当然の選択は、難しすぎる?
その昔、神さまがエジプトに齎したとされている、十の禍いのお話は知っていますか?
キナンは静かな声でクリストファーに訊ねる。
「ああ、確か……ナイル川の水が血に変わったり、ぶよやあぶが大量発生したという話だったか。聖書の出エジプト記の三章から十二章の間の……モーセが登場するあたりだな」
そうです、とキナンは手元の紅茶を飲む。
「では、南北戦争に関しては?」
クリストファーはその質問にすこしむっとする。南北戦争に関して、知らない人間などほとんどいないだろうに。
「千八百六十一年から千八百六十五年の四年に渡って行われた戦争だ。アメリカがふたつに割れ、七十万以上の尊い人命が喪われた」
素晴らしい解答です。キナンは俯いていた瞼を少しあげて、クリストファーを見つめる。クリストファーは美しい若者だ。高い教育を受けており、知性もあり、知識も所有している。それに先祖から譲られた大金と豪邸も。
これは何のクイズだ? クリストファーは笑う。自身の未来と同じように白く輝く歯を見せて。
ろくでもねえ。金玉みたいな笑い顔だ。
コールマンの父親は、痰を吐きながらそう言う。電気店の街頭にとりつけられたテレビ、その中に映る大物政治家を見て。
「せがれよ、見てみろ、こいつの面を。とんでもねえ悪党の面だ。へらへらしやがって。いかにもワタクシは上品でござい、って感じじゃねえか」
コールマンは父と政治家を交互に見る。どちらかというと、睾丸と似ているのは父のほうだ。痩せ衰えて、日焼けした肌。歯の治療をする金がない為、歯が抜けて潰れた顎。煙草とアルコールに醸造された酷い口臭。
「こんな奴らは信用ならねえな。人道的とか言われて得意になってやがるが、あいつらが本当に人道的な人格者様なら、俺たちの暮らしはなぜ良くならねえ? 税金はあがり、給料は下がり、お前らガキどもはひったくりや薬に手を染めやがる」
「僕はひったくりも薬もやらない」
「今はまだ、な」
コールマンは返事をしたことを後悔する。コールマンの父は、人生に期待しすぎていて、だからもう何も期待していない。失望することに疲れ過ぎたのだ。そして絶望の前に跪くのを、恐れ過ぎているのだ。コールマンの父は元々は大工だった。学歴はなかったが、腕はあった。腕はあったが、仕事は機械たちに奪われた。そして、することがなくなった父は酒に溺れた。
姉は娼婦で、母は神経症だ。家は荒廃していて、汚れている。コールマンも学歴がなく、近所の飲食店でウエイターをしている。コールマンの住んでいる区画は、どの家庭も同じようなものだ。華やかさとは、遠く離れている。野良猫と溝鼠、不潔な菌とその日暮らし。
コールマンには誰が悪いのか、わからない。自分が悪いのかもしれないし、親爺が悪いのかもしれなかった。もしくは(父曰く、金玉面の)大物政治家の仕業か?
街の教会の神父様は、コールマンに聖書を下さった。コールマンはゆっくり、聖書を読む。読めない字は、姉が家に連れてくる客に訊く(あ? なんだ、聖書なんて読んでんのか。これは祝福、こいつは飢饉だな。んでそっちは俺にも読めねえ)。
姉の淫靡な喘ぎ声が薄い壁越しに聞こえる。その音楽と薄暗い部屋の照明の下で、コールマンは聖書を読み耽る。
ここは悪徳の街、ソドムとゴモラだ。いつか滅ぼされてしまうのだろうか。僕も、いつか火の海の中でもがき苦しむ運命なのか。けれど、悪徳の街に生まれたのは俺の所為じゃない。罪の家の中、娼婦の姉と中毒の父、神経症でまともじゃない母の元で僕が心を病んでいるのは誰の所為でしょうか。
コールマンは聖書を読み進める。姉を貫く、あの知らない文字を教えてくれた男の欲情によって、ぎしぎしと揺れるあばらやで。
エメラルドは桜桃のような小さな唇を、ゆっくりと弓なりに曲げる。桃色の三日月。その高貴さにクリストファーは思わず、微笑を漏らした。
クリストファーは美しさを愛している。数多の文豪たちが記して来た高貴な文章の数々。歴史に名を残している、崇高な絵画。魂を優しく騒がせるクラシック音楽。一流シェフによる見目麗しく舌の上で溶ける美食たちや、美しい女性の輝きを反射さえる大粒の宝石。
美しさは豊かさであり、自分が優雅で高貴な存在であることを改めて教えてくれる気がする。芸術は、美は、神への賛美だ。この完璧で欠陥のない正確無比な宇宙を創りだした、全知全能なる神の前に頭を垂れ跪く為の聖なる祭壇だ。
何故なら私たちは美を慈しむことによって、同時にそれを創りだした神の手腕を誉め称えているのだから。
恋人のエメラルドの微笑みも、クリストファーにとっては芸術作品や朝日、宝石と同じ、いやそれ以上のものだった。
彼女は胸におおぶりで深緑色の宝石をつけ、同じく深緑色のドレスを身につけている。柔らかそうなブラウンの髪は優雅に束ねられ、その下に隠されていた美しい彼女のうなじでクリストファーの目を楽しませてくれる。
「お父様が今度、クリスを食事に誘えって言ってらしたわ」
「それは楽しみだ。いつでも伺います、と伝えておいてくれ」
エメラルドの胸と腰を繋ぐ曲線は、世界のどんな曲線よりも美しく、クリストファーの掌にぴったりと嵌まる。
広大な庭に、多くの木々と芝生。午後の日差しを浴びながら、二人は寄り添っている。高価なワインを楽しみながら、人生の芳醇な薫りを胸一杯に吸い込む。
キナンは後ろで、黒の燕尾服に身を包んで存在感を消していた。腰の前で曲げた右手には、純白のトーションをかけている。
世界は美しいな、キナン。
クリストファーは、微笑んで振り向く。敏腕な執事長のキナンは同時に、彼が心の赦せる数少ない知識人でもある。
「恐れながら。世界には様々な表情、様々な側面があるように存じます」
エメラルドが笑う。またキナンの講義が始まるわね。
キナンは畏まって、お戯れはお辞めください、と口を噤む。エメラルドとクリストファーの笑い声が、青く美しい庭園に響き渡った。
戦争している国だってあるんだ。そこに較べりゃ、俺らの生活は良い方だぜ。
コールマンの父は、酔って母や姉やコールマンに暴力をふるったあとには、必ずそう言った。アルコールという悪魔が彼を操っていた時のきまずさを、それで中和したり誤摩化したり出来るというかのように。
俺たちは命まで奪われることはない。時々は奪われるやつもいるけどな。
そして六百八十回目に、その科白を言ったあとに、コールマンの父は命を奪われた。死因は母や姉からの報復でも、酔った上での喧嘩でもなく、酒を買いにいく途中に暴漢に襲われて、あっけなく殺された。
この辺りには、ギリギリの目をしているヤツが沢山いる。正気ギリギリの目。そいつらは虫みたいな目をしていて、いつも全てを誰かの所為にしている。誰も彼もを憎んでいるから、誰でも彼でも殺しても良いという理論に陥ってしまっているのだ。
愛のない生活と、貧困と将来への不安で精神は追いつめられ、不安を打ち消す強い安酒で脳が破壊される。うようよと街を歩くあいつらはゾンビだ、とコールマンは想う。ソドムとゴモラに暮らす、虫の目をしたゾンビ。
そのゾンビたちにコールマンの父親は、襲われて食われた。様々な諸悪の(税金の高騰やそれに由来する様々なものの値上がり、見た目の醜いものに対する差別、貧困地域に於ける薬物の蔓延や売春の多さに対する世界の無関心など)根源の証のマスクを被され、何も見えなくなった父を、虫の目をした悪漢たちは何度も鉄や木の棒で殴り、鋭い刃物で刺した。
父の死体の近くには、父自身の血で文字が書かれていた。
【盲目の世間に罰を与える】
父が殺されてから、母の神経症は更に悪化していった。姉が見知らぬ男たちに犯される家の中で、母はぼさぼさの髪の毛を揺らしていつも小声で何かを言っている。
(エレンったら、厭だわ。そんな冗談ばかり言って。あら、娘がもうすぐ学校から帰ってくる頃ね。クッキーを焼かなきゃ。私の焼くクッキーが、あの子は大好きだから)
コールマンの母は、幻想の中で生きている。目は無感情で虫のようだ。病いに神経を冒されて、彼女もゾンビになりつつある。
隣の家で少女がトロンボーンを吹いている。トロンボーンからは美しい音色の代わりに、どろどろとした溶岩が流れ落ちる。姉の喘ぎ声。溶岩。母の幻想。父の血文字。
荒廃した悪徳の街の空の下、息を詰まらせてコールマンは歩く。四歩に一歩、躓きながら。
この前のクイズは、何のクイズだったんだ?
クリストファーは微笑んで、訊ねる。
あれはクイズでは御座いませんよ。
キナンは静かに答える。
「この前のあれだぞ? あの聖書の出エジプト記や南北戦争に関する問題だ」
「恐れながら、クリストファー様は、貧富の格差ということに関して、どうお考えでしょうか?」
キナンは暖かい紅茶を啜る。クリストファーは突然の質問に面食らい、しぱしぱと瞼を開閉させている。
「貧しい人々はまことに気の毒だ。彼らには苦しみも多く、我慢せねばならぬことも多いだろう。富める人々はなるべく、社会奉仕にも徹し、その資産を有意義に使わねばならぬな」
「誠にご立派なお答えで御座います。先日の質問ですが、出エジプト記では神はイスラエルの民を虐待し奴隷化したエジプトの民に、十の禍いをお与えになりました。そして、南北戦争の原因に関してはご存知の通りです」
「ふむ。奴隷制廃止を巡っての戦争や禍いの歴史、というわけか」
「さきほど仰ってくださった想いを、努々お忘れなく」
富める事は罪か? クリストファーは少し考えてから、キナンを咎めるように質問する。キナンは暫し間をあけて、いいえ、と答えた。
「富めること、豊かに実ることは歓びであり、あなた方への贈答品です。美しさも、優雅さも、幸福も、笑いも。全ては与えられたもの。あなたの魂が望んだからこそ、与えられたものでしょう」
「ではなぜ、俺に十の禍いや南北戦争の質問を?」
クリストファーの横では、聡明なエメラルド嬢が議論の邪魔をしないよう静かに斜め下を眺めている。風がざあと吹いて、木々を揺らした。キナンはそのきらきらと輝く瞳で、クリストファーの目をしっかりと見つめている。
その問いにお答えする為に、私からもひとつ質問をしてよろしいですか?
キナンが微笑んだので、クリストファーも微笑み返した。勿論だとも、我が友よ。
では恐れながら、質問させていただきます。キナンは静かにそう言った。鳥達が羽ばたく。
「なぜこのお屋敷はこんなにも大きく、豪華なのでしょう? 生きていくのに不必要なほどに」
クリストファーが執事キナンから、不思議な質問をされた日の夜。世界中で、未確認飛行物体が上空を飛んでいるのが目撃されている。
『それ』は全体像がわからないほどに大きく、白い布らしきものを纏っていたり、髪の毛のようなものを被っていたりした。それは国中の人々が目撃したが、それが大きすぎてそれぞれ、それの一部分しか見れなかった。
クリストファーも勿論、見た。あれは一体なんだろう、とキナンを呼ぼうと声を出したが、キナンからの返事はなかった。それも奇妙に思った(キナンがクリストファーの呼びかけに答えないことなど、今まで一度だってなかったのだ)クリストファーは、館中を探して廻った。だがキナンはどこにもいなかった。生きるのに不必要なほど、大きく豪奢なその館のどこにも。
未確認飛行物体を見た時、コールマンはひとりだった。空がいきなり暗くなった、と見上げると、そこには大きな白い布が横切っていた。
天使だ。
コールマンはそう思った。天使が天界から人々へメッセージを伝えに来た。愚かな人間たちに、神さまからのお言葉を。
けれど天使は何も言わなかった。遥か上空を、ゆっくりゆっくりと横切っているだけだった。かなり高い空の上を移動しているのに、その全貌が見えないことから天使はとてつもない大きさなのだとわかった。
家の方を振り向くと、姉の購入者が空を見上げて同じく天使を見ていた。
坊主、あれはなんだ?
天使だよ。
男は狂人を見るような目つきでコールマンを見て、首を振って笑ってから去った。娼婦の頭のおかしな弟。貧困。でかすぎる天使。空っぽの精巣。家で帰りを待っている惨めな人生。多くのことを思い出したようだった。
コールマンの顔の皮膚が張り、歪む。身体を何千種類もの光が出たり入ったりする。世界中から飛んで来た光だ。大きな天使と、自分の身体を出たり入ったりする光。コールマンは天使を見ながら、色の光の洪水の中で爪を噛む。爪を噛むのは彼の長年の癖で、そうすると落ち着くことが出来るのだった。
家から服を身につけた姉が出てきた。
一緒に食事を摂りましょう。何を見てるの?
天使だよ。
あら、そうなの。天使様は、願いを叶えてくれるかしら。
優しい姉は男のそれを握っていた掌とは思えない美しい掌で、コールマンを優しく撫でる。
どうかな。天使様は大きいから聞こえないかもしれない。全ては意味があって与えられているのかもしれないしね。
コールマンがそう言うと、姉は悲しそうに微笑んだ。
私たちのこの生活も、意味があるのかしら。
神さまにしかわからない。
お金がありあまっている人たちと、全然なくて困っている人たちがいることにも、意味が?
神さまにしかわからない。
姉は寂しそうに、地面を見た。そしてコールマンを誘って、あばらやへ戻る。神経症の母と幼い弟と、質素な食事を摂る。自分の身体を使って稼いだお金で買った食材。
神さま、糧に感謝します。
コールマンと姉はお祈りをして食べる。母は不味そうに口を動かしているだけだ。父は殺された。姉弟はもぐもぐと顎を動かして食べる。
きちんと食べないと、働けないわ。
姉は誰かに言い訳をするように、そう呟いた。
天使キナンは、雲から少しだけ身体を出した。人々は少しの間だけ騒ぎ、畏れ、推測し、すぐに忘れた。質問の答えを持たない人間たち。神の数学を理解し得ない人間たち。永遠を求めては、生まれて死んでいく人間たち。歴史から学ぶことの出来ない人間たち。
神がその手で、地球を撫でる。慈しむように。世界はその幸福に、瞬きをする。祝福を受け取るには、その贈り物の価値を知らなければいけない。コールマン少年のように。だが、ほとんどの人間は首を振って、自嘲するように去っていく。
神の与える偉大な歓びよりも、金銭で買える侘しい慰めに人生を見いだして。
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