【ガチ提案】分断を乗り越えろ!日本中ランダム100人で定例会(3ヶ月に1回)
アリストテレスは「われわれ」として、連帯感を持てる人数の限界は2万人程度だと言った。
「われわれ」意識とは、ようするにその仲間のために自分が犠牲になってもいい、といような意識のこと。
1億3000万人の日本において、全体的にその意識を保つことは不可能だろう。なんでおれがあんなクソ野郎のために、となってしまう。
これは、ロールズとコミュニタリアンの論争の核心である。
理念的に考えれば、おれがあの恵まれないあいつの立場だったら、と考えても成り立つような社会が理想だ。
でも、「あいつ」とはどこまで含むのか?
際限なく世界中の全ての人を含むことなどできない。われわれがアフリカの内戦に責任を取ることなどできないのは明らかだ。
だから、ある一定の集団を想定しないといけない。「われわれ」の範囲を広げる努力が必要だというのがコミュニタリアン的な考えだ。
近代化以降、個の自由が最高価値として使われてきた。
インターネットのほとんどのサービスの理念も「個人のエンパワーメント」だ。
個人が何にも邪魔されず、自分の生きたいように生きることができる、これが最高、というような前提だ。
それはもちろん、そうだ。
インターネットが出てきて情報コミュニケーションコストが劇的に下がり、人々は自分のみたいものだけ見て、自分が会いたい人とだけ接するようになった。
具体的な目的ありきのゲゼルシャフト的な集団ばかりとなる。
自分たちと異なる人々の存在にリアリティを感じなくなる。
こうして分断が加速する。
でも、世界は連続体だ。
そこに切れ目をいれてあらゆるものを対象化して捉えると現実を捉えそこねる。
人々の欲望や、感情は、周囲の人によって支えられている。
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私は、ゲマインシャフト的な集団が必要だと考えている。
つまり、目的などなく端的にある集団に投げ込まれ、そこで連帯責任が生じるような仕組み。
例えば、日本人から様々な属性関係なくランダムに100人ごとにグループが作られて、定期的にコミュニケーションを取り、そのグループは一つの主体として評価される。
(まあ、大混乱になりそうだけど笑)
誰かがクソみたいなことをしでかしたらその100人にも責任があるし、いいことをしたらみんなの手柄だ。
こうなれば、いやでも自分はこの世界の構成員だという自覚が生まれる。
みんなでわれわれ感を広げていくしかない。
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おれはやだと言われたらどういう返しができるか?
まず、弱者に対しての言い分は簡単だ。こういう制度がないと、富めるものから弱者は見放されてしまうのだから。
では、強者がこれに参加するメリットはあるか?
これも実は、明確にある。
主に3つ。
まず、強者からみて弱者に見える人でもエッセンシャルワーカーとして社会運営に貢献しているから、この人達がいないと社会は回らない。
そして、次に、強者が強者のために奉仕していては限界がある。取り組むべき課題は弱者に関連するものになるからだ。
さらに、強いのはそれなりの境遇的な優位性がある。それはお返ししないといけない。
以上、思いつきをメモ。