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AI領域における「シンボルグラウンディング問題」から「外国語学習(語学)」と「人生」を考える

1.シンボルグラウンディング問題とは?

「シンボルグラウンディング問題」で前提とされる言語観を理解すると、あらゆることを根本的に考えることができる。特に、外国語学習や人生について示唆があるのでそれについて考えてみたい。

シンボルグラウンディング問題とは一言でいうと、記号を実世界に結び付けられないという問題のことだが、日本大百科全書(ニッポニカ)における定義は以下の通りだ。

人工知能(AI)の知識表現において、そこで使われる記号を実世界の実体がもつ意味に結び付けられるかという問題。「記号接地問題」ともいう。哲学者のスティーブン・ハルナッドStevan Harnad(1945― )がAIには意味が理解できないという論証の一環として提示した問題。たとえば、一度食べたことのある人は、「梅干し」と聞けばその味を想起して口の中に唾液(だえき)が出てくるなどの現象が起こるが、AIにはそういった想起ができない。ある意味で、記号処理におけるフレーム問題や、常識推論ができないことなどのさまざまな問題と同根である。つまり、身体性をもたず、環境と切り離された形で記号の処理をしようとするために起こる問題である。外部世界にあるものを、内部記号に置き換えた時点で外部との接地が切れてしまう。実世界と相互作用するロボットなどでは、ロボットなりの記号接地ができるはずであるが、人間と異なる体をもったものの記号接地は、人間のものとは異なるはずである。
 最近ではディープラーニング(深層学習)によって記号と画像の関係を学ばせ、記号表現を画像に落とすことができるようになってきているので、一部の記号接地は学習可能になりつつある。

この内実を正確に理解するのは難しい。私自身専門分野ではないが、次のように理解すると整合的に理解は可能。

「記号」と「実世界」というとわかりにくいので、具体的にすると「言語」と「その言語のもととなる体験」と言い換えることができる。「りんご」という語と「視覚や嗅覚、味覚などで感じるりんご感」のこと。後者は言語ではなく体験なのでそれを指示するのが難しいが、あの質的な感覚のことだ。

なぜ「りんご」という語で、世界中にあるりんごを指示することができるのか?それは古代ギリシアから議論されており、プラトンの説明ではわれわれが天の世界でそのイデアを知っており、それを思い出しているからだとされる。

先の引用した定義の最後の箇所を再度見てみる。

最近ではディープラーニング(深層学習)によって記号と画像の関係を学ばせ、記号表現を画像に落とすことができるようになってきているので、一部の記号接地は学習可能になりつつある。

これは、上述のイデア問題を説いているわけではないが、一つの回答とみなせる。これまでAIに「りんご」という語を学ばせるには、「りんご」という記号がまずあり、画像データや触覚データなどから人間が「りんご」の本質なるものを細かく定義しその記号に紐づけることでAIに「りんご」を認識させようとしていた。赤色で、丸い形をしていて上の真ん中から線が出ている、のように。

しかしディープラーニングの考えでは、画像データを大量に見せることでその「本質なるもの」をAIの方に創造させる。こうすることで、絶対的な「本質」ではなく更新され流動する暫定的な「本質」が生まれ、経験とともにその強度を高めていくようになる。

このように考えることで、語の持つ人による意味やイメージの幅についても対応できる道が開ける。

※しかし、深く考えるとAIが処理できる画像データ等の感覚データ自体が何かしらの装置に媒介されており「実世界」とは言えないのではないかという問題が出てくる。これは突き詰めると、われわれ人間自身も認識装置を通じてしか世界を認識していないのでは、という哲学の認識問題になるがここではおく。

2.語学領域への示唆

このようにディープラーニングでシンボルグラウンディング問題の解決の兆しが見えたが、この言語観は人間の言語獲得のプロセスに近いのではないだろか。つまり、同じような刺激を受けるとそれに本質を見出し一つの対象として記号化する、というようなものだ。

このように人間が言語を獲得しているとすれば、何がいえるか?

われわれは実体験から深い理解で扱える「記号」(言語)と、「記号」としてだけ教えられた言語の2種類を使っている。例えば、「アメリカ」という言葉でもアメリカに10年住んでいた人と、メディアを通じてしかアメリカを知らない人ではその語が持つ意味に大きな違いがあることがわかる。

外国語を学ぶときに、実際の状況の中で新しい語を学ぶことが有効なのはこのような言語観で説明できるだろう。実体験の支えのない空虚な「記号」だけの暗記は、そこの深い意味を感じることは出来ない。

3.人生への示唆

さらに、これは人生への示唆でもある。人はみな「幸せ」になるべきだと誰もが考えるが、「幸せ」に対する人々のイメージは様々な。ましてや21世紀インターネットの情報化、自由な生き方が求められる多様化した社会においてはあらゆる語に対する理解にゆらぎがある。

やりたいことがない若者や、何をすればいいか露頭に迷う人々が多いのもこれに起因している。社会の流れである一定の価値観を与えられるが、その言語に実体験として深みを感じることができない人は、いつまでもそれに乗ることはできない。そういう場合は、経験を積んでみるか、あるいは既にある経験の中から何かを言語化していくしかない。






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