やすまさとは何者か?【生い立ち・パパゲーノ創業背景】
何気ない出来事も、自分の人生という物語にとっては大事な1ページだったりする。これは僕の性格や価値観を形成した9つの物語。ちょっと長いし、何の役にも立たないかもだけど、田中康雅という人間がどんな背景で生まれたのか気になる方に読んでもらえたら嬉しい。
1.【幼少期】心臓病とインターネット
3歳の頃に肺動脈弁狭窄症が発覚。それ以来、定期的に通院して心電図やエコーでの検査をしている。といっても軽度なので運動制限はなく、たまに不整脈があるくらい。
インターネットで無限の好奇心を満たせることに感動して、暇さえあれば家にあるパソコンを触っていた。当時は「goo」という日本製のブラウザを使っていて、検索の精度が高くなかったので、「Yahoo!」と「Google」でも同じキーワードで検索して、3つのブラウザを比較しながら調べものをするのが好きだった。
小学校1年か2年生くらいの時に、自分の病気についても知りたくて「肺動脈弁狭窄症」と検索し、「突然死」のリスクがあることを読んだ。それ以来、お風呂や夜寝るベッドの中で「自分は死んだらどうなるんだろう」と、ふと底知れない不安に駆り立てられることが増えた。幼少期から「死への恐怖」を考え続けてきた経験が、人間の存在意義や自殺と向き合うエネルギーに繋がっていると思う。
高校生の時に母方の祖父が肺がんで他界。二世帯住宅で毎週祖父母の家に泊まっていたので、毎日会っていた身近な人の初めての死だった。苦しそうに抗がん剤治療をして、急速に痩せ細り、入院からわずか3ヶ月で亡くなった。お葬式で遺骨をトングで骨壷に運ぶ作業をしている時に、生物の最後は無情な死であることを改めて感じた。祖父の存在感は家に残っているのに、存在はない。中学の授業で読んだ「夏の庭」を思い出した。
キューブラー・ロスの「死の受容プロセス」ってあるけど、とても祖父が死を受け入れているようには思えなかった。「最後は死しかないのに、なぜ人は生きるのか」をよく考えるようになった。
2.【中学】ひとり遊びとフロー体験
小学校4年から塾に通い、中学受験で慶應義塾普通部に入学した。志望校が特になくて、食堂の「あんドーナツ」がおいしくて家から近かったから入学を決めた。だから、地元の人とか高校・大学時代のアルバイト先(マクドナルドとか居酒屋とか)で、「慶應ボーイ」と呼ばれるのが嫌で、むしろ「あんドーナツボーイ」と呼んだ方が正しいのになと思っていた。
「中学受験で慶應に合格ってすごいね」と言われることがあるけど、そんなことない。小学生という何の誘惑もなく、大人の言うことに従って1日を過ごしていた時期に、良い先生のいる塾に週6で通って夜まで勉強させられる恵まれた環境にいただけ。自己決定した訳でもなければ努力した記憶もない。全ては「親」と「運」による結果。普通部の受験問題が「カレーの作り方」と「野菜の断面図」についてで、僕はカレーを作るのが好きだったから突破できただけ。
この頃は両親が別居していたこともあり1人でいる時間が多く、「ひとり遊び」に没頭していた。お金はないので、中古でゲームボーイカラー時代の「ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド」を500円で買ってやり込んだり、ポケモンの金と銀を図鑑完成させるまでやったり。遊戯王カードのデッキを複数作って、自分対自分の「1人デュエル」もよくしていた。
漫画も描き始めた。漫画は「コボちゃん」と「まんが日本の歴史」以外NGな家だったので、小学校のクラスメートに借りた「NARUTO」と「ドラベース」を夢中になって読んで魅了された。中学時代に「デスノート」を読んで、「いつか大場つぐみさんのような漫画原作者になって、小畑健さんに漫画を描いてほしい」と思うようになった。「デスノート」の小畑健さんと「ソウルイーター」の大久保篤さんの絵が特に好きで、好きなキャラを模写したり、漫画を1ページまるごと真似して、朝まで徹夜で漫画原稿を描く練習をしていた。
誰にも邪魔されない自分ひとりの世界で創作活動や物語に没頭できる幸せが自分を救ってくれた気がしていたので、チクセントミハイの「フロー体験」に興味を持って、大学で「フロー体験」と「アイデンティティー」を研究テーマにすることに繋がった。
3.【中学】盗人にも五分の理
中学1年の時に学校で事件を起こして、大騒動になったことがあった。そんなに悪気もなく、当事者間では事を荒立てたくもないことだったけど、スクールカーストの中で日々起きていた問題の氷山の一角だったので、クラスの全員が呼び出されて1対1で事情聴取を受け、学校全体に噂が一瞬で広まった。おそらく退学になる可能性もあったけど、「訓告」という最も軽い懲戒処分を受けた。
手のひらを返すように去っていく友人もいたし、Twitterでも叩かれて辛かったのでアカウントを削除した。「お前は病気だな」とか言ってくる教員もいたけれど、心配して声をかけてくれたり、変わらず接してくれたり、自分のために頭を下げてくれる人もいっぱいいた。とにかく肩身が狭くて、反省文を書いて謝罪するのにも疲れて、自分が存在することへの罪悪感を強く覚えた。
父親からは、カーネギーの「道は開ける」と「人を動かす」を読むといいと言われた。読書が苦手で内容は全く理解できなかったけど、「盗人にも五分の理」という言葉だけがなんとなく目に止まった。
まさにこの時「盗人にも五分の理」の精神で接してくれた大人や友人がいなかったら、僕はまともに生きていられなかったと思う。中学の校長先生と定期的に面談をして、心理的なケアを受けながら、いじめの予防体制を作ってくれていた。どんな話をしたかはほとんど記憶にないけど、職員室の裏側にある誰も通らないベンチでやさしく色々質問してくれてたのを覚えている。最初の1,2回は罪人としての責務として重たい気持ちで呼び出しに応じていたけど、3回目くらいからはあたたかい対話の時間が嫌じゃなくなってきた。クラスメートとは距離をとって、中学2年生になる前くらいに美術部に入ることを決めた。
しばらくは深い絶望の淵にいて、静かに絵を描ける美術室が唯一の安全基地だった。森絵都さんの『カラフル』を読んで、「小林真は自分だな」と思った。
『シバトラ』という小池徹平さん主演のドラマと原作の漫画が大好きで、見るたびに泣いてしまうんだけど、それは自分も「罪を犯した人間」というレッテルと向き合って生きてきたからだと思う。だから、極端にいうと「殺人犯にも五分の理」くらいの姿勢で人と接する。差別や偏見で人の可能性の芽が摘まれることに強い憤りを覚える。憤りのベクトルは人ではなく背景にある構造とか関係性に自然と向く。
4.【高校】力なき愛は無力
高校に入って僕は少林寺拳法部に入部した。「心身の強さ」がほしかったから。心臓病を言い訳に運動嫌いでごぼうみたいに華奢な体つきで、男子校育ちの根暗な自分を変えたかった。中高一貫校なので、中学時代のレッテルから逃れたくて、人数の多い部活は避けたい気持ちもあった。
中学の体育で1,500m走をすると2日くらい体調不良になるレベルだったので、最初はとにかくしんどくて、毎日痛みに耐えて泣きながら稽古をこなしていた。毎日「辞めたい」と思っていたけど、一緒に苦しい稽古を耐えている同期がいたので続けられた。
少しずつ心身ともに鍛えられ、後輩もできて、県大会で優勝するくらいになった。全国優勝のためにできることは全てやろうと決めて、食事は栄養計算をしてバランスよく必要なカロリーを摂り、毎晩ストレッチを欠かさず、22時に寝て5時に起床する生活を3年間続けた。
部活一筋で、高校の授業中は弁当を食べているか、仮眠しているか、自分たちの演武の動画をスマホで見返しているか。好きだった国語と英語だけマイペースに学び、数学のテストは0点とか5点とかでいつも最下位争い。いつも凸凹が激しい成績表だった。
目標としていた全国優勝はできなかったし、自分は道場の中の世界しか知らない井の中の蛙だなと感じてはいたものの、少林寺拳法を3年間やり切り、結果も少しは残せたことで、ちょっとだけ自己効力感が高まった。自分の自由意志に基づき「自己決定」し、挑戦した人生で最初の経験だったかもしれない。
少林寺拳法の世界には「力愛不二(りきあいふに)」という言葉がある。力と愛は両方とも持っていないと実社会で価値を生むことはできないというもの。「強くありたい」「人に迷惑をかけるのではなく、役に立てる人間でありたい」と思っていた自分にとって、この思想は心底共感できて、座右の銘の1つになっている。目の前の人を助ける正義(ケアの倫理)と、最大多数の最大幸福に寄与する正義(功利主義)の両輪を回せる人間でありたい。片輪では前に進めない。
5.【大学】進級できない無価値な自分
大学は新しいことに挑戦したくてSFCへの進学を決めた。一般入試の頭の良い学生とAO入試の個性的な学生に囲まれて、入学直後から「何者でもない自分」への焦りを強く感じていた。難しい授業ばかり履修して全然ついていけず、サークルもいっぱい入ったけどどれも中途半端。1年からゼミに入っていたけど、それも半年で辞めた。
秋頃からは昼夜逆転。朝起きれない、夜寝れない。20時間寝て2日起きるみたいな生活リズムで授業はほとんど欠席。ほぼ部屋着のまま夕方から大学に行って1コマだけなんとか出席する感じ。学費から計算すると大学の授業は1回5,000円くらいと聞いたことがあったので、毎日何万円も親に投資してもらったお金を無駄にして生きていることへの申し訳なさが積み上がっていった。必修の数学の授業も落とし、単位も全然足りていなくて、2年生には進級できなかった。
4月に大学へ向かうバスの中から桜を見た時に、周りの人はちゃんとやるべきことをやって進級しているのに、自分だけ置いていかれていて、「絶望」の象徴として桜を見ていることに情けない気持ちになったのを今でも鮮明に覚えている。自分は完全に「負け組」で「レールから外れた人間」なんだなと思った。
そこから2つのことをしてこの状況を抜けることができた。
1つはできない自分を認め、1つのことを丁寧に頑張ろうと決めたこと。サークルも1つに絞り、授業も楽なものをバランス良く履修して自分を追い込みすぎないようにした。サン=テグジュペリの「星の王子さま」もこの時期に読んで、大事な1つのものに時間を使う意義も学んだ。
もう1つは心理学を学んで自分の心の理解を深めたこと。祖父母の家に1日こもって全て忘れてただマイペースに寝て読書していた日に、加藤諦三さんの「自立と孤独の心理学」を読んだ。メランコリー親和型や白黒思考について学び自分の考え方のクセを見直すようになった。
6.【大学】フィリピンのスラム街
大学2年目の夏休みにフィリピンのスラム街「スモーキーマウンテン」を訪問した。日本で何不自由ない暮らしをしているのに、大学の授業の単位もロクに取れない自分が、「貧困」とか「社会課題」と言われているものを目の前にした時に、何を感じるのかを確かめたかった。何か変われるんじゃないかと期待していた。
マニラの大都会の中に、突然スラム地域が出てくる。ほとんどゴミ山で、実は日本のゴミがフィリピンに追いやられていたりもする。ジョリビー(ファストフード)の残飯をゴミ山から拾って食べて薬を吸っている子どもたちを見て、難しいことはわからないけど、自分の命をもっと世の中のために使いたいなと感じた。
「先天的な要因」による苦しみはどうしようもない。自分がフィリピンのスラム街に産まれていた可能性もあったわけだし、たまたま日本に産まれたから今の裕福で衣食住に困らない生活ができている。人の健康は社会経済的状況に大きく左右される。だから「ノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)」という言葉がある。
その言葉の意味が五感で理解できたのに、目の前の現実を変える力が自分にはあまりにもなさすぎた。無力な自分に何ができるか悩んでいた僕に、マザーテレサの言葉を後輩が教えてくれた。
大きなことをする必要はない。小さなことを深い愛情を込めてやればいい。自分にできることを、小さくても1つずつ丁寧にやっていこうと思った。
7.【大学】「死にたい」と「生きたい」
身近な人に「死にたい」と言われたら、何と言葉をかけるのが良いのだろう。どうしていいかわからず、僕はとにかく「生きてほしい」というエゴを押し付けた。幼少期から「死」を恐れていた僕は、自殺する人の感覚が理解できず困惑していた。何も変わらないどころか状況は悪化するばかりだった。必死すぎてほとんど覚えてないけど、結局のところ共に時間を過ごし、明日の死を覚悟しながらも明日を祈ることしかできなかった。
この頃から、amazarashiの曲を聴いて、しんどい気持ちやよくわからない心の空洞を埋めるようになった。特に好きなのが「ジュブナイル」「クリスマス」「つじつま合わせに生まれた僕等」「ひろ」「無題」「この街で生きている」とか。
そういえば、YOASOBIの「夜に駆ける」を初めて聴いて、原作の小説を読んだときは衝撃を受けた。まさに自分の気持ちが表現されていたような気がした。
あとから勉強して、「死にたい」というのは、死への恐怖を上回るほど「生きるのが辛い」とうこと。「生きたいけど生きる道が見つからない」というSOSであることを知った。「ゲートキーパー養成講座」も受けて、どう声をかけると良いかも学んだ。難しく重たいテーマではあるけれど、死は誰にも平等に訪れるものだし、死を恐れていた自分にとっては不思議と好奇心をかきたてられるテーマでもあったので、大学では文学部心理学専攻の授業を履修して、最前列で授業を受けてスポンジのようにメンタルヘルスの知識を吸収していった。
8.【社会人】スタートアップという天職
就職活動ではメンタルヘルスや自殺予防に貢献できる場所が見つからず苦労した。医学部編入して精神科医になることも本気で考えていて、河合塾KALSの説明会に行って東海大の赤本を買ったりもしていた。臨床心理士、社労士、精神保健福祉士なども考えていたが、とにかく数学ができなかったので、まずは過労自殺を引き起こす日本の労働環境の実態を知るためにもビジネスの世界で闘ってみようと決めた。
それから社会人4年間で3社のヘルスケア企業で経験を積んできた。1社目はスモールビジネス型の中小企業、2社目、3社目は株式で資金調達しダイナミックに事業を創る「スタートアップ」だった。
内省不足もあると思うけど、就活で「過去」とか「失敗」を根掘り葉掘り聞かれたり、人間をカテゴライズして安易に理解しようとする自己分析とかをするのが苦手で、不毛だなとも感じていた。だから、肩書きとか過去の経歴を盲目的に称賛することもなく、過去や失敗をネチネチ批判することもなく、ただただ「未来」のための思考と行動をしている「スタートアップ」というコミュニティが僕にとってはものすごく居心地の良い場所だった。
真剣勝負の世界。綺麗事だけじゃ通用しない。極めて合理的。死屍累々と挑戦者たちが敗れていく姿も目にする。それも讃える。また立ち上がって共に頑張ろうと。
資金枯渇の恐怖や売上が伸びない不安を抱えながらも、心から意義があると信じられることに挑戦する仕事に魅了され、メンタルヘルス市場に本質的に価値あるビジネスを生み出していくことが非専門家の自分が業界に最も貢献できる道なんだろうと思うようになった。
9.【社会人】パパゲーノ効果との出会い
メンタルヘルスや自殺予防の世界は、「出る杭を嫌う文化」が強いらしい。「当事者からも支援者からも、全方位フルボッコ。それでもやる意志を貫いた人が、やっている。」という先人の重い言葉もいただいた。
「素人が自殺予防を語るな。」「何のバックグラウンドもない君に、良い事業なんて作れないから辞めておけ。」「非営利組織でやったらどうですか?」的なアドバイスもよくされた。だから結局、4年間も自殺予防に関わる活動は一切できないまま逃げ続けた。
転機になったのは「自殺対策白書」を読んで2020年の自殺者数が11年ぶりに増えた事実を知ったこと。もう一度「自殺予防」と向き合いたいと感じた。すぐに自殺予防関連の文献を漁って、末木新さんの「自殺学入門」を読んで、「パパゲーノ効果」という言葉が目に止まった。NPO法人OVAの伊藤次郎さんとインターネットを活用した自殺対策の実践と効果検証に挑戦していることも知り、この2人が人生のロールモデルに感じて嬉しくなった。
パパゲーノ効果は、中学時代に美術部で、色んなストーリーに救われてきて、漫画家を目指していた自分にとっては「僕がやらなきゃ誰がやるんだ」と思えるくらいの概念だった。まだまだ未検証で頼りないこの仮説を実証し、正しく社会実装するのが自分の使命なんじゃないかと思うようになった。
そこから副業で日本初のメンタルヘルスに特化したビジネスコンテストを主催して市場構造やビジネスモデルのパターンを探り、2022年3月に株式会社パパゲーノを創業。辛い出来事や精神疾患を経験した方がリカバリーに向かう語りを題材に、絵本や音楽、絵画など多様な表現手法で届ける事業を立ち上げている。
自分ひとりでできることはちっぽけだけど、「生きててよかった」と誰もが実感できる社会を実現したい想いに共感する仲間が少しずつ増えて、夢が形になってきている。
読んでくれてありがとう
物語というのは、すぐに何かの役に立つかはわからないけど、自分にも人にもやさしくなれる力を秘めていると思う。じわじわと、深く、人の心に共鳴する何かがある。僕が大事にしている価値観や、パパゲーノの経営哲学を、何となく感じとってもらう助けになっていたら嬉しい。
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