日は展望台と対をなす森美術館で私が興味を引くような展覧会を催していなかったため、案外に時間が余ってしまったことだ。数か月前に来たときは、古代エジプトの展覧会があったため、夜景を楽しむ他に六本木で時間をある程度潰せたが、今日はそういう訳にもいかない。かといって、ショッピングをするかと云えば、そんな心持でもない。展望台から下った私たちは、あてもなくあたりを散策することにした。グルグルと階段を下っていくと、そこにはどこかで見覚えのある景色があった。
仄暗い中照明に照らされたそれは、テレビ朝日の前庭である毛利庭園だった。見覚えのある、というもの、この場所は平日22時から始まる、テレビ朝日系の人気ニュース番組「報道ステーション」の天気のコーナーで中継されている場所だった。まだ地元に暮らしていた時分は、家族でしばしばこの番組を見ながらニュースに対して意見を交わしていた―ほぼ、私が一方的に話していただけかもしれないが―。それ故に、毛利庭園は実際に来ていないながらも、親しみがある場所だった。
東京に来てからも、夜になると「報道ステーション」を見ていたが、数日来、番組のテイストがいつもと違っていた。3月末日を以て、12年にわたって番組のアンカーを務めたフリーアナウンサーの古舘伊知郎が卒業するのだ。そのため、3月の中頃から古舘番組卒業を打ち出した番組編成となっていた。古舘が番組を卒業すること、そして卒業する日が今日、2016年3月31日であることをこの毛利庭園を見たときに思い出した。
先にも述べたように、「報道ステーション」は実家の茶の間で家族で見るものだった。オープニングテーマ曲「I am」のピアノの旋律が聴こえてくるのとほぼ同時に風呂から上がった母が茶の間で髪を乾かし始める。母が使っているシャンプーの匂いがドライヤーの風で茶の間に広がる。乾かす音が五月蠅いと文句を言いながらも、家族で「報道ステーション」に見入る日常がたまらなく好きだった。
毛利庭園は、長く田舎にいた私にとっては地元で見るテレビの向こう側そのものだった。しかし、今―その瞬間―、私は液晶を介さずにそれを目の前にしている。その瞬間、私にとって、上京ということに対する意識が変わった気がした。これまで考えてきた上京とは、ただ単に住む場所が煌びやかな街になるというものだったが、その時思ったのはこれまで家族と過ごしてきたテレビを前にした家族との田舎での日常が断絶したうえで、テレビの向こう側の世界である東京で一人で過ごす全く新しい日常が始まるということだ。なぜか毛利庭園を見た後、無性に家に帰りたくなった。どうしても、家族でテレビで「報道ステーション」を見たいという気持ちになったのだ。
なんだかんだ、夕食を摂ったりして家についたのは確か21時を過ぎた頃合いだったと思う。母と妹が先に風呂にシャワーを浴びる中、私はテレビの前で22時の「報道ステーション」の開始を待ち構えていた。「I am」が鳴り、いつもより長いアバンが流れると、ちょうど見計らったかのように、母が髪を乾かし始めた。いつもなら小言の一つも言っているが、私はそれもこの番組の、この時間の生活の一部のように感じ、何も言わなかった。数十分続いたニュースが終わると、カメラが六本木のけやき坂を映した後、アンカーの古舘の正面を映した。古舘は、カメラに向かって話し始めた。8分近くに及ぶ、まさに名調子の演説だった。「I am」のフィナーレの部分が流れ始めると、古舘は次のように語りお辞儀して番組を締めくくった。
私は今こんな思いでいます。人の情けにつかまりながら、折れた情けの枝で死ぬ。「浪花節だよ人生は」の一節です。死んでまた再生します。皆さん、本当にありがとうございました。
この言葉を聞き終えた私は毛利庭園を見て思った、地元ではない場所で「死んでまた再生する」ように新しい日常が始まること改めて突き付けられたような気がした。一個体が命を続けている限り、死んで再生するということは、ある特殊なクラゲをのぞいてあり得ないが、人間にとっては、人生の中でそんなことが多々ある。例えば、結婚などはこれまでの家族との日常から断絶した形で自ら選んだ配偶者と新しい家族を築き上げる。これも言ってみれば、「死と再生」というメタファーで表せる、これまでの人生との大きな断絶と新しい人生の再スタートの一つだろう。
私にとっての「死と再生」はこれまで述べてきた通りだ。なんということのない一日でもふとした出会い―人に限らず―があると、それを意識し、結果的に出会ったその日が、忘れられない一日になることがある。「報道ステーション」の2代目テーマ曲「I am」は私にとってこれまでの日常のエンディングテーマになった。