”普遍志向”の西洋、”物語志向”の中国
中国と西洋の考えが相容れないのは、その思考の底板が何か?ということに由来するのではないか。
中国の場合、孔子や四書五経など中国哲学と言われるものがほどんど物語である。つまり、人や世界の存在をベースにその中で筋立てされた物語である。
物語の良さは、「理解しやすい」ということに尽きる。
一方で、悪いところは、多数の人々に間で共通了解を作りづらいというのがある。(なぜその物語が正しいの?と言われたら、そういうものだ、しか言えない)
この物語という特徴は言ってみれば、宗教の本質ともいえる。
それでは、西洋はどうか?
西洋は普遍を志向する。それ故に人々の間で共通了解の可能性が開ける。
ある日本の哲学者は、「哲学のはじまり」について考察をしている。
哲学は宗教とおなじく、この世界のありかたについての説明するが、「宗教が物語(=神話)によって世界を説明するのに対して、哲学は抽象概念を使ってこれを行なう、と。
それゆえ、宗教が特定の共同体のなかでしか通用せず、その共同体から一歩外に踏み出してしまえば、たちまち多くの物語のなかのひとつにすぎないとみなされることになるのに対して、哲学は共同体の限界を越えて「普遍的」なものをめざしていく。
哲学の始まりとされる、タレスの残した言葉は、「万物の原理は水である」というもの。なぜこれが哲学的思考のはじまりといえるのか。世界の全体を、「原理」(アルケー)とか起源といった概念によって考えようとしたからだ。つまり物語ではなく、「概念」を使用することによって世界説明を試みたことによるのである。
この普遍性のデメリットは、概念という文脈を極力排除した抽象的なものを起点にするのに人々の間で共通了解を作りにくい。
物語、普遍を目指す概念と、伝達しやすい物語、どちらも一長一短だ。
全世界で普遍的な了解を築くことは望ましいことだが、理念に終わっているより、物語で一定の範囲でのまとまりを作ったほうがいいという主張もできる。
あるいは、戦略的に物語から始まり徐々に普遍性を目指していくということも考えられる。