「命がけの飛躍」を感じれた #マルクス
命がけの飛躍、この言葉を聞いたことがあるだろうか?
これはマルクス用語で、「使用価値」から「価値」への転換を意味する。
どういうことかというと、例えば、おいしいパンを作ったとしよう。パンは食べたらお腹が膨れるし、おいしいという効用がある。これは「使用価値」である。
さて、それが実際、誰かに買われるというのが飛躍なのだ。
お金という市場経済で何かしらの物を買えるという漠然とした価値をマルクスは、「価値」と呼ぶ。
つまり、使用価値から価値に飛躍するのは、命がけなのだ。
いくらパンがおいしくたって、それにお金を払って買ってくれる人がいることは保障されておらず、偶然的である。
この偶然性は、非常に怖いものであるが、普通に生きていたら、あまり感じない。
この概念を知ったのはだいぶ前だが、この「命がけ」ということの意味合いがわかってきたのは最近だ。
というのも、自分は、自分で事業を行っているから、それが売れるか否かは死活問題である。
そして、「売れる」ことの不確実性、偶然性に、真っ向から直面したからだ。だからこの、「命がけ」という修飾語が深く理解できる。
一般的に会社に雇用されて給料をもらっていれば、そこにはこのような偶然性はない。基本的には会社に労働力を提供していれば、この命がけの飛躍に絡む不確実性に悩まされることはない。
営業マンはものが売れなくても、給料は保障されているからだ。(もちろん、ずっと結果がでないと解雇リスクはある)
資本主義社会における「会社」は、この命がけの飛躍のリスクを常に抱えている。
そのせいで、失業や、景気循環、労働搾取などの問題がおきる。
労働力を提供する人間も、会社から間接的に、また、経営者は直接的に、さらに、労働力としては、採用されるか否かというのもの命がけの飛躍に晒されている。
これを解決するために、つまり、命がけの飛躍を封じ込めるために、計画経済が登場する。
売れるものしか作らない。あらかじめ売れることが計画されているから、この不確実性は消滅する。
もちろん、現代社会は、発展しているので、生活保護のようなセーフティネットが用意されている。
ただ、偶然性が全てなくなってしまったら、それはそれで問題だ。
不確実性の中で、何かを掴み成果をあげることが、人が生きることであるわけで、偶然性のないものはつまらない。
また、いくら計画経済にしても、社会は<世界>というカオスに直面しているため、どこまでいっても偶然性は残るだろう。
今のところ、人間社会は、全世界が1つのシステムにならないようにして、多様性を保ちつつ、<世界>の複雑性に備えているのかもしれない。