夏がすぐそこまで来ている
A 1
空は海とよく似ていると思わない?
彼がそう言うので、彼女は窓際で寝転がってみた。
途方もなく大きな誰かの静脈のように真っ青な夏の空は、確かに凪いだ海の水面によく似ている氣がした。厚手のコットンのような入道雲隙間から、青い空が覗いている。
本当ね。
彼は何も言わずただ隣で座っている。電氣をつけていない部屋の中、二人はただ静かにトルコ石のような空を見つめた。
最初は小さい音だった。
それから助走をつけるように音と音は間隔を狭め、そうして一氣にざあと束になって窓の外側で音の洪水が重力に従って流れていった。
濃くなりすぎて飽和した青が降る。
通り雨の騒めきの隣で、夕食のメニューはまだ思いつかない。
B 1
「ミッターナハトの出ている本は売っていますか?」
その客は月曜日の昼過ぎに来た。駅前にある、小さな書店。體に合わせて仕立てたのだろうと思える、小綺麗でしっかりしたスーツの三十代後半くらいの男性客だった。
「えっと……、すみません。もう一度よろしいですか?」
「ミッターナハトの出てくる本です」
ミッターナハト。聞き覚えのない名前だった。
エリは書店員としての仕事に誇りを持って勤めてはいるが、それでもやはり知らない本はある。この世界には本などそれほど腐るどころか、次々に廃盤絶版になってゆくほどにあるのだから。
「タイトルや著者名など、おわかりですか?」
男は拍子抜けしたように、少し驚いた表情でエリを見つめた。
「タイトルや著者名ですか? それはどうだろう……。あ、でも表紙の感じなら。海だか空だか、兎に角青くて広いものが版画彫りのようなタッチで描かれているんです」
登場人物名と表紙の絵の感じだけで、どうコンピューターで検索しろというのだろう。それに表紙もわかるというわりには、空だか海だか曖昧で色味とタッチについてしか明確な説明がない。
エリは自分の薄い唇を人差し指で撫でた。無理難題ではあるけれど、書店員としてお客様の要望にはなるべく応えたい。それに目の前の男性客は答えを出せないでいるエリを見て、なんとも不安そうな顔をしているのだ。
どうしても必要な本なのかもしれない。
「あの、澤田さん、すみません。表紙が海とか空とか、広くて青いものが描かれている本で、ミッターナハトって登場人物が出てくる本ってご存知ないですか?」
澤田十和子。高校生の時からこの書店でアルバイトを始め、今年で勤続十五年になる大ベテランだ。彼女自身、驚異的なほどの読書家であり、彼女が知らない本というのを今までエリは見たことがない。
十和子は全ての難題に、軽々と応える。
例えば五十代くらいの女性が苛々しながら怒鳴る『テレビでやってる、料理の、有名な、レシピの、タカギって芸人の出てるニュースの前だか後だかの、それより知ってる? タカギってあの芸人、不倫してるらしいわよ』という井戸端会議風の質問にも(この答えは《鏑木マリ子の最強時短レシピ一〇〇選》だった)、四十代の肥ったサラリーマンが横柄な態度で吐き捨てる『俺がいつも読んでるアレの最近出た奴』という熟年離婚の原因的質問にも(この答えは《感歎社発行、大住良隆ハードボイルドシリーズ・悪魔は二度死ぬ》だった)、今一番話題で平積みされているベストセラー本を言い当てる時のように彼女はやすやすと正解を提示するのだった。
「こちらですね」と。(その仕事の素早さの所為で最初に応対したエリが五十代女性や四十代のサラリーマンから睨まれることも多々あった。『ほら、やっぱりあるじゃない!』)
だがその澤田十和子でさえ、その質問には眉間に皺を寄せたのだ。彼女は細い縁の眼鏡を人差し指と親指でつまんで、かちゃりと持ち上げた。
「ミッター、なんですか?」
「ミッターナハト、です。登場人物らしいんですけど」
「著者名やタイトルは?」
「わからないそうです。わかるのは、ミッターナハトが出てる本ってことと、表紙に海とか空とかが描かれているってことだけらしくて」
十和子は少し不審そうな表情をして、それからパソコンをかちゃかちゃと操作しはじめた。そして少し経って首を横に振った。
「わかりません。そういったデータはインターネットでは出て来ないです」
「じゃあ、そんな本は無いってことですか?」
「いえ、そうとも言えません。インターネット上に情報がなくとも、きちんと存在する本もありますから。ですが多くは絶版になっていたり、現在は新刊書店では販売されていないことは多いですね」
十和子は何かを考えてから、決断したように小さな紙切れにさらさらと文字を書いてエリに渡した。
「仕事の範疇を超えているとは思いますが、ここをお勧めしてみてはいかがでしょう?」
その紙切れにはどこかの住所と《不束屋》という文字だけが書かれていた。
エリはその文字列とレジの向こう側で不安げに立つ男性客を交互に見る。
「古書店です。そこならお探しの本が見つかるかもしれないから」
十和子はそう言って、静かにPCのブラウザを閉じた。
A 2
「子供時代に頻繁に目にしていたあの世界の輝きを、今も覚えてる?」
彼は植木に水を遣る時のように、うっとりとそう呟く。
まだ幼かったあの頃、世界は雨上がりの街とよく似ていた。緑は今よりも濃くあおあおと茂り、街のそこら中にきらきら輝く水滴のような光がちりばめられていた。
「大人になると、身体能力が子供より劣化する。背も伸びて大地からも遠ざかるし、視力も落ちるしね。だからささやかな美しいものを認知出来なくなるんだ。それになんでも知ったつもりになってよく見ないから、ぼんやりとした大体の輪郭でしか世界を認識しなくなるんだよ」
「じゃあ、いちいち立ち止まってしゃがんで色んなことを観察したら、見え方は今と違うのかしら」
「子供たちはそうしているよね。なんでもないところで立ち止まってしゃがんで、一生懸命に何かを見ている。彼らにしか見えない何かを」
子供だった頃、世界は様々な匂いに満ちていた。子供に千切られた草から馨る青臭い匂いや、雨に濡れた黒々とした土の匂い。艶かしいほど花粉をつけた百合の妖しい馨りや、道の端でひっそりとしているのに本当は凄く役立つ蕺草や蓬の複雑な馨り。
彼女は靄がかった思い出の国に頭を突っ込んで、それらの匂いを嗅ぐ。原始的な生命の面影。アスファルトや高層ビルや真っ白な新規店舗やワイファイなどに塗り固められて、中々感じ取ることが出来なくなったおもいやことがらの亡骸たち。おーい、からたちの花が咲いたよお。懐かしい誰かの声が春の日差しのように伸びやかに、思い出の国の中に美しく響き渡る。
「大人になれば好きに生きられるのだから今は我慢しなさい、と大人は子供に言うけれど、大人になる前に出逢っておかなければいけないものもあることを彼らは忘れている。それらは子供でいる時にしか出逢えないし、もし幸運に大人になってからも出逢えたとしても子供の時のようには見たり感じたりすることは出来ない」
彼の独白を聞いて、引き出しの奥にしまってあった宝箱を開けて、懐かしさと共になぜこんなものを大事にとってあったんだろうという疑問が湧き出て来た日のことを彼女は思い出す。
そこには果物の形をした匂い付き消しゴム(もう既に匂いは吹き飛んで単なるゴムと一緒にいれられていた鉛筆の黒鉛と木の匂いしかしなかったけれど)や、小さなバッヂやキーホルダー(何かのアニメのものだったが、なんてタイトルのアニメだったかは思い出せなかった)などがプラスチック製の指輪やネックレスなどと一緒にごちゃごちゃと詰め込まれていた。
時を経た宝物たちは小さくて色褪せていて愛おしかった。けれどあんなに愛おしかったのに、その時の彼女にはもう使い方がわからなかった。だから彼女は宝物たちを見つめて、呆然とノスタルジーのぬるま湯の中で手足がふやけるまで座り込んでいるしかなかったのだ。
そうする以外に、昔の宝物を前にした彼女に出来ることなど、何一つなかった。
B 2
大通りをひとつ、横に逸れた小さな裏道。大通りに面した現代的な大きな建物の裏口のある、ひっそりと静まり返る黒猫の足取りのような裏路地。そこに目的地はあった。いや、あるというよりは佇んでいるという方が正しい。
散々迷って辿り着いたのは古い日本家屋で、中々立派な玄関の横に流木のような看板がかけてある。そこには厳めしい文字で《古書 不束屋》と書かれていた。
エリは緊張して、引き戸を開ける。
がらがらがら。すみません、誰かいらっしゃいませんか?
例の男性客はエリの後ろから隠れるようにして覗き込んでいる。
あなたの本を探しにきたんでしょ?
エリは心の中で軽く舌打ちをした。
そもそも本来は、十和子から渡されたあの紙を男に渡した時点でエリの役目は終わりだった筈なのだ。なのになぜこんなことに。エリはおせっかいで好奇心旺盛だったあの日の自分を恨み、少し泣きたいような氣分になる。
「あ、お待たせしちゃってすみません。ミッターナハトが登場する本ですが、当店にはないみたいなんです。存在はするみたいなんですけど、なにせ古い本なので大きな街の大きな書店に行ってもあるかどうか……。お力になれなくてすみません」
「そうですか……。いえ、こちらこそお手数をおかけして申し訳ない」
探している本が無いと言われた男の落胆ぶりはそれはそれは酷く、全然関係のないエリまでなんだか一緒になってがっかりしてしまいたくなるほどだった。
「あ、でも! ここ。ここ、古書店みたいなんですけど、他の書店員が知っていて。ここならお目当ての本が見つかるかも、って」
エリは男に十和子から預かった紙片を渡す。男は小さな紙片に書かれた、十和子の整い過ぎているほど整っている文字列をじっと眺めた。
「古書店、ですか。あんまりそういうところに行ったことはなくて……」
「別に新刊書店と変わりませんよ。そんなご心配なさらなくても大丈夫な筈です。あの、でも……」
もしご不安なら、ご一緒しましょうか?
何故そんなことを言ってしまったのだろう。エリは不束屋の前で酷く後悔していた。
同情だろうか? いや、好奇心かもしれない。自分の知らない本を必死に探している男を見て、どんな本なのか見てみたくなったのかもしれない。それとも、書店員としての責任感か。自分がどんな店なのか知らないままに、勧めてしまっていいものなのかという。
頭の中に広がる茫洋とした大海原を、エリは小さく後ろ向きに後悔する。ゆらゆらと左右に揺れる頼りない帆を立てて。こんなに頼りない帆を立てる位なら、いっそのことバター醤油をかけて香ばしく焼いて食べてしまった方が良いかもしれない。後には空になった貝殻の中で、ざあざあと波音の亡霊だけが美しく響くことだろう。黄海とも紅海とも繫がらない、思考の海の果てで。
あの。不意に目の前から声がしてエリは思考の大海から断絶される。氣付けば店の奥から店のものらしき男が出て来ていた。
「いらっしゃいませ。当店をご利用のお客様でお間違えございませんか?」
頑固そうな店構えの割に、出て来た店主は人の良さそうな男だった。見た所、三十ニ、三歳で、和服をさらりと着ている。クラシックな眼鏡と、短くさっぱりと切られた黒髪。
和室には大きな藤のランプシェードがかかっていて、その下に一枚板の座敷机。部屋の隅には、小振りで白いスツールが一脚置いてある。雪見障子の下半分の硝子窓から、空のように青々しい夏の庭が覗く。
不束屋店主の問いかけにエリがはい、と応えると「そうですか」と主人はえびす顔になり、是非あがるようにと言われた。そして通されたのがこの和室だったのだ。
男性客もエリも不束屋店主に自分たちの探している本のことを説明しようとしたのだが、えびす顔の店主はああとかいえとか要領を得ない返辞をしてどこかへ行ってしまった。ついこの間逢ったばかりの男と、初めて来た古書店の和室で二人きり。なんだか現実味のない現実に、エリは軽い目眩を覚える。部屋に馨る白檀の馨りも、和室特有の湿った陰影たちもよく凝られた舞台装置のように、白けた平場の現実感の輪郭をぐにゃぐにゃと歪めている。
「ご主人、どこ行っちゃったんですかね。私、探して来ようかな」
「あ、でも此処に居た方がいいのかも。部屋を出て行く時にお待ち下さいとかなんとか言っていた氣もしますし」
そんなこと、言っていただろうか? エリにはむにゃむにゃ寝ぼけて寝言を言っていたようにしか聞こえなかった。
それから更に十分が経った。いいかげん日和見ばかりの男性客に苛立ち、不親切な古書店にも腹を立て、「やっぱり私、探してきます」とエリが障子戸を引くと、そこにえびす顔の不束屋店主が立っていた。
「お待たせしました。お求めの本はこちらで宜しいでしょうか?」
A 3
「必要なことは全て靴底に書いてある」
「靴底? 今、靴底って言った?」
頷いた彼を見て、彼女は怪訝な顔をする。だが彼があまりに自信ありげに頷くので、彼女も試しに自分の足を曲げて靴底を見てみたが、当然そこには何も書いてなどなくゴムに刻まれた波が寄せては返し、歩き方の癖に合わせて消えかけているのが見えただけだった。
彼は靴底を眺める彼女には一言も触れない。
「それで、その靴底にはなんて書いてあるの?」
「そんなことよりもさ、人間の生活を全部VRの仮想現実に切り替えて、現実を支配しようとしている人々がいるとしたらどうする?」
「それって、ロボトミー手術でも受けて頭に穴の空いてる偏執狂的なSF作家が、半分溶けた脳みそで造り上げた陰謀論じゃない?」
「でも実際に僕らは今じゃ指先一本でポルノも見れるし、遠い場所の人間と血の通わないコミュニケーションを楽しむ事も出来る。なにがしかの買い物だって出来るぜ」
「陰謀論と現実を組み合わせるのって、鏡に向かって永遠に話しかけるのと似たような行為じゃないかしら」
「君はこの先、その指一本の労力さえ抜きでポルノも買い物もくだらないオンラインコミュニケーションも楽しめるんだと言われたら、それを文明の勝利と捉える? それとも人間の終焉の始まりだと捉える? 全てはネット上のデータバンクで管理され、人間の體の本体は管に繫がれ寝たきり。それって素晴らしい未来かな?」
「指一本の労力抜きでねえ。私はそんな指ぬきより、ママが隠してるキスの方が欲しいわ」
彼女は彼のこんがらがった頭の作り出した迷路に疲れて、冗談を返す。もう充分、と話を切り上げる代わりに。
「いいよ。ただキスが欲しいなら、その前に影を縫ってくれなくちゃ駄目だ」
彼もそう言って笑う。
「陰謀論ってデマゴギーなの? それとも隠された真実なのかしら?」
彼の太腿に頭を載せて、彼女は訊ねた。まぶたの上で微睡みが浅く腰掛けて、彼女に受け入れられる瞬間を待ち望んでいる。
「デマの部分もあり、真実の部分もある。しかし本当の真実は今に世界に顕れて広がるよ、ウェンディ。なにせ真実はまごう事なき真実なんだからね」
ウェンディと呼ばれた彼女は、「結局なにが言いたいの?」と笑う。
「今はまだ全ての意味がわかるステージに到達してない、ということだよ」
ウェンディの艶やかな黒髪を撫でながら、ミッターナハトは言う。
「今はまだ、ということは、いつかは到達する、ということでもあるけど」
B 3
不束屋の応接室。店主の持って来た本の登場人物の名前が《ミッターナハト》であることがわかり、エリは驚愕する。
何も言ってないのに、なぜ分かったのかしら。
「普段は注文制でどんな本をご所望かお客様にお尋ねするのですが、お客様の場合は本の方がお客様をお待ちしておりました」
店主はエリの心の中を読んだかのように、穏やかな声でそう言った。
本が私たちを待っていた?
俄には信じ難い話だ。だがその表紙には確かに版画彫りのようなタッチで、海とか空とか、広くて青いものが描かれていた。
「この本で合ってますか?」
男性客、不束屋に来る道すがらの世間話の中で内海(うつみ)と名乗ったその男は、眉間に皺を寄せて本を眺めた。
「この本、だったような。確かに表紙は似ているんですけど……」
内海の煮え切らない態度にエリはまた苛つき始める。なんだか癪に触るというか、子宮を厭な感じで刺激する男だ。
「著者名とか覚えてらっしゃらないんですか? 思い出せませんか?」
「こんな著者名だった氣もするし……違った氣もします」
和室の中に沈黙が降り積もる。北国の深雪のように。深雪が仇となるとはこの事か。
と、そこで店主が静かに口を開いた。
「著者名を覚えていらっしゃらないのも、無理の無いことかもしれません。この本は不思議な本でしてね。《全ては靴底に書いてある》というタイトルなのですが、同じ題名、同じ表紙の本が様々な国の様々な言語、様々な著者名によって出版されているんです」
「同じ題名、同じ表紙の本が、様々な国の様々な著者によって出版されている? それ、どういう意味ですか? 国によってペンネームを変えている?」
「いえ、それがどうやら全て別人のようなんですよ。つまり全く別の人々が、何かの啓示を受けたかのように、同じ本を同じタイミングで書いて出版したと。だからこの《全ては靴底に書いてある》という本は様々なヴァージョンが存在するんです」
そんなことがあるのだろうか。
たとえ本当にそんなことがあるとして、そんな奇妙な事件をエリは訊いたことがない。そんな不思議な本があるならばもっと大々的にニュースになり、一般人は兎も角、書店員の口の端にはあがりそうなものではないか。
「それが黙殺され、どの国で出版された本も増版さえされていないという点が、この本を更に稀少な伝説の本に、そして更に怪しいトンデモ本のように見せている所以ですね」
店主はにこにこと笑った。内海は前のめりになって店主の話を聞いている。詐欺の被害に遭いそうな男だ、とエリは思う。こんなわけのわからない話をすぐに信じてしまうなんて。
「もっと言えば、このミッターナハトというキャラクターが不思議で。この《全ては靴底に書いてある》だけではなく、彼は様々な本の様々な物語の中に登場するんです。もちろん、著者は全てばらばらですよ。誰が彼を最初に登場させたのかも、なぜ色々な作家の作品に彼が出てくるのかも、誰も知らない。知らないけれど、兎に角彼は色んな本の中でその顔を覗かせる。まるで背表紙も索引も自由に飛び越えられる、フィクションの枠を超えた超越的な存在であるかのように」
彼はどんなキャラクターなんですか? 内海が訊ねる。窓の外でちちちと野鳥が鳴く声がして、溶けたオレンジのような西日が雪見障子の硝子から斜めに差し込む。
謎です。謎の存在。未来人だという設定があり、時間管理局員を脅して時間の狭間を自由に行き来したり、覗き見たり出来るみたいですけどね。この《全ては靴底に書いてある》ではウェンディと呼ばれる彼女が出てきますが、それもどんな女の子なのだか、彼らの関係は正確にはどんなものなのだか、どこにも描写されない。なんとも要領を得ない。不思議な存在ですよ。店主はそう言って苦笑いのような表情を浮かべた。
本を購入後、不束屋を出て更に小道から大通りへ出ると、騒がしい雑踏は今までもそこにあったかのように何喰わぬ顔でエリや内海の鼓膜の前へと舞い戻ってきた。
内海さん。はい。ひとつ訊いても良いですか。どうぞ。なぜ、ミッターナハトの物語を読みたかったんですか? 兄が。兄が? 兄が、言っていたんです。なんて?
「ミッターナハトの言う通りだな、って」
もうすっかり夏になりかけているというのに、夕方になると街は少し肌寒くなる。意地悪な花冷えが用事を終えてもまだ薄暗がりの底で、強情を張っている。緑樹と入道雲はもう準備が出来ているというのに、中々実家に帰らない姑のような冷気に負けて街が夏を呼び込むのをためらっているように見える。
「じゃあ、お兄さんに訊ねれば良かったのに。タイトルとか、著者名」
「いえ、それは無理なんです」
菖蒲の花が咲く夏至過ぎの薄やみ、内海の靴底が砂利を引き摺る音が響く。ざじゃあ、ざじゃあ、ざじゃあ。歩き方が良くないのだ。足が悪いわけでもあるまいに。そんな歩き方をしていたら、靴底の波がすぐに擦れて消えてしまう。《全ては靴底に書いてある》というのに。
「なぜ」
「兄は、もうこの世にいないので。ミッターナハトの言う通りだな、って僕に言った日の夜に、部屋で自死しているのを両親が見つけました。遺書もありませんでした」
エリは文字通り言葉を喪った。果たしてそれは薄やみの中であまり目が利かなくて文脈を見失った為だったか、それとも突然の展開に驚いてしまったからか、もしくはこういった場合には言葉を喪うことこそが正しい言葉の使い方だと深層意識が認識したからか。
ざじゃあ、ざじゃあ、ざじゃあ。靴底が砂利を引き摺る。その音は波が砂浜を削る音とよく似ている。いや違う。これは砂が波を削っている音だ。砂に書かれた恋人たちのくだらない落書きを波が消していくように、靴底に書かれた《全て》を砂利が消してしまう音だ。
「何がミッターナハトの言う通りだったのか、わかったの?」
「わかったような、わからないような」
海辺でもなければ、貝殻を耳に当てているわけでもないのに、波の音が聞こえるのはとてもへんてこな経験だったが、それは内海の柔らかな悲しみと共に何度も洗われた綿のシャツのようにくたっとエリの體に馴染んだ。順番ごとに入れ替えられ、きちんと若い番号からナンバリングされている書類のように、清潔で規則正しく。
A 4
夕飯を何にするか、メニューを思いつかないの。ウェンディは泣きべそをかきながら、ミッターナハトに懺悔する。空だか海だかわからない、不思議な青さを湛えた四角い窓を背景にして。
「大丈夫だよ。別になんでも良いじゃないか」
昏くなりつつある部屋の中、ミッターナハトは伸びをする。時計の針がその首を傾げていくごとに、窓の外の青はどんどんと濃くなり、最後には黒に近い濃紺へ姿を変える。そうしたらいよいよ夕飯を食べなければいけないのに、とウェンディは更に泣きたくなる。
「私たちが狂った支配者によってVRの世界に閉じ込められて奴隷にされたら、もう夕飯のことでこんなに悩まなくて済むのかしら」
「ああ。そうはならないけれど、もしそうなるとしたら夕飯のメニューだって妊娠と出産のタイミングだって生きる意味だって、全て向こうが決めてくれただろうね。それが幸せかどうかは別の話として」
「何が言いたいの?」
「悩めることも、幸福の一部だってことさ」
悩めるっていうことは、選択肢があるってことだから。
「でも失敗したら厭だわ。回鍋肉を作ったのに、食べ始めてからやっぱりキッシュを食べたいってなるかもしれない。そうしたらいやいや食べられる回鍋肉も、キッシュを夢見ながら油で照るしなしなのキャベツを食べる私たちも、どっちも可哀想じゃない」
ウェンディはまるで自分が中華鍋で炒めつけられた哀れなキャベツかのように、しんなりと項垂れてしまった。炒めつけられた部位はいずれ青々とした痣やかな鮮となって、彼女の一部になるかもしれない。けれどキャベツが青々としていて、何が悪い?
「良いかい、ウェンディ。世界は可能性に満ち満ちている。それは一方向からの可能性だけではないんだ。確かに君は回鍋肉を作ってキッシュが食べたくなるかもしれない。けれどキッシュを食べたいと思いながら口に回鍋肉を運んだ瞬間に、意外と上手に出来ている回鍋肉に氣分を良くする可能性だってある。回鍋肉を作ろうとした途端にキッシュを食べたくなる可能性を加味して、そうだ、言葉通りに味を加えて、キッシュへと家事を切る可能性だってある。可能性の大海で君はキッシュ島の方へと舳先を向けるってわけだ。けれど、キッシュ島に無事に着くとは限らない。そちらへ家事を切った所為で、君は黒こげのキッシュをぼそぼそと口に運ぶ羽目になる可能性だってある」
ウェンディの途方が夕暮れる。五時のチャイムが鳴り、友人たちは皆それぞれに帰路につく。ウェンディだけが可能性の広場の真ん中で、ぽつんと立ち尽くしていた。
「そんなこと言わないでミッターナハト。私、どうしたらいいの? ありとあらゆる夕飯のメニューに雁字搦めにされて、レシピと分量の檻の中で小指一本動かせそうにないわ」
涼やかで美しい鈴の音のような声で、ミッターナハトが笑う。ミッターナハトは実によく笑う。心地よさと微笑みと愛と思い遣りが命を上昇させることを、彼はよく知っていたから。現代人はそれを知らなすぎる。
「逆だよ、ウェンディ。可能性は大海原だと言っただろ? 無限の分かれ道の前で立ち止まっていることは出来ない。どの道、どれかを選んで進むんだ。僕らに出来ることは、よく考えてどれかを選ぶこと。そして選んでやってきた結果に対して、前向きに対処するか、それとも溜め息を吐き続けて愚痴を言い続けるかのどちらかだ。君は自分の選択を、不備や間違いも含めて完璧だと考えて次に進む事も出来るし、自分は間違え続けていて更にこれからも間違え続けると項垂れながら進むことも出来る」
なるべくなら回鍋肉を作ってからキッシュを食べたくなっても、浮気な自分を笑いながら回鍋肉を美味しく食べることをお勧めするね。それが人生を楽しむ秘訣さ。
ミッターナハトの笑い声はウェンディを安定させる。
「あなたって口数が多すぎるけど、いつも明瞭な説明をしてくれる。最後まで根気強く聞ければ、ってことだけど」
時計の針が何周か周り、恐ろしいほどに青い空に健康な人間の體を流れる血液のような赤が混ざる。誰かが作為的に作ったのでなければ説明がつかないような、あまりに美しい空模様。だがこんなに素晴らしく偉大で巨大なものを、誰が作ったというのだろう?
「説明はクリアにしなくちゃいけないんだ。説明が濁れば、頭の中が混乱して、最悪の場合死に至ることさえ珍しくない。散らかった部屋に毒蜘蛛を忍ばせるのは、容易いことだから」
B 4
ぜつめい。絶命。
内海はミッターナハトの科白を読んだ後、説明という言葉に濁音をつけて小さな声で口にした。
説明が濁れば、最悪の場合死に至る。
なんだ、言葉遊びかぁ。
エリがそう微笑んでも、内海は俯いて爪を噛んでいる。
「ミッターナハトはさぞ悔しいことでしょうね」小さな声で内海が呟いた。
「彼のクリアな説明を読んだ後も、僕の兄は死にました。ミッターナハトの言う通りだな、と言っていたのに。兄は自分を変えられなかった」
内海の兄は、画家志望だった。兄は親たちに内緒で、自分の描いた絵を内海にだけ見せてくれた。くしゃくしゃの紙に描かれたそれは、まだ誰にも見つかっていない、偉大な芸術作品だった。
内海は兄の絵が好きだった。絵のことなど内海には皆目わからなかったが、自分がお金持ちならば何百万も出してこの絵を買うだろうと思った。絵の具の醸す暖かな色味と曖昧で優しい輪郭が、兄の性格をよく表していた。
彼らの両親は子供を虐待するような親ではなかったが、子供の言うことを一人の人間の意見として受け止めるような親でもなかった。父も母も子供には判断能力などなく、故に自分たちが子供たちの将来を決めてやらねばいけないと思い込んでいた節があった。少なくとも、内海はそう思っている。
「いつまでくだらないものを描いているつもりだ」
兄が死ぬ前日に父は兄に対して、そう言った。兄の大切な絵を全て、庭で燃やしながら。
兄は怒りもしていなかったし、泣きもしていなかった。ただ強風の中に立てられたセロファンで出来た家のようにめちぱちと音を立てて揺れる炎を、じっと無表情に見つめていた。その中で真っ黒な炭へと変貌していく、彼の子供たちの哀れな姿を。
兄は全てが燃えるのを一言たりとも言葉を漏らさず見つめて、全てが燃え尽きるのを待ってから黙って部屋に帰った。父は何も話さない兄を何度も怒鳴りつけたが、兄はその度に立ち止まり何も言わずただ無表情に父に顔を向けるだけだった。
その瞳を思い出すと、内海は今でもぞっとする。
人間はあんな目つきが出来るのか。
兄の眼窩に入っていた眼球は、もはや内海の知っているそれではなかった。そこからは全て一切の情報が消され、目の粗い紙やすりをかけられたようにざらざらした質感の絶望だけが気怠げに浅い呼吸を繰り返していた。
「兄の葬式で父は、我が家の恥だと兄のことを蔑みましたが私はそうは思いません」
内海の淡々とした語りを、エリは黙って聞いていた。
兄はもっと説明をすれば良かったんです。言葉を使って、様々なアプローチで。なるべくクリアに。そしてクリアに説明してもわかってもらえないのなら、逃げれば良かったんです。その場所から。あの家から。
「でもお兄さんには、それが出来なかった」
「命を捨てても、父には何も伝わらないんです。何も伝わらなかったんですよ。絶命による説明は文字通り濁っているし、自死は支持されることの真逆ですから。絵を燃やされた時に、無理にでも深呼吸をすれば良かったんでしょう。息することは、生きることだから。生きていればまた描けたのに、兄は結局自分で自分の未来の作品を手放してしまった」
先日、父が鬼籍に入りまして。
ざじゃあ、ざじゃあ。内海の靴底の波音だと思っていたものは、いつの間にか本物の波の音に取って代わられていた。氣付かぬうちに防波堤の近くまで歩いてきていたのだ。
「遺品整理をしていたら、仕事机の鍵のかかった引き出しの中に一枚だけ、絵が入っているのを見つけたんです。それはタッチから言っても、間違いなく兄の絵でした。後ろをひっくり返してみると、確かに兄のサインと、兄が死んだ日の日付が書いてありました。兄が死ぬ直前に描いたものだったんです」
四角い窓の向こうの真っ青な、真っ青な、海のような空を部屋の中から、羨ましそうに眺めている絵でした。
エリはその絵を想像する。ざじゃあ、ざじゃあ。波が寄せては返す音。それは靴底をひきずる音か、それとも泡立つ入道雲が行き来する音か。
羨ましそうに空を見つめる誰かは、誰か。
「綺麗な綺麗な青でした。透き通って透明な青。あんな絵を描けるなら、なおさら生きて欲しかったと思ってしまうような一枚でした。紙と絵の具でこんなにクリアな説明が出来るのに、なぜそれを濁らせてしまったんだと父ではなく兄への怒りさえ感じました」
父はどんな氣持ちであの絵を引き出しに入れていたんでしょう。内海は雨の振り出しの一滴目のように、ぽつりと言葉を零した。濡れたことさえ氣の所為かと思ってしまうほど、ささやかで小さな一滴。
「子供の為を思ってしたことが、もしかしたら間違っていたかもしれない。そういうことはどの親御さんでも一度は思うんじゃないでしょうか。そこで変わる方もいれば、変われない方もいらっしゃるけれど、お父様の場合はお兄様がもう亡くなってしまったわけだから……」
お苦しかったでしょうね。お兄様も、お父様も。
エリがそう言うと、今度は本物の雨の振り出しの一滴目がぽつりとエリたちの肩にその手を置いた。それからすぐにとっとっと、と助走をつけて一氣にざあああああと凄い音の大雨がやってきた。
エリと内海は近くのクリーニング屋の軒先へ、避難した。雨たちは地上に降りるタイムリミットが決まっているかのように、我先にと急いで落っこちてくる。背後から洗剤の匂いのする暖かい空気が漂って来て、ふたりは雨音が間を埋めてくれるのをいいことに、それ以上何も喋ろうとはしなかった。
A 5
結局夕食は回鍋肉でもキッシュでもなく、トマトソースのスパゲティとよく冷えた白ワインだった。
「もう悩むのに疲れちゃったの」
「悩み抜いた先に新たな可能性が出てくる。よくあることだね。スパゲティ、美味しいよ」
ミッターナハトは相変わらず、にこにこ笑っている。食卓机の下では、彼の飼う猫のハイリヒトゥームとアデオダトゥス一世が仲良く餌を食べていた。二匹の尻尾の先はくるりと疑問符形になり、お互いの尻尾に知恵の輪のように絡み合っている。
「ミッターナハトって、なんでも知っているのね」
「過去の人間たちが教えてくれるんだ。君も今度は一緒に見ようよ。時間管理局のロンジェヴィタをまた脅すからさ。ふふふ、あいつったら局長になってもまだ青ざめて『このままじゃ遂に僕は馘になるぞ!』なんて言ってるんだからなあ!」
「過去の人間たちって、そんなに色んな事を知っているの?」
「その逆さ。彼らは何も知らないんだ。何も知らないから、色々な事件を起こす。本当に色々な人間がいて争ったり仲良くなったり、産まれたり死んだり、そうやってぐるぐると大きな渦を巻いて少しずつ真実に近づいていくんだよ」
「それを見て、学ぶものがあるの?」
ウェンディは美味そうにスパゲティをすするミッターナハトを、怪訝そうに見つめる。ハイリヒトゥームとアデオダトゥス一世が最後の一口を巡って、どちらがどう食べるかについて議論している声がうにゃうにゃと机の裏側にぶつかって反響した。
「人間には物語がある。人生と言い換えても良い。それは本当に様々で、それを見ていると色んな決断や、愛の形や、因縁因果なんかがよくわかるんだよ。そしてそれぞれの選択の結果や因縁は品の良い女性がとっておきの日の為にクローゼットの奥にしまってある高級なカーディガンの毛糸の目のように、複雑に何重にも絡まっているんだ。絡まっているんだけれど、ひとつとしてほつれたりせず、一本一本が全体を構成するのに役立っている」
「宇宙は様々な要因で編まれたとっておきのカーディガンってこと?」
「そういう言い方は真実ど真ん中を突いているわけじゃないが、言葉遊びという観点で見れば良い線いっていると思うよ」
「なら、寒い日も安心ね」
その巨大なカーディガンは誰かに着られる為ではなく、ただただ編まれたカーディガンとしてそこに存在し続けるのだということは、ミッターナハトは言わなかった。第一、もしかしたら誰かが着るのかも知れないのだ。それが単なる毛糸の一本に過ぎないミッターナハトにはわからない、というだけで。
自分が巨大なカーディガンを構成する毛糸の一本、いやその一本を構成する一本の羊毛、いやいや、その羊毛を構成する微小な一筋の繊維に過ぎないとすれば。
我々の日々の悩みというのは、一体どれほどの質量を持つだろうか?
煉瓦の上を歩く赤蟻が幼少期に使い続けて、今では古いお菓子の缶にいれられたままのちびた鉛筆くらい? あんまり伸びていないのになんだか無性に切りたくなって、夜中に迷信を怖れずに切ったプランクトンの子供の足の小指の爪くらい? もしくは貧乏だが美しい粒子が、自分の好きな幼馴染みの粒子と自分を好きな大金持ちの粒子の間でぐらぐらと揺れる量子学的恋心のゆらぎの振り幅くらいだろうか?
まぁ、何にしろそれは大したことではないと考えるのに充分な小ささであり、だが同時に悩むに価すると考えるのに充分な存在感と質量を備えている。
つまり、現状をより良くする為に悩むことは無駄ではないし、だからといって悩み過ぎる必要もないのだろう。選べる選択肢は選べるし、選べない選択肢は選べないのだから。運命は必然であり、だが同時に可能性でもある。
ウェンディは悩み抜いてスパゲティを茹でたけれど、逆にもっと悩まなくともスパゲティを茹でていた可能性もある。
そして可能性は結局可能性であり、今この瞬間にミッターナハトたちはスパゲティを食べ終えて白ワインを一気に飲み干したということが明白な事実だ。こうなった今となっては今夜の夕食はスパゲティで良かったと思った方が楽しい人生が送れる。もちろん、キッシュにすべきだったと後悔しながら皿を洗うことも出来るが。
後悔はいつだって先に立たないが、後に立ったところで悔やんでいるだけなら役には立たない。
「ウェンディ、よくお聞き。足の爪先をこめかみにつけた男のやっているクリーニング店の角を右に曲がって、百米ほど進んだ先に住んでいるサッビァ婆さんを知っているね」
「いつもナトゥール・モルト三丁目公園で鳥に餌をあげているおばあさん?」
「そう。ポケットの中から取り出すのを忘れてそのまま洗ってしまったハンカチによく似た、皺くちゃで惨めな婆さんだ。あの婆さんは今までに一度も男に抱かれたことがない。もちろん、女にも。そしておそらくこれから先にもその好機は訪れないだろう」
窓の外はもうすっかり昏い夜だ。蟲の声と、遠くから聞こえるどこかの家で食器を片付けるカチャカチャという音。こんな寂しい夜をサッビァ婆さんはどうやって過ごしているのだろう、たった一人で。ウェンディは腕は萎れて細いのに胴体は四角い老婆の體を夜の闇のスクリーンに映写した。
「とても純粋で、恋愛に奥手な方だったのかしら」
「聖なる老処女サッビァ、か。汝は生涯穢れた男の魔の手から逃げ、孤独の夜の寝床の腕の中、己の人差し指と中指で熱く火照った膜の手前側をひっかいて慰めよ、か?」
「ミッターナハト、下品だわ」
ウェンディが顔を顰めると、ミッターナハトは声をあげて笑った。
「哀しいものを見ると人々はそれを偶像化したり、聖なるものとして崇めたてまつって何かしらの理由をつけようとする。惨めな現実から目を逸らしたいんだ。けれど、それは違う。サッビァ婆さんは若い時から容姿が醜かったんだ。容姿が醜いものを人々は時として聖人君子のように描くけれど、だがそういった者たちにもきちんと性欲はある。興味もあるし、子孫を残したいという本能もある。ただそういう機会が他の人々より少ないというだけでね」
同じ人間なんだ。同じ生き物で、同じ魂なのさ。魂の質の善し悪しはあろうともね。
ミッターナハトは席を立ち、観音開きの大きな窓をあけてバルコニーに出る。夜空には満点の星空が光っていて、その星の数以上に多くの人々が宇宙には住んでいる。
「孤独なる老処女サッビァの過ごした日々が本当のところ惨めで哀しい人生なのかどうかは、彼女以外の誰にもわからない。セックスだけが人生じゃないしね。もしかしたら彼女本人にもわからないのかもしれない。だがどちらにせよ、そう遠くない未来に彼女は死に出会い、肉体を離れるだろう。その時までに彼女が出来ることと言えば、若かりし頃に恐れや弱氣や高望みから男たちを拒んで来た自分を恨み続けるか、それとも穏やかなナトゥール・モルト三丁目公園の静寂の一部になれている今を喜ぶかのどちらかしかない。僕は時計の裏蓋を外して、針を逆に何周か廻してみたけれど、残念なことに何も起きなかったからね」
選択しないというのもひとつの選択で、経験しないというのも立派な経験のひとつなんだ。だから何を選択しても、しなくとも同じことだ。選択をし、結果が生じ、それを受け入れ経験する。このプロセスを通した先に、成長がある。誰もこのカリキュラムからは逃れられない。
ミッターナハトは独白のように、そう呟いた。
サッビァ婆さんはもう寝床についただろうか。薄い煎餅布団とあまり綺麗とも広いとも言えない部屋で。それでも眠れば、朝が来る。朝がくれば、やることもある。例え朝が来ないとしても、それはそれで運命だ。
「一生懸命悩んで選択することだ。けれど悩み過ぎないでも良い。悩んで選択したら、あとは前向きに経験すれば良いんだ。キッシュや回鍋肉よりスパゲティは美味しかったのだ、と自分に言い聞かせてね」
ミッターナハトの声はなぜか少し哀しげで、その奥に広がる闇夜の向こう側から響く蝉とひぐらしの声が夏を報せている。それは去年とは違う声の主の筈なのに、去年と全く同じように聞こえた。
B 5
で、どうだったんですか。
月曜日の朝、澤田十和子は開口一番に聞いて来た。
「どうだったって……、何がですか?」
主語のない十和子の問いかけにエリは戸惑う。暑くなってきた梅雨明けの街を抜け、裏口で同僚たちに挨拶をし、ひんやりとしたコンクリ造りの短い従業員通路を抜けてエリは今職場のロッカーの前に着いたばかりなのだ。
「何がって。行ったんじゃないんですか? あの古書店。ミッターナハト? でしたっけ。その本はありました?」
十和子は呆れたような表情でエリを見つめる。そういえば、あれはつい一昨日のことだったのだ。もう随分と昔のことのような氣がする。
「ああ、《全ては靴底に書いてある》ですか。無事見つかりました」
「そうですか。それは良かった。で、どうでした?」
「どうでした、とは?」
制服代わりの白いコットンシャツのボタンをするすると慣れている手つきで止めて、エプロンをすっぽりと頭からかぶるとエリは十和子の質問に質問で返した。月曜の朝は作業工程が多く忙しい為、着替えている最中の雑談中でも手を止めたりはしない。
「良い本でしたか?」
良い本、だったのだろうか。誰にとって? 内海にとって。内海の亡き兄にとって。内海の父にとって。そして、エリにとって。あの不思議な本は、良い本だったのだろうか。
「なんだか不思議な本で。同じ題名、同じ表紙の本が様々な国の様々な言語、様々な著者名で出版されているらしいんです。内容は、ミッターナハトが小さな部屋で恋人のウェンディとずっと会話をしているだけの物語で」
「へえ。そんな本があるんですね? 同じ題名、同じ表紙、違う言語と違う著者かぁ。男女が話すだけの物語って、まるで《フラニーとズーイ》みたいですね」
「ミッターナハトは硝子をもっと見るよりは繊細でも狂ってもいなさそうでしたけどね」
会話はそこで秋口の鱗雲のように散り散りに途切れて、文字通り雲散霧消した。雲が流れていってぽっかりと空いた秋空のような広々とした時間の隙間に、今日の営業がやってくる。
いらっしゃいませ、レジの音、頁をめくる音、カバーはおつけになられますか? レジスターの開く音、ガシャーンチリチリチリ。
書店の中では心地よい静寂と雑踏の組み合わせで、一枚の絵が描かれている。それは一見、乱雑で規則性のない個々の無軌道な衝動と関心の集合体だが、毎日そこにいて注意深く観察すればそのカオスの中にいくつかの規則性があることに氣付ける。
エリはこの書店という一塊の空間が好きだ。そこには様々な本と様々な読者がいる。薄暗い文学を鼻を突っ込むようにして読む者、ミステリの冒頭を読んで背表紙と何度も見較べている者、レシピ本や暮らしの手帳に今夜の夕食のヒントを探す年老いたウェンディたち、オートバイや車などの趣味の本を穴があくほど見ながら娘が参考書を選ぶのを待っているかつてのミッターナハトたち(彼らの影はすっかり縫い付けられている)。
様々なノイズが絡まって、書店の心電図を描く。線が上下に動いて、命の躍動を記す。山川に風のかけたるしがらみは、流れもあへぬ紅葉なりけり。
だがそれも永遠ではない。やがて中々流れない濡れた紅葉が一枚ずつ流れるように、お客たちは少しずつ帰ってゆく。時計の針たちは営業終了の時刻に差し掛かり、蛍の光に誘われるように残った二三枚の紅葉たちもさらさらと時間のせせらぎに流されて帰っていった。
エリと十和子は朝とは逆の手順で、制服から私服へと着替える。
「あれ、ソウル、って意味ですね」
へ、とへんてこな声が出た。十和子が薄手のカーディガンを羽織りながら、うふふと笑う。十和子が笑う顔を見るなんて、とても希有な出来事だ。
「靴底。ソール、でしょ? 魂もソウル。だから《全ては靴底に書いてある》じゃなくて《全ては魂に記録されている》が正しい訳なんじゃないかなって。誤訳でしょう?」
ソール。ソウル。本当だ。エリはぷっと吹き出して、吹き出した小さな割れ目から笑いがどばどばと流れ出てくるのを感じる。お腹が減った時に少しだけ、と食べ始めると後から後からどんどん食欲が湧いてくる時のように。
笑いは洪水となって彼女のお腹の底から湧き出てきた。エリが笑い、十和子も笑う。狭いバックヤードの更衣室に二人の笑い声が充満して、天井すれすれのところを旋回してぐるぐると響き渡った。
夕食の買い物をしていく、と駅で十和子と別れて、エリは商店街を歩く。夕闇の中で人々はそれぞれの帰路につき、店は今日最後の売り上げをあげようと活気づいている。
こんな小さな街の中だけでも様々な人が住んでいて、それぞれの事情を抱えているのだ。エリはぼんやりとそんなことを思う。
世界には様々な命とそれにまつわるそれぞれの事情がある。内海にも、不束屋にも、ミッターナハトとウェンディにも、聖なる老処女サッビァにも、つい先月エリが別れを告げたばかりの恋人とその妻子にも。
「一生懸命悩んで選択することだ。けれど悩み過ぎないでも良い。悩んで選択したら、あとは前向きに経験すれば良いんだ。キッシュや回鍋肉よりスパゲティは美味しかったのだ、と自分に言い聞かせてね」
昏くなった空にミッターナハトの科白が、白い星の光のインクで描かれる。
あれはあれで良かったんだわ。
妻子あるその人との恋は何年も続いていた。そしてそれは熟れすぎて、もう美味しく食べるには時期を随分と逸してしまっていた。
別れを告げなければ、別れを告げないなりの未来が来ただろう。けれどそのパターンのエンディングはこのタイムラインでは見れない。
見れないOVAを羨ましがっていても、今目の前に流れる本編を見損なうだけだ。エリは過去の自分に今の自分を見損なわれたくはない。
必要ない筈だった今夜の分の夕食の材料を買って、家路につく。彼女は家に帰ったら、自殺する為に引き出しの中にしまっておいた大量の睡眠薬をゴミに出すだろう。
内海はあの本と兄と父の思い出を抱えて、これから先、どうやって生きていくのだろう?
海によく似ている濃紺の空から、聞こえる筈のない波音が聞こえる。
ざじゃあ、ざじゃあ。
それは波音ではなくて、魂が大地と擦れる音だ。
命の源である大地の水面と、我々のソールが触れ合う音だ。
全てはそこに書いてある。
ウェンディの艶やかな黒髪を撫でながら、ミッターナハトは言う。
「今はまだ全ての意味がわかるステージに到達してない、ということさ。今はまだ、ということは、いつかは到達する、ということでもあるけど」
生きていく。死にいく人々もいるこの世界で、赦される限り、生きていく。
エリは夕食のメニューを決めた。
今は亡き内海の兄が死ぬ直前に書いた真っ青な真っ青な夏が、もうすぐそこまで来ている。
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