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カニエ・ナハ『用意された食卓』書評

本稿は、2016年5月30日に発刊された詩誌『UTOPIA』に掲載された文章を微修正したものの再掲です。

 カニエ・ナハ『用意された食卓』が、2016年の中原中也賞を受賞した。蜂飼耳や暁方ミセイといった、女性詩人の活躍が目覚ましい現代詩だが、私の脳髄に飛びこんできたのは彼の文章だった。

 私が、はじめてカニエ・ナハの文章を読んだのは、西脇順三郎特集がされていた二〇一五年四月の現代詩手帖だった。

 この特集にカニエ・ナハも文章を寄せており、西脇詩の源流に川のせせらぎの音があると書いていた。茶郷川については、西脇はこの川べりで、晩年詩人たちを連れて幼少期の思い出の樹をさがしている。また、西脇の内なる女性性や、セザンヌやクールベの絵との結びつきについて書いていた。

 西脇詩の理解が多様で、「こういうひとがいるのか」と新鮮な思いがした。以後、名前を見かけるたびに、彼の文章を読んだ。熱い炎のような詩魂を持った人という印象が強く残った、今時には珍しい熱い人だ。しかし文章は繊細にデッサンするようで、そんな文章に私はひかれた。

 中也賞を受賞したと聞いて、大阪の詩の古書店に急いだ。大変な人気で、私が手にしたのが最後の一冊だった。新装版が出版されるそうだが、初版を手にできた喜びは格別だ。

 さて『用意された食卓』は、こじんまりとした詩集で、あわいタッチで描かれた表紙がどこか無垢さを感じさせる。開くと、すこし長めの、巻頭詩『塔』があらわれた。いちぶを抜粋する。

今あなたの庭にくる鳥のように
自分自身を清潔に保つこと
火を汚染しないこと
世界のどこかで探している
自分と同じ火
血液の哀悼の
それは厚さであった

 「今あなたの庭にくる鳥のように/自分自身を清潔に保つこと/火を汚染しないこと」とはどういう意味だろうか。

 もし汚れた火というものがあるとするならば、それは観念的なものだろう。「世界のどこかで探している/自分と同じ火」――この詩行から「火」とは「心」あるいは「魂」のことだとかんがえられる。

 心を清潔に、無垢に、自然に保つこと、自分と同じ火をもった人を探すこと。そして、「火」を「血」に繋げて、その濃さや重さを表現しているように思われる。ゆえに「汚れた火」とは、汚れた魂であり、清潔ではないもの、純粋でなく、自然でない心、不純な詩魂だろう。 

  野道
 
(いいえ人間に心はありません。)
金属音で目を覚ます
ひたいの赤い傷
地面に押し付けられ
警告される。
一晩の塔を登る
ための恐れに
眠ることが許されず
一幕の
樹皮がはがれ、
暗闇の中で泣いている。
かつての頭を上げ
森の中に消えた、
切断された
体は、汚染されていることがわかったので
攻撃されない
という考えに
起因する罪悪の
味を占め
悲劇の直前まで
むさぼる

 断片的な詩だ。この詩は、行を渡って散りばめられた声をうまく繋ぎあわせて読まなくてはならない。

 「いいえ人間に心はありません」とはどこからの声だろうか、そのまま読み進めていくと、「切断された/体は、汚染されていることがわかったので」とある。

 「切断された」は、前行からの流れでいえば「森」……つまり「自然から切断された」という意味に取れる。同時に、肉体的な感覚の切断であるはずだ。となると、最初の行と合わせると「自然や肉体的な感覚から切断された人間には、心はない」という意味に取れる。何かを断罪するような意思がここにはあるように感じる。

  山端
 
 人や動物だった、
 無数の枕木がやみに転写されなにも運ばない
 停車駅は近づくほどに遠くなり
 見えなかったころの記憶ばかりがいまなお
 鮮明です。)食卓の吐き出された種のなかで充実する
 未来が生存を脅かす(どんなに足掻いても生存が祝福されない。
 新しい、投下された、
 時間の影がわっと押し寄せ、土の毛布にくるまって
 (いっこの人間が 一粒の種子よりも貴い
  などということが、あるだろうか
 ホカニナニモナイ県道 タクサンノナキガラノ
 空ヲウツソウトシテ ナニモナイ
 トツブヤクツカノマ ドレホドノ
 火ガ火ヲ喰イツクシタカ

 この詩はどこか別の場所から、声が割り込んできているようなつくりになっている。「人や動物だった」過去の記憶ばかりが鮮明である……つまり死後あるいはそれに相当する感覚の切断後のことを書いているのだろう。

 「新しい、投下された、/時間の影がわっと押し寄せ」とあるが、これはまるで爆弾のように無抵抗に「新しい時間」「暗い時間」が押し寄せてきた、と言わんばかりだ。しかしてこの詩行はどういう意識で書かれたのか。平和な「食卓の吐き出された種のなかで充実」しているからだろう。

 そして、その感覚は「どんなに足掻いても生存が祝福されない」ところまで広がる。カニエ・ナハ自身の直截の声かは分からないが、ここでは新しい時間、新しい感覚、安穏とした食卓への抵抗感が描かれている。

 では、その「新しい時間」とは何なのか。それは「いっこの人間が 一粒の種子よりも貴い/などということが、あるだろうか」と思える時間だ。「火ガ火ヲ喰イツクシタ」世界だ。

 カニエ・ナハにとって、火とは神秘の象徴であり、詩魂であり、汚染してはならないものだ。それを火が喰いつくすというのは、新しい感覚や時間が、自然を塗りつぶしたという意味にほかならない。山の端に照らしだされた明暗が、くっきりとその残酷なすがたを大きく横たえている。

 読みすすめていくと、後半に『枷』という二八頁にもわたる、長い詩があらわれる。ここの詩集の核を成す詩だ。いちぶを抜粋する。

火を弄び
私の生に
常に横たわっている
黒い床に灰を置いて、
窓から見えた隣人
それは常に
自分が受け入れなかった、
難民、追放されたため、
曇った緑は、
暗くなって
白いはずの底は、
単一のまぶたに
薄暗く差し込む

 「私の生に/常に横たわっている」「窓から見えた隣人/それは常に/自分が受け入れなかった、/難民、追放されたため」……難民のようにうごめく隣人の姿。コントラスト。純真に思えた心にすら影がさす。雲がかかる。罪を犯した枷のように。

 『用意された食卓』は、感覚にたいして向き合っている。言葉が、いそがない、少し考える。すこし遠回りをしてみる、見つめてみる、そこにカニエ・ナハの視線がある。

 詩は、ともすれば表現の技巧やことばの運用法につい目がはしりがちだが、真には、言葉と人間との関係におもきがおかれるものだ。目の前に用意されている、当たり前の風景、日常や幸福に疑問をもち、言葉で世界との隠された葛藤を描き出す。

 彼は結論をいそがない。一直線ではなく、亡骸になった、打ち捨てられたものを見つめる。ぼうぼうと生えた野道、それは「用意されたもの」ではなく、神秘的なもの、詩魂、つまりは「火」であろう。

 だれしも、現実と対峙する瞬間がくる。カニエ・ナハの言葉が、視線が、どんな現実との葛藤を晒しているか。この詩集を読んで、感じてほしい。


(2016年5月30日)

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Sagishi
詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/