乙武さんから考える「生まれつき」とは何か。社会的能力と身体的能力
私は乙武さんをとても尊敬しているし、パワーをもらっている。
あまり、言うのは良くないが、明らかにハンディキャップを背負った状態で、生まれてきている。しかし、その逆境をバネに、現在の通り大きな社会的な影響力を持って活動されている。
これは乙武さんの母親がなんでも前向きに捉えて褒めていた家庭環境などもあるだろうが、やはりこのバイタリティはすごい。
そこで、
乙武さんの場合、足がないとか、指がないとか、そういうことは、一目瞭然だ。つまり、何が欠けているかが明確なのだ。
そして、さらに、それは不可抗力的なものだということが、誰にでも明らかにわかる。つまり、自分の努力で克服するようなものではない、と理解される。
だから、良識のある人は、それを助けようとする。
身体的な「社会的な弱点」は、見てわかるし、それを社会が手を差し伸べるべきものであることがわかる。
では、
身体的ではなく、社会的な能力はどうか?
これになると、人々は一気に厳しくなる。
例えば、コミュニケーションが苦手な人がいたら、それは努力で克服すべきだ、自己責任だ、となる。
しかし、
このような社会的な能力も、不可抗力的な「生まれつき」といえることもできる。
人間の基礎ができる幼少期の体験で、ある能力を身につける機会がなかったら、それは、後々取り戻すのは難しい。
そして、その弱点は、身体的な弱点のように、努力では克服不可能であることが多い。つまり、不可抗力だ。
身体的な特徴より、見えづらいし、それは努力で克服しやすいものだと思われる。しかし、幼少期に獲得できなかったものは後になって身につけるのは容易なことではなく、自己責任を押し付けることはできない。
こういう風に考えることができれば、社会はもっと寛容になるのではないか。