音もなく、飛んでいた
1 [湖の近くで育ったメル]
皆さんはどれほどご存知でしょうか。穏やかに澄み渡り、凪いだ湖面の美しさを。冬の日差しを照り返し、寡黙な寒さの中で必要なことだけを静かに語るあの美しい湖の囁きを。
今日も世界は大きく、その大きさに比例するように大騒ぎをしていて、けれどメルの小さな胸の中からは小さな音しか聞こえません。とくとくとく、と小さく密やかに鳴るその音は、小さいながらも力強く、生命の奇跡を証明し続けているのです。
メルはその音に耳を傾けます。平かな胸に、これもまたおうとつの少ない小さな掌を当てて。
その静かな音をメルはよく知っています。穏やかに澄み渡り凪いでいる、そして冬の日差しを照り返し、寡黙な寒さの中で必要なことだけを静かに語るあの美しい湖の近くで育った為に。
メルの両親はとある湖畔でホテルを経営していました。それは元々メルの祖父が建てたホテルで、それなりに立派なホテルでした。シーズンともなると沢山のお客様が訪れましたがが、今はオフシーズンでホテルの客もまばらでした。
ホテルには多くのスタッフが働いています。コンシェルジュのプシェキダエをはじめとして、フロントスタッフやレストランスタッフ、掃除婦やバーテンダーまで。
プシェキダエは薄くなりつつある頭髪をいつもぴったりと後ろに撫で付けて、小蠅ほどの塵も見逃さないぞという顔でホテルを歩き回っています。両親は頼りになる男だと評価していますが、メルは彼が苦手でした。彼の眸には感情というものが、ほとんど感じられないように見えたからです。
そんなプシェキダエをはじめとする多くのスタッフのひとりに、掃除婦のガーデニアがいます。ガーデニアはシガーラの母で、ふっくらとした体型のお喋りの大好きなご婦人です。彼女たち親子はホテルの女中部屋に住み込んでいて、そのためにシガーラとメルは小さな頃から幼馴染みとして育ったのでした。
シガーラはメルと同い年の十九になろうという娘で、少し軽率ですが明るい女の子です。悪い子では決してないのですが、母親と同じようにお喋り好きで、お喋り好きな人というのは概して詮索好きでもあります。更に彼女は時に酷いことばも喋りすぎるという欠点も持ち合せていて、彼女たちとのお喋りは時として一緒にいる人たちを不快にさせてしまったりもするのでした。
シガーラやガーデニアのお喋りの槍玉にあげられるのは、スタッフからお客まで様々な人がいましたが、その中でも最も回数の多いのはプシェキダエです。彼女たちはプシェキダエを陰では虫と呼び、とっても面白可笑しく、情感たっぷりに皮肉や冗談を言うので、そんな時には悪いと思いながらもメルも笑わずにはいられません。
「自分がホテルを経営してるつもりになってるのよ。厭な感じよね。完全無欠で御座い、って顔しちゃってさ。きっと背筋の角度まで、分度器で測ってるわよあれ」
そんな風に捲し立てては、彼がスタッフたちに指示をする真似をするのですが、それがとても似ていてメルはいつもそこで思わず吹き出してしまうのでした。
ホテルの近くには美しい常緑樹の繁る小道があり、湖岸のその道を木漏れ日のシャワーを浴びながら歩くのがメルは大好きです。
木々の足下には、ひっそりと水仙などがその美しい横顔を項垂れており、それらが時折メルのスカートの裾を引っ張っていたずらしたりするのです。
今となってはその道もコンクリートで舗装されてしまいましたが、その当時、メルがまだ十九の頃には足下は土で、大地の柔らかさや懐の深さなどを感じながら土と植物たちが織り成す複雑で優しい馨りの音色に耳を傾けるのも、楽しみのうちのひとつでした。
ホテルのスタッフたちは、メルが大好きです。彼女は少しいたずらっぽいところはあるものの、偉ぶるところがなく、天真爛漫で、よく笑いよく働く少女でした。
彼女がその小さな身体を使って、あちらからこちら、もしくはこちらからあちら、と飛び回る度に、スタッフたちはその残像の裾を掴んで止まらせ、「そんなことは私たちが致します」と言うのですが、メルはいいのよそんなの、とその手をすり抜けて次の仕事へ向かっていってしまうのです。
一度など、フロントスタッフのフォルマを手伝いすぎた所為で、彼がプシェキダエに𠮟られてしまったほどです。
フォルマは仕事は出来るのですが、なにせ凄く寡黙で気弱な男でメルの残像を捕まえることも出来なければ、プシェキダエに𠮟られた時に反論も言い訳も出来なかったのです。メルは慌てて飛び出ていって、私が勝手に手伝ったのよ、とプシェキダエに話し事無きを得ましたが、それ以来メルは反省しスタッフたちの仕事を奪いすぎない程度に手伝うことにしています。飽くまで彼女の判断の中では、ということですが。
その日もホテルの手伝いをしすぎないようにと、適当なところで切り上げて、湖岸の小道をメルはひとりで散歩していました。
空は青く湖面は凪いで、陽光が水面に反射し世界を銀色に輝かせています。土と木々の匂いや小さな音たちにメルは耳を澄ませました。小鳥たちの囁きや羽ばたく音、足下ではかさかさと小さな蟲たちが働いている音がします。
そんな風にしていると徐々に小さな音に意識が集中されていき、メルの鼓膜はもっと小さい音まで聞き分けられるようになっていきました。とくとくという心臓の音や、身体中を血が駆け巡る、ごうごうという音。メルは自分の肉体という小宇宙の中に意識を放り出し、その蠢くエネルギーの洪水の中で手足を広げました。
どこまでも広がる、無限の宇宙。その中は真っ暗で、何も見えません。何も見えないということは、輪郭も境目も見えなくなるということです。だからメルは自分がどこまでもどこまでも広がり、大きな大きな何かと繫がって、自分の身体がその一部になっているような氣がしました。
2 [下弦の鼠は前歯が欠けている]
その時、暗闇の奥、宇宙のどこか遠い場所で、彼女を呼ぶ声が微かに聞こえました。メルはゆっくり目を開くと、目の前にはやはり木漏れ日の射す小道、そしてその奥には銀色に輝く凪いだ湖面。そして自分の肉体には輪郭があります。その肉体の後ろから、おおい、と自分を呼びかける声が聞こえました。今度は現実にはっきりと。
振り向くとシガーラがこちらに向かって走ってきているのが見えました。ふたつのおさげ髪を揺らして、ワンピースをはためかせながら。
「シガーラ、そんなに焦ってどうしたの?」
メルが静かにそう訊ねると、シガーラはようやくメルに辿り着いて、肩で息をしながらきらきらと輝く目をこちらに向けます。
「はぁはぁ、今ね、ホテルにね、はぁ、お客さんがいらしたんだけどね、それが、誰だと思う?」
メルが答えようとすると、それを遮ってシガーラが叫んだので、メルはまた黙らざるを得なくなりました。
「聞いて驚かないでよ! それがね、あの俳優のトゥルヴィスクスなの!」
「私、あんまり映画とか見ないからわからないんだけど、それって有名な人なの?」
シガーラは目を見開き、戦時下のメディアのように言論統制されて絶句した唇を、音もなくぱくぱくさせます。
「あんたって、本当に世間知らずなのね! トゥルヴィスクスって言ったら、今やドル箱スターなのよ! この国に暮らしてて、トゥルヴィスクスを知らないなんて、非国民だわ!」
シガーラは興奮のあまり、雨粒のように唾を飛ばして、メルを叱りつけます。メルは肩をすくめて、ごめん、と謝りました。
「ほら見て。あのサングラスの人」
シガーラに手を引かれてホテルに戻ると、なるほど、確かに背が高くスタイルの良い男の人がフロントと何かを話していました。
「あれがトゥル、ヴィルクルさんなのね。確かに凄い上背」
「トゥルヴィスクスよ、莫迦ね。そう、そうなの。格好いいわよねえ! あの人って女優のアガパンサスと噂になってたけど、今回の旅行は一緒じゃないのかしら。一人で来てるわよね」
彼女にそう言われてメルは周りを見渡してみましたが、シーズンオフのホテルにはスタッフとトゥルヴィスクス、あとは数人の滞在客がロビーのソファに腰掛けて、気怠げに新聞や何かを読んでいるだけでした。
その時、トゥルヴィスクスが自分を見つめるメルやシガーラに気付いて、フロントと更に二、三の言葉を交わしました。それから二人のもとに近づいてくると、なんと彼はサングラスを外して丁寧な挨拶をしたのです。
「今フロントに伺ったら、このホテルのオーナーの娘さんとそのご友人とのことで。私は俳優をしております、トゥルヴィスクスと申します」
メルも驚きましたが、それよりもシガーラの驚きと興奮たるや、それはそれは今までに誰も見たことがないほどでした。
「私! 知ってます! 『深呼吸と月』も見ましたし、『辿り着く』も見ました! でも、でも一番好きな出演作はやっぱりロカ・コンスティトゥシオン監督の『下弦の鼠は前歯が欠けている』です!」
シガーラは直立不動で、まるで誰かが間違ってリモコンのボタンを押してしまったかのように、二倍速のスピードでそう捲し立てました。
彼女のそんな調子外れな上滑りした態度にも動じることなく、トゥルヴィスクスは真っ白い歯を見せてお礼を言います。芸能人の人達は、こういった反応にも慣れているのかもしれない、とメルは思いました。
「今回のご旅行は、プライベーエトッ、ですか?」
シガーラが半分ひっくり返った、奇妙な発音でした質問にも、トゥルヴィスクスは臆することなく、穏やかに頷きます。
「ええ、今は丁度オフで。骨休めに静かなこの湖畔にやってきたんです」
「それは素晴らしいですね。今はこの辺りはシーズンオフで、観光客もほとんどいません。観光シーズンに較べれば少し寂しいような感じもするでしょうが、お静かに心と身体を休めるには最適の時期です」
それだけ言うと、どうぞごゆっくりとおくつろぎ下さいまし、と頭を下げて、メルはさっとトゥルヴィスクスから離れました。ちょ、ちょっとぉ、と情けない声を出してシガーラがメルを引き止めようとするのも待たずして。
「せっかく大スターが向こうから話しかけてくれたのに、メルったらあんなに素っ気なく逃げちゃって。あーあ、勿体ないったらないわ」
シガーラはロビーから出るメルを追いかけながら、さも残念そうに言います。ですがメルは微笑みながら、
「あら、あの方、骨休めって言ってたじゃない。いつまでも若い娘たちに監視されたら、休まるものも休まらないわ。私、お客様のお寛ぎの邪魔だけはしたくないもの」
と言って、また湖畔の道を日差しの中、すいすいと歩き出すのでした。
「それにしても、見た? あのスタイル、美しくて白い歯、蕩けるような笑顔に、あの自然で何気ないのに気品に満ちた動作! 同じ男なのに、虫とは大違いだったじゃない」
「シガーラったら、そんなこと言ったら悪いわ。誰だってあんな映画スターと較べられたら、見劣りするに決まっているもの」
そう注意しながらも、メルも思わず頭の中で美男子のトゥルヴィスクスと莫迦真面目なプシェキダエを並べて、そのあまりの落差に思わずぷっと吹き出してしまいました。
3 [横領コンシェルジュ]
「あのポリゴン男。お母さんが言ってたけど、虫のお父さんも、とんだ堅物でくそ真面目で嫌われてたみたい。しかもね、どうやらこのホテルの売り上げを使い込んだなんて噂まであったみたいよ。真面目な鉄面皮の裏で、何考えてるんだかわかんない男だったって!」
シガーラの話したその噂は、メルにとっても初耳でした。プシェキダエの父親が横領? 本当だろうか? しかし流石にそれが本当だとしたら、親子二代に渡ってプシェキダエがこのホテルのコンシェルジュをやっている筈がない。そこまで両親も祖父もお人好しではない筈だ。そう、メルは結論づけることにしました。
「それって飽くまで噂だったんじゃない? 流石に父親が横領までしていたら、息子のプシェキダエが今もコンシェルジュをやってるなんてことない筈だわ」
メルがそう言うと、シガータも、それはそうかもね、と不満氣ながらも同意したようでした。
翌日、メルはオープン準備を手伝いながら、フォルマにそれとなくプシェキダエの父親のことを尋ねてみました。このホテルに長年勤めているフォルマなら、何か知っているかもしれない、と思ったのです。フォルマは最初こそああ、とかええ、とか相槌で誤摩化していましたが、やがて沖に浮かぶブイのように、ぽつ、ぽつ、とことばとことばの間に距離を置きながらですが、話し始めてくれました。
「先代のプシェキダエさんも、とても真面目で働き者で、息子さんに負けず劣らず立派な方でした。確かに融通が利かないような所はあって、そういう所を厭う人たちもいたようです。ですが、それはこの先代のオーナー様への、そして何より来てくださるお客様たちへの忠誠心からのこと。決して意地悪や虚栄心から来るものではありませんでしたよ」
テキパキと清潔に仕事をこなしながら、語るフォルマの小さな声を聞いているうちに、彼がプシェキダエ親子に対して感じている特別の情のようなもの、暖かい温情溢れる友愛のきもちをメルは感じたような氣がした。
「じゃあ、あの噂は信じていない? あの、プシェキダエのお父さんが横領をしたっていう……。飽くまで噂だけれど」
メルがそう訊ねると、フォルマの手が一瞬だけぴたりと止まった。
「それは……」
彼はペンを走らせていた名簿帳から視線を外して、虚空を眺めてから悲しげにもう一度俯いた。
「それは、噂ではありません。実際にあった事件です。そしてその時に、先代のプシェキダエさんは自分が横領したのだと自白なさったのです。彼のしたことは決して許されることではありませんが、自分から告白したその勇氣と心意気に免じて、当時のオーナー、つまりあなたのお祖父様ですが、が不問に処したのです」
メルはショックを受けました。横領は噂ではなかった。実際にプシェキダエの父はホテルの金を横領していたのです。それを自分の祖父は見逃した。そしてそのためにプシェキダエは親子二代に渡って、このホテルでコンシェルジュをしているのでした。
なんだか義憤とでも言うべきようなものが、その小さな胸の中で芽生えるのをメルは感じました。
プシェキダエの普段の横柄な、役職は下だとは言え、自分より年上のフォルマに対する態度や発言などが、メルの心に芽生えた義憤の芽に栄養と水を与えます。
その芽はぐんぐんと背丈を伸ばし、あっという間にメルの心の中で大きな木へと育っていきました。
許せない。
あの人、あんなに自分は清廉潔白だという顔をして他人に指図ばかりしているけれど、何よ。結局は泥棒の息子なんじゃないの。自分たちは許されているのに、他人を許さないなんて。それにお祖父様もお祖父様よ。罪を見逃すなんてだらしない情けをおかけなさったせいで、今でもホテルに巨悪がのさばっているじゃない。
メルの眉間に皺が寄るのを見ていたフォルマは慌てて、とはいえ、と今言ったことを否定するように自分の発言を補填しました。
「とはいえ、プシェキダエさんの過ちはそれ一度きりでしたし、彼の勤務態度はそれ以前も以降も、とても真面目なものでした。お祖父様は何も単なる老婆心から彼をお許しになったのではなく、それ以降のプシェキダエさんの行動や姿勢もご覧になられて、最後に全てをお許しになったのだと思います。ご子息のプシェキダエさんも、コンシェルジュになられたのは実力ですよ。彼も本当に真面目で仕事が出来ますから」
「でも、あなただってお仕事が出来るじゃない。あなたがコンシェルジュになったって良い筈だわ。年齢だって彼より上なのだし」
メルがそう言うと、フォルマは照れくさそうに笑って、ありがとうございます、とお辞儀をしました。
「ですが、やはり人には適否というものがあります。服装だって大切なのは着ている服の値段の高低よりも、その服が身体に合っているかどうかでしょう。纏足は如何に美しいと人が褒めそやそうと、矢張り本人に苦痛を与えます。私はこの仕事に、誇りと楽しみを見出せていて、それが何よりではないでしょうか」
フォルマの美しい眸を見て、メルは自分がなんだかとてもちっぽけに思えました。何故でしょう? 彼女の感じていた義憤は、正義の怒りだった筈だったのに。彼女の頭は混乱し、途端に進むべき方向を失い、さざなみに揺られて大海の上にぽつんと佇む小舟のように、酷い心細さを感じるのでした。
二人が黙って仕事を再開すると、エレベーターが開いてトゥルビスクスが出てきました。
彼を見つけた時、フォルマが少しだけ氣まずそうにしたのをメルは見逃しませんでした。トゥルビスクスはメルに微笑みながら挨拶をして、少し出掛けますので、とフォルマに声をかけました。
フォルマはいってらっしゃいませ、と頭を深く下げ、もう一度仕事に戻った時には、もうその様子におかしな部分は見受けられませんでした。
メルは考えます。一体、さっきのフォルマの表情はなんだろう? けれど今はもう彼は普通に作業をしているし、すべて自分の氣の所為だったのだろうか?
結局フォルマはそれからはもう氣まずそうにすることも、特にトゥルビスクスに関してもプシェキダエに関しても話をすることもなく、メルはいつも通り彼を手伝いすぎないように手伝いを切り上げたのでした。
4 [義憤の大木と鳶色の瞳]
メルが昼食を食べに食堂へ行くと、奥の席で朝の清掃を終えたガーデニアがシガーラと一緒にブランチをとっているのが見えました。
食事を受け取ったメルは、シガーラの横に座ります。ガーデニア親娘はいつも通り、噂話に興じてきゃっきゃっと笑っていました。
「ねぇ、ママ。トゥルビスクスさんのお部屋は清掃したの? どうだった? 彼って部屋を綺麗にしておくタイプ? それとももっとワイルドな感じかしら?」
「そんなお客様のプライベートに関する事柄、いくら娘のお前にとは言え、この私が漏らすわけがないでしょう? それにしても、彼は相変わらず美形だったわね」
ガーデニアはメルの方をちらりと見て、わかりやすく言い繕いました。シガーラがいつもは教えてくれるじゃない、と言いかけたのも遮り、この子ったら全くねぇ、とお愛想笑いを振り撒きます。
メルはガーデニアのお喋りとシガーラの節操の無さに少し呆れながら、お客様のプライバシーは侵害しないようにね、とだけ忠告をしました。
「それにしても、相変わらず、ってガーデニアさん、まるでトゥルビスクスさんを昔からご存知だったみたいね?」
あら、と笑うガーデニアの皿の上では、食べ残されている人参のソテーが、悲しげに微睡んでいます。まるで自分の出番を薄暗い楽屋で待ち続ける、草臥れた売れない役者のように。それをフォークでいたずらに弄びながら、ガーデニアは笑って言いました。
「メル、あなただって知ってるわよ。それにシガーラもね。二人とも全然覚えていないみたいだけれど」
それは食堂の全ての机が振動で震えるほどの大声でした。シガーラの絶叫。びりびりと響く大声の余韻に、メルは身体を硬くして耳の上で握りこぶしを作ります。
「あたしがトゥルビスクスさんを昔から知ってるなんて! 嘘だったら承知しないわよ、ママ!」
娘の凄い剣幕に気圧されつつも、ガーデニアは嘘じゃないわよ、嘘なんて言うもんですか、と耳鳴りする自分の耳をさすりながら応えました。
「トゥルビスクスさんのお父さんはね、昔このホテルで働いてたの。私がとっても若い頃の話だけどね。それでもあなたたちが生まれて、多少のことばを喋れるようになるまではいらっしゃった筈よ。トゥルビスクスさんは子供の頃から、もの凄い美形でねぇ。まさかあんなに有名人になるなんて、当時は想像もつかなかったけど」
「なんてロマンティックなのかしら! このホテルがトゥルヴィスクスさんの思い出の場所なんて。あたしに気付いたかな? それとも見違えちゃって、わからなかったかしら?」
忘れられているかもしれない、という選択肢を持たない夢見がちなシガーラの性格を呆れながら少し羨ましく感じたりもしながら、さぁね、とメルは話を濁しました。
それにしてもトゥルヴィスクスの父親がこのホテルに勤めていたとは、メルにとって大きな驚きでした。朝方のトゥルヴィスクスを見た時のフォルマの一瞬の動揺、あれはトゥルヴィスクスの父に関係することだったのでしょうか? トゥルヴィスクスとその父親がこのホテルにいた頃には既に、フォルマも既にこのホテルで働いていた筈ですから。
食事を終えてもガーデニアとシガーラは食堂でお喋りに興じていましたが、メルは自分が食べ終わると切りのいい所で二人に挨拶をし、席を立ちました。湖の横の小道で、ゆっくりと色々なことを考えたい。そう思ったのでした。
やっぱり許せない。
静かな小道で木々たちと風の内緒話を伴奏にして、ゆっくりと物思いに耽った結果、そんな風に考えていた矢先だったので、ホテルのラウンジバーで仕事を終えて一人飲んでいるプシェキダエを見かけた時にはメルは少し氣まずい思いがしました。
彼が仕事を早めに切り上げるのも、その後にお酒などを飲むのも、とても珍しいことです。メルは少し悩んでから、勇氣を出してプシェキダエに話しかけることにしました。
「こんばんわ、コンシェルジュさん。今日はもうお仕事は終わり?」
「ああ、これはお嬢さん。ええ、いつも遅くまで働いているのだから、たまには気晴らしでもするべきだとフォルマに言われましてね。オフシーズンですしね。なぁに、単なる気紛れですよ」
ピシっと撫で付けられた髪の毛から香る、整髪料の馨り。彼の前のロックグラスは、かなりゆっくり飲まれている所為か、随分と汗をかいてコースターの顔色をすっかり変えてしまっていました。
「あなたって酔っても、少しも乱れたりしないのね」
厭味のつもりでメルがそう言うと、プシェキダエはそうですかと微笑みました。融通の利かなさやくそ真面目な性格からくる退屈さなど、彼にとっては長所になりこそすれ、短所だなどとは夢にも思わないのだ。そう思うとメルは更に腹立たしい気持ちになるのでした。
その時でした。プシェキダエが汗をかいたロックグラスを口元で傾けて「僕はヒーローの息子ですから、みっともない姿など外で見せるわけにはいかないんです」と言ったのは。
メルは耳を疑いました。プシェキダエの父がヒーロー? フォルマからあの話を聞いて以来、彼女の中でむくむくと育っていた義憤の大木が怒りの強風に揺られ、ばさばさと枝葉を揺らします。その激しさはメルが思わず目眩を覚えるほどでした。
「あなたのお父様もコンシェルジュだったんだそうね」
わざと冷たい声でメルはそう言いましたが、プシェキダエは酔っていて気付かないのか、立派な人でした、と更に追い打ちをかけました。
「立派な方、ね。例えホテルのお金を横領なさっても、かしら」
怒りに飲み込まれたメルは、もう我慢が出来ずにそう言ってしまいました。はっと驚いたようにプシェキダエはメルを一瞬見つめましたが、すぐにまた視線を暗い顔色のコースターに戻します。
彼はもう一度、何かを言おうとしましたが、それを聞かないようにメルは立ち上がりました。これ以上、彼の言い逃れや見苦しい言い訳を聞きたくなかったからです。
おやすみなさい、と言って立ち去ったメルの心の中には、真実を相手に突き付けた晴れやかさなどは微塵もなく、なぜか余計にもやもやと暗雲立ちこめる大雨の前の空のような薄暗い憂鬱だけが鈍く暗褐色に映るのでした。
翌日、メルはホテルの仕事を手伝いませんでした。プシェキダエと顔を合わせるのが厭で、というより、何か怖いような氣がしたのです。
そうして彼女が湖岸の小道で、朝から一人銀色に光る凪いだ水面を眺めていると、ホテルの方から背の高い男がひとり歩いてくるのが見えました。
それがトゥルヴィスクスだと氣付いた時には、既に彼はメルに微笑みかけていて、避けるのも変だと思った彼女は仕方なく会釈を返します。
「おはようございます、お散歩ですか?」
「ええ。この辺りは本当に気持ちが良い。僕の父がずっとおたくのホテルで働いていまして、僕も幼い頃はこの辺りで育ったんです。特にこの小道が好きだったな」
「伺いました。長年お勤め下さったみたいで……。お父様はご息災ですか?」
「父は数年前に亡くなりました。最後は病で言葉もろくに話せませんでしたが、元気な時はこのホテルのことや、お祖父様やご両親のことをいつでも話していました」
トゥルビスクスの大きな瞳は、深淵なる鳶色をしていて、見つめていると吸い込まれそうになるほど美しく、メルは思わずそっと目を逸らしました。
「ありがとうございます。両親も死んだ祖父もきっと喜びます」
メルがトゥルビスクスの方にそっと視線を戻すと、彼は端正な顔を優しく微笑ませて、長い睫毛の奥の美しい鳶色の瞳で湖を見つめています。なんと美しい男だろう。メルは少しの間、その横顔に見蕩れていました。
彼はふと湖から視線をメルに移して、何か、と訊ねました。
「あ、いえ。すみません。随分端正なお顔立ちなものだから、見蕩れてしまって。長い睫毛に通った鼻筋、シャープな顎のライン。均整がとれていて、羨ましいわ」
メルの言葉を聞いて寂しそうに映る彼の表情を、青すぎる空が燦々と照らしました。
「均整が取れている、か。僕は自分の顔を見ても特になんとも思わないんですがね」
「あら、そんなもの? 私があなただったら、随分と得意になっちゃうと思うけれど。美しい人は性格も美しいのね」
「そんな立派なものじゃありませんよ。美しいってことばは、僕のような人間よりもっと相応しい人が……」
トゥルビスクスはそこまで言うとことばを切り、急に険しい顔になって、小道の奥を睨みつけるような表情になりました。彼の見ている方向を見ると、サングラスをした男と女がふたり、こちらへ向かって歩いて来ています。
彼が立ち上がり、サングラスの男女はトゥルビスクス、と彼を呼びました。
「トゥルビスクス、すぐそこまでマスコミが来ている。早く逃げよう」
「どこから情報が? このホテルに僕が来ていることは、あなたと彼女しか知らない筈なのに……」
「どこから漏れたかはわからないが、とにかく今は逃げることが先決だ。荷物は? 部屋か?」
三人の会話と雰囲気から、何やらまずいことが起きているのだということがメルにもわかりました。なのでホテルの方へと走り出した彼らを、メルも追いかけたのです。何が起きているのか、そしていざとなった時に自分に何が出来るか、メルには何もわかりませんでしたが。
5 [恋に破れた人魚姫のように]
メルが追いついた時、トゥルビスクスたちはホテルの入り口から少し離れた木陰で立ち止まっていました。一体なぜホテルに入らないのだろう? 不思議に思ったメルがホテルの入り口を抜けると、ホテルのロビーは記者たちでごった返しています。
よく目をこらすと記者やカメラマンたちに囲まれて、シガーラが得意げになって立っていました。群生した葦のような記者たちをかき分けて、メルはシガーラの近くまで駆け寄りました。
「シガーラ! あなた、何してるの? もしかして、このひとたちに何か話したりしてないでしょうね?」
小声で、しかし酷い剣幕で尋問するようなメルの口調に、シガーラは誤摩化すように笑いました。その笑顔はなんだかメルの心を、酷くささくれさせるのでした。
「やぁね。あたし、何も言ってないわよ。でも、トゥルビスクスは滞在してるか、って聞かれたから、嘘は良くないでしょ? あたしって正直者で通ってるしさ。それにホテルの宣伝にもなる、とかあの人たち、言うもんだから」
メルは呆れ果てました。軽卒な子だとは思っていましたが、まさか此処までだとは。お客様の情報が漏洩し、ホテルのロビーには記者だらけ。メルは声を張り上げて、記者たちにお帰りくださいと叫びましたが、彼らはむっとした顔をしたり、嘲笑ったりしながら、そこで変わらず取材の準備をするだけです。
フォルマも出て来て対応していますが、記者たちは依然として動きません。もしトゥルビスクスの記事が出ればホテルの宣伝どころか、客のプライバシーも守れないホテルとして、汚名が国中に轟いてしまうことでしょう。
場が混迷を極めたその時、奥からプシェキダエが出てきました。
「一体、何の騒ぎですか? これは」
彼は相変わらず一点の乱れもない服装で、薄くなりつつある髪をぴたりと撫で付けていて、その冷酷な瞳から発する冷たい視線をロビーにいる全員に浴びせかけます。
記者たちの一人が、彼の胸についたコンシェルジュと書いてあるバッジを見て、にやにや笑いを貼付けたまま近づきました。
「これはこれは、コンシェルジュさん。お騒がせしてすみません。なに、このホテルに俳優のトゥルビスクスさんが逗留されているという情報が入りましてね。我々は取材の為にやってきたというわけなんですよ」
なんと意地悪な質問でしょうか。メルは焦りました。きっと真面目で融通のきかないプシェキダエのことです。『お客様の個人情報に関しては、お答え出来かねますね』とでもいうに違いありません。だがそれこそが、彼らにとっては《トゥルビスクスがこのホテルの『お客様』である》という何よりの証明になってしまうのです。
堤防に開いた小さな穴が、数滴の水の侵入を許し、そこから連鎖的に雪崩のようにのしかかってくる、大量の水たちの侵入をも許してしまう場面をメルは想像して、思わず目をつぶりました。
真っ暗な瞼の裏の世界で、メルが聞いたことばは、意外なものでした。
「トゥルビスクス氏? はて、そんなお客様は当ホテルにはお泊まりではありませんがね。皆さん、どこかとお間違えじゃ御座いませんか?」
目をあけると、記者たちに追いすがられながら、フロントまで歩いていくプシェキダエの細身のスーツの後ろ姿が見えます。
「そんな筈はない。此処に確かに泊まっていると聞いたのだ!」
「いつからお泊まりですかな? ふーむ。トゥルビスクス、トゥルビスクスと?」
「一昨日だ。一昨日にチェックインしている筈だ。それを見せてみろ!」
記者はプシェキダエの手から宿泊者名簿を奪い、乱暴に頁を捲ります。
「おやおや、これは困りましたね。それはお客様のプライバシーに関わるものです。お返し下さい」
プシェキダエは一月の寒い雪の夜に湖の奥から吹く北風よりも、もっともっと刺すように冷たい態度で記者から宿泊者名簿を奪い返しました。
「おや、あなたが見ていた頁、一昨日のチェックインに関する頁じゃないですか。トゥルビスクスなんていう名前は、無かったでしょう?」
「確かに、なかった」
記者が悔しそうに下唇を噛み締め、プシェキダエを睨みつけます。プシェキダエは感情のない黒目を記者に向けて、口元だけで微笑みを作りました。
「今はこの湖畔はオフシーズンで、宿泊者名簿に乗っているお名前自体が少ない。なので、見間違う筈も御座いませんな。おわかりいただけましたか。当ホテルにトゥルビスクスなどというお客様はお泊まりになっておられません。他のお客様のお邪魔になります。用がお済みなら、どうぞお帰り下さい」
ロビーは静まり返り、それから少しして、ぼやきや愚痴と共に、記者やカメラマンたちはぞろぞろと引き返し始めました。
呆気にとられて呆然としていたメルでしたが、あることに氣がつくと今度は寄せては返す波のように入り口に向かう記者たちを再び押しのけて、我先にとホテルの出入り口へ急ぎました。
そう、ホテルの入り口が見える木陰で、トゥルビスクスたちは様子をうかがっていたのです。もし彼らが急に外に出てきた記者たちに見つかってしまえば、この奇跡も何もかも水泡に帰してしまいます。恋に破れた人魚姫のように。
ところが泡のように掻き消えたのは、奇跡ではなく、トゥルビスクスたちの方でした。
入り口で様子を伺っていた筈の彼らは、正に人魚姫のように涙の痕ひとつ残さず、ぽっかりと消えてしまったのです。メルは再度呆気にとられ、口々に文句を言いながら帰路につく取材班の波に背中や肩を小突かれてよろめきました。
遠くの方で、記者を引き止めて、本当なのよ、と言うシガーラの声が聞こえましたが、今となってはそれはもうどうでもいいことでした。メルにとっても、取材班たちにとっても。
一体、どこへ行ったのだろう?
メルは湖岸の小道や、公衆トイレ、今はお休みをしている土産物屋の裏、岩場のかげなどをそれとなく捜索しました。まるで散歩しているかのような顔つきをして。まだどこかに諦めの悪い記者やカメラマンが息を潜めて、隠れているかもしれませんから。
ですがトゥルビスクスは見つかりませんでした。さっきまでこの近くにいたし、彼の荷物はホテルの部屋にある筈です。荷物も置いたまま、一体どこにいってしまったのでしょう?
それに、もっと氣になるのはプシェキダエのあの態度と、宿泊名簿のことです。
一昨日、メルはシガーラと一緒に、確かにトゥルビスクスがフロントでチェックインを済ませるのを見ました。そしてその後、彼はホテルのオーナーの娘である自分に、偽名ではなく本名で自己紹介をしたのです。
これは一体、どういうことだろう?
メルは小振りな顎に小さな握りこぶしを当てて、大きな謎と疑問を抱えたまま、ホテルに戻りました。
ロビーにはほとんど人がいなくなり、ソファの上でシガーラが退屈そうにしています。
「あーあ。皆帰っちゃったわ。つまんない。それにしても、虫ったらなんであんな嘘をついたのかしら? 融通がきかない上に、嘘つきなんて、良いとこ無しじゃない」
メルはシガーラに掛けることばを自分の中に見つけることが出来ず、それを聞こえないふりをして彼女の前を通り過ぎました。やはり彼女の態度とことばは、メルの心を不思議と苛々させてしまうのでした。
フロントではまだ見習いの若いヒューレーが、フォルマの代わりに立っていました。
「ヒューレー、フォルマはどこいったの?」
メルがそう訊ねると、ヒューレーも戸惑ったような表情をして、肩をすくめます。
「さぁ? あの騒動の最中に、コンシェルジュに何かを耳打ちされてどこかに行きました。俺は代わりに立っておけって言われただけで」
メルはエレベーターに乗って、スイートルームがある最上階に向かいました。トゥルビスクスは人気俳優です。部屋を借りるとしたら、そこだろうとメルは目算をつけたのです。
果たしてメルの想定は正しかったのですが、メルが到着した時には既に部屋のドアは開いていて、中でガーデニアが清掃をしていました。
ガーデニアは、あら、お嬢さん、と言って、手に持ったゴミ袋を床に置きました。
「トゥルビスクスは? フォルマは? それからプシェキダエは?」
矢継ぎ早に聞かれ、ガーデニアは目を丸くしながら、エレベーターで地下まで降りて、裏口から帰ると仰っていたわよと言いました。メルは私たちが観測していない時の粒子の粒のように、あっという間に部屋からエレベーターへと瞬間移動を果たし、さっと地下まで降りたのでした。
6 [その静かな音をメルはよく知っています]
「本当に助かりました。ありがとうございます」
トゥルビスクスを迎えにきたサングラスの男は、プシェキダエに深々と頭をさげ、トゥルビスクスともうひとりの女性も頭を下げました。
「いえ、お客様のプライバシーを守るのもホテルマンの役割です。しかし、どこから情報が漏洩したのやら」
「多分、シガーラだわ。あの子、本当にお喋りで軽卒で……。許せないわ。本当にごめんなさい」
トゥルビスクス一行とプシェキダエ、フォルマが振り向くと、そこには汗だくで息を切らしたメルが居ました。
「お嬢さん! 何故ここが? 誰かに尾行られたりしてないでしょうね?」
プシェキダエにそう言われて、彼女ははっと背後を振り向きましたが、半地下にある従業員専用の裏口付近には、人影も人の気配も一切ありませんでした。
メルはほっと胸を撫で下ろし、トゥルビスクスがまたあの眩しい微笑みを彼女に向けます。
「この度はとんだご迷惑をおかけしてしまって……。シガーラさんって、あのご挨拶してくださったお嬢さんですね? どうぞ、𠮟らないでやってください。彼女は僕の映画をほとんど見てくれているようでしたから」
「いいえ、お気遣いなさらないで下さい。あの子はホテルのお客様の情報を漏洩し、当ホテルの信頼を地に墜としたばかりでなく、お客様の貴重な休日も台無しにしてしまったんですから」
トゥルビスクスは手に持っていた鞄を地面に置き、サングラスを外しました。彼の鳶色の美しい瞳は、涙に濡れていました。
「いえ、元はと言えば僕が悪いんですよ。恋人のアガパンサスを振って、既婚者の彼女と関係を持ってしまった為に、僕はずっとマスコミに尾行け狙われていたんです」
トゥルビスクスがそう言うと、彼の隣にいた女性もサングラスを外して深々と頭を下げました。とても美しい女性で、彼女の大きな瞳にも、このホテルを見守る湖のように澄んだ水滴がなみなみと湛えられています。
「彼女はカルディア。ヘアスタイリストです。僕は主演した『下弦の鼠は前歯が欠けている』という映画で、彼女に出会いました。彼女の夫は、『下弦の鼠は前歯が欠けている』の監督をしたロカ・コンスティトゥシオン氏です」
「私が悪いんです。夫のロカは、映画監督としては一流ですが、男としては最低の男でした。毎晩お酒を飲んでは、私を殴るのです。そうしてそんな生活に疲れ果てていた頃、私は急遽来れなくなったヘアスタイリストの代わりに、『下弦の鼠は前歯が欠けている』の撮影現場に呼ばれました。そこで彼と出逢ったのです」
私が彼を誘惑して、駄目にしてしまったのです。カルディアと呼ばれた女性は、細い肩を震わせて、さめざめと涙しました。
トゥルビスクスがカルディアの細い肩を抱いて、彼女の耳元で何事かを囁いてしきりに慰めます。
もうひとりのサングラスの男は、自分はトゥルビスクスのマネージャーだと名乗りました。
「なので私がこのホテルに連絡をして、プシェキダエさんに事情を説明し、匿っていただいていたのです。都会ではもう記者たちからは逃れられそうになかったし、それにプシェキダエさんのことはトゥルビスクスから、長年お話を聞いておりましたから」
マネージャーのことばにメルは驚いてプシェキダエを見つめましたが、プシェキダエはメルの方など見もせず、いつも通りのあの真っすぐな姿勢で前方を見つめているだけでした。
「プシェキダエさんには二代に渡って、ご迷惑をおかけしてしまって……。しかも、またこんなことで。泥棒の息子は泥棒だということですかね」
トゥルビスクスがそう言うと、プシェキダエが怒鳴りました。「トゥルビスクス!」
プシェキダエの怒鳴り声を、その時メルは初めて聞きました。いつもスタッフを𠮟る時も、彼は冷酷で粘着質でしたが、決して感情を露わにすることは遂になかったのですから。
「泥棒の子は泥棒って、どういう意味?」
メルがそう訊ねると、プシェキダエはメルを睨みつけるように振り向きました。
「お嬢さん。今のは聞かなかったことになさってください。彼は今、色々なことで疲れて混乱しているんです」
「良いじゃないですか。もう。充分でしょう。充分ですよ」
プシェキダエのことばを遮って、そう言ったのはフォルマです。勇氣を振り絞って言ったのでしょう。彼の身体は微かに震えていました。
「何が充分なのですか? フォルマ。あなたは黙っていてください」
「あなたもお父様も、ご自分を犠牲にしすぎる。立派でお優しい心をお持ちなのに、皆から誤解されて嫌われて、それでいて、ご自分では平気な振りをしていらっしゃる」
「フォルマ! 黙りなさいと言っているんだ!」
プシェキダエが怒鳴り、フォルマが黙りません! と怒鳴り返しました。メルはすっかり驚いてしまいました。それはこのふたりがこんなに言い争うのを初めて見るからで、しかもその原因はどうやらトゥルビスクスにあるようなのでした。
「お嬢さん。先代のプシェキダエさんがした横領の自白は、トゥルビスクスさんのお父様の罪を被ってのことでした。ホテルのお金を横領したのは、トゥルビスクスさんのお父上なのです」
フォルマの声が無機質に響き、トゥルビスクスが眉間に皺を寄せて、ことばを継ぎます。
「父は喋れなくなるまで後悔を口にしていました。そして同時に、プシェキダエさんへの感謝も。先代のプシェキダエさんは、父が金を盗んだところを見ていたのです。そしてその罪を被ってくださった。誰にも真実は言うな、と。自分だったら、どう転んでも馘は免れられるだろうから、と仰ったそうです。そしてメルさんのお祖父様の采配によって、予想通りになんとか馘こそ免れたものの、それでも先代のプシェキダエさんは多くのスタッフから謂れも無い誹りや軽蔑の眼差しを受けながら働くこととなったのです」
プシェキダエはトゥルビスクスの涙ながらの告白を、じっと黙って聞いていました。トゥルビスクスが話し終えると、もう誰も何も言わず、静寂の支配がその場を緊張させます。
メルはそんな静けさの中、いつかホテルのラウンジバーで、自分がプシェキダエに言ったことばのことを思い出していました。
《立派な方、ね。例えホテルのお金を横領なさっても、かしら》
確かに彼女はプシェキダエに、そう言ってしまったのです。
あの時のプシェキダエの表情。そして驕り切った自分の態度のなんと愚かで醜いことか。メルは自分のことが恥ずかしくなりました。耳まで赤くなるほど赤面して、このまま消えてなくなってしまいたいと願うほどでした。
「……確かに、あなたのお父様は、ホテルのお金を横領しました。ですが、それには止むに止まれぬ事情があったのです」
すっかり乾いてくっついていた静寂の唇を開かせたのは、プシェキダエです。その声は静かでしたが、確固たる覚悟に裏打ちされた、強い強い声でした。
「トゥルビスクスさん、お母様はご息災ですか?」
プシェキダエに突然そう訊ねられたトゥルビスクスは、戸惑いながら頷きました。
「ええ、父が亡くなった後も実家で先祖代々の土地を守って暮らしております」
「そうですか、それは何よりだ。ではお母様が昔、大病なさったことはご存知ですか?」
穏やかで、しかし芯の強いプシェキダエの話し口調に、全員が耳を傾けていました。トゥルビスクスは首を横に振り、そんな話はついぞ聞いたことがないと応えます。
「そうですか。あなたも幼かったから、ご両親はお隠しになったのでしょう。あなたのお母様は、若い頃に大病をなさった。もちろん治療に成功したからこそ今でもご健在なわけだが、それには莫大な治療費がかかった」
誰も何も言わない。プシェキダエは一度唇を湿らせてから、またことばを継ぎます。
「お父様はとても真面目な方で、それなりに貯金もあった。だが一般人の貯金では到底、治療費全てを賄うことはできなかったのです。横領といえばそうだが、お父様はきちんと返済の意思があった。オーナーは最後まで受け取らなかったそうだがね」
トゥルビスクスは驚きを隠しきれず、彼の震えた手をカルディアの細い指が握りしめています。
「私の父が罪を肩代わりした後も、あなたのお父様は少しずつでも給料からお金を貯めて、治療費に充てた分をオーナーにお返ししようと努力なさっていた。幼い頃、あなたのご家庭は裕福とは言い難かったのではないかな? それは返済のためですよ」
トゥルビスクスが頷きます。彼の眉間の皺が、幼い頃の貧しい生活を物語っているようでした。
「先代のオーナーは、つまりそこにいるメルさんのお祖父様ですがね、あなたのお父様が私の父を介して返そうとしたお金を受け取りませんでした」
「なぜ? なぜお祖父様は受け取らなかったのかしら」
プシェキダエはトゥルビスクスからメルに視線を移します。
「オーナーはこう仰ったそうです。『儂はお前を信用している。真面目なお前があんなことをしたからには、何かよほどそのお金が必要な事情があったのだろう。儂はお前を許した。あのお金はよく働いてくれているお前への特別給与だ。人様にやった給与を返せというほど、儂は金に困っとらん』と」
「私は隣でその会話を聞いていました」
プシェキダエの回想を、フォルマが継いだ。
「それからオーナーはふっとお笑いになって、先代のコンシェルジュの肩に手を置かれました。そして『妻と息子にその金で何か美味いものでも食わせてやれ。養生には栄養が一番だ、と”伝えろ”』と、そうおっしゃったのです」
プシェキダエもトゥルビスクスも大変に驚き、皆がフォルマのことばに衝撃を受けていたようでした。
「伝えろ、と、そう仰ったんですか。確かに、そう?」
トゥルビスクスが言うと、フォルマはゆっくりと頷きました。
「全ておわかりになってらっしゃったんだと思います。事件が明るみになる前に帳簿の異変に気付いたオーナーは、きっと興信所にでも調査を依頼していたのでしょう。そしてトゥルビスクスさんのご家庭のご不幸もお知りになった。だから先代コンシェルジュが罪をかぶって自白なさった時も、全てを察して不問になさったのでしょう」
トゥルビスクスの頬に大粒の涙が、ぼろぼろと流れ落ちていきました。話しているフォルマの頬にも。静けさの中に嗚咽が小さく響きます。
プシェキダエは泣かず、節くれ立った右掌で乱れた頭髪を撫で、その皺の寄った眉間の下で困ったような表情を作りました。
「もう、行った方が良い。またマスコミやお喋り娘に勘づかれるとまずい」
プシェキダエがそう言い、同意したマネージャーはトゥルビスクスの荷物を車に乗せ始めます。
「トゥルビスクスさん。お聞きになった通り、あなたのお父様はお金を返済しようとしていた。泥棒なんかじゃないんだ。過ちは過ちだったかもしれないが、それももう許されているんだよ。だからもう泥棒の子は泥棒だ、などと仰らないで下さい」
トゥルビスクスは黙って、プシェキダエのことばに耳を傾けていました。
「あなたの選択が、単なる過ちとなるのか、それとも誰にも恥じることのないものになるかは、これからのあなたの行動にかかっています。私は信じています。それを決めるのは世間でもマスコミでもない。あなたですよ」
「ありがとうございます。本当に何から何まで」
トゥルビスクスは深く頭を下げて、お辞儀をしました。プシェキダエとフォルマも同じ位、深くお辞儀をしました。
「当ホテルのご利用、まことにありがとうございました。またのご利用、心より御待ち申し上げております」
トゥルビスクスとその恋人を乗せた車が出発し、プシェキダエ、フォルマ、メルたちは一階に戻って、ロビーや入り口に記者たちがいないかを確認しました。ロビーには人影はなく、ヒューレーが大きな欠伸をしているだけです。
トゥルビスクスとメル、フォルマがホテルの外に出ると、外には快哉を叫びたくなるほどの美しい青空が広がっており、メルは思いっきり緊張していた身体を伸ばしました。
「トゥルビスクスさんは、これからどうするかしら?」
プシェキダエはメルの質問に応えず、じっと遼遠なる空を仰視していました。フォルマの方を見ると、フォルマも全く同じ虚空を見つめて、口を開けています。
二人とも、一体何を眺めているのかと、メルも空を見上げました。その時の彼女の驚きといえば、全く筆舌に尽くし難く、まるで起きながらにして夢の中にいるような心持ちだったそうです。
至大で輪郭のない、碧空。凪いだ湖の水面とよく似ている無限の穹窿に浮かんだ、小さな凍て星のような何か。
それは真っ青な空をすーっと美しく横切っていきます。凪いだ湖面を波も立てずに泳ぐ、優雅な白鳥のように。
「あれ、鳥かしら? いえ、飛行機?」
メルがそう言うと、フォルテが首を横に振ります。
「いいえ、あれはヒーローでしょう」
ヒーロー? そんなことがあるだろうか? メルは目を凝らしてみましたが、空があまりに青すぎて飛行する何かの正体を掴むことが出来ません。
「父さん」
そう呟く声が聞こえ、横を向くとプシェキダエが泣いていました。あれは父さんだ、と言って。
メルはそれからも時々、あの日の青すぎるほどに青かった空と、後にも先にもあれ一度きりだったプシェキダエの涙を思い出します。
トゥルビスクスとカルディアは、カルディアの離婚が成立してから、結婚をしました。トゥルビスクスはその愛によって芸能界から追放されましたが、今は小さな劇団をやりながらカルディアとの間に出来た子供たちを育てています。
シガーラはガーデニアと同じく、ホテルで掃除婦として働き始めました。彼女たちは今もお喋りで軽卒ですが、メルは彼女たちをなぜか憎むことが出来ません。彼女たちは思慮と思い遣りに欠ける所がありますが、それにしてもとにかく陽気ですし、仕事上のことに関してはプシェキダエがその目を光らせていてくれるのでそんなに心配するほどでもない所為かもしれません。
プシェキダエは相変わらずシガーラたちに陰口を言われながらも、生真面目にコンシェルジュを勤め、フォルマもフロント業務を果たしてくれています。
変わったことと言えば、メルの両親が引退をし、メルがホテルのオ―ナーの仕事を引き継いだことくらいです。
今日も世界は大きく、その大きさに比例するように大騒ぎをしていて、けれどメルの小さな胸の中からは小さな音しか聞こえません。とくとくとく、と小さく密やかに鳴るその音は、小さいながらも力強く、生命の奇跡を証明し続けているのです。
メルはその音に耳を傾けます。平かな胸に、これもまたおうとつの少ない小さな掌を当てて。
その静かな音をメルはよく知っています。穏やかに澄み渡り凪いでいる、そして冬の日差しを照り返し、寡黙な寒さの中で必要なことだけを静かに語るあの美しい湖の近くで育った為に。
よく見知ったその音に耳を傾けて、メルは思います。
本当の美しさとは大袈裟なものではないのだと。本当の美しさとは、この小さな生命の音のように、控えめでいて、それでいて途切れない、決して莫迦げた自己主張などせずとも、ただそこに存在するべくして存在するものなのだと。
湖岸の道で彼女はひとりそう思うのです。青すぎるほどに青かった、あの凪いだ湖面のような空に音もなく飛んでいたヒーローを思い出しながら。
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