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旅文通15 - 凝視の力〜サクラメント 

 ニューヨークはこの冬とても寒いけれど、モミの木の香りのおかげで、外出が億劫になりません。
 役割を終えたクリスマスツリーが近所のお宅から何百本?運ばれて、通り道の公園で粉砕して、幾つもの小山にしてあるのです。雪を戴いても、香りが弱まることは全くなく、鼻腔そして気道を浄めながら、体内をすっきり元気にしてくれます。

 わたしにとって、ニューヨークのホリディの愉しみは、なんと言ってもモミの木の香りです。感謝祭が終わる頃から、路上に、ツリーが並べられますね。カナダ、メイン州、バーモンド州などから毎年、同じファミリーがやってきて、同じ場所で店を出し、そのモミの木の間を通り過ぎる時の香りの素晴らしさ! 日毎に売れて、最後の一本になっても、立ち込める香りは薄まりません。彼らはクリスマスイブに店を畳んでさよならしますが、年明けて、またこうして盛大な香りに出会えるのが嬉しい。それに、ファミリーの子供たちも、当然のことながら、毎年成長した姿を見せてくれるので、彼らとの再会も味わい深いのです。


 さて、テオさん、長い間ご無沙汰してごめんなさい。このnote.comからも長く遠ざかってしまっていました。

 老母の介護が年々大変になっていて。介護という言葉には違和感があるのですけどね。お世話をするというより、母という一人の人間(と、なかなか見ることができない、特別な関係で今まで接してきた人)を、徹底的に受け入れ、邪念なしに繋がり合う、厳しい精神修業であり、かつ、この上なく甘美なゆるし合いの時間ですね。この機会が、一日二十四時間常にあって、都合により延期、ができない。身体の不調に耐えかねて、「早くお迎えに来てと朝晩、天の父にお願いしている」母に、「わかるけど、子供孝行と思って踏ん張って。わたしも弟も、お母さんの役に立てることをさせてもらうのが本当にありがたいのだから」と何度となく伝える日々です。

 そんなわけで、この場に来るのがずっと後回しになっていました。許してください。

 言い訳はともかく、ご無沙汰しているのはこの場であって、生身のテオさんとは顔を合わせていますね。新しい詩作品も随時拝読。先日は、テオさんの詩集を扱っている、ニューヨーク市内の各独立系書店のシステムのこと、興味深く聞かせてもらいました。
 テオさんの詩作品を読ませてもらうときも、同じことを感じるのですが、旅の、①企画編、②実行編、③振り返り編(そう、テオさんの旅にはそれがちゃんとあるの)を近くで垣間見させてもらいながら感じるのは、テオさんの、モノを凝視する力の半端でない強さのこと。
 それは、心のこもったお土産の数々からも、いつも感じるし、旅の話でなくても、たとえば、夜中に目が覚めて、部屋の静寂さに包まれながら眺めるその空間と心模様についても、話の断片から伝わってくるのは、やはりいちばんに、何かに見入っているときのテオさんの心のエネルギーのほとばしりです。
 テオさんの旅は、忙しいのですよね。旅に出る前から、何を見るかは決まっていて、しかも、目がけていくその相手、対象物のことは、念入りに調査されているのです。
「調べはついている。逃げも隠れもできないぞ。取り繕ってもバレるのだぞ。完全降伏しかないぞ」
 というドスの利いた声(?)ともに、愛する対象、憧れのその一角の風景(映画のワンシーンとか)や、さまざまな風景や音、モノたちに会うというより対峙するのがテオさん流の旅、と見ています。
 心に引っかかるものの一つ一つについて、「これをじかに見てみたい」という情熱が生まれ、見なくても理解できることについては徹底的に受け取っておく。
(そうですよね。相手のことをよく知らないでインタビューに臨むインタビュアーは失格ですものね)
 そして、ついに、相まみえるとき、お互いに、もう、逃げも隠れもしない、という覚悟とともに、それぞれの心を晒すわけです。
 そんな丁々発止の出会いは、深い交信とも言えるもので、テオさんが旅からいのちの糧を得ていることがよくわかる気がするのです。
 ニューヨークご近所散歩やカフェでのひとときにも、そのビーム光線が辺りに突き刺さっている気配を感じます。

 レクスロスが、我らがウィリアム・カルロス・ウィリアムズ(我らが、と言わせてもらってもいいかしら。すぐお隣のニュージャージーの詩人なのだから)に送った手紙(散文)に、こんなくだりがありますね。

 あんたは、聖フランシスにそっくりだ。
 肉体が幸福な雲のように抜け出て恋を売るすべてのものたち ー ロバとか花とか癩病患者とか星たち ー と一緒になってしまった、あの聖フランシスだ。                    (江田孝臣氏訳)

 さらにレクスロスは、ウィリアム・モリスの物語を引いて、
「永遠に続く結びつきーサクラメント的なーを創り出すのが詩人なのだ」
 とも言っています。

 サクラメント! これはカトリック教会の儀式のことだけど、相手を見て、見て、見抜いて、その向こう側に“共に”辿り着き、そこに聖なる関係が生まれる、という意味において、テオさんがものを見るとき、それはサクラメントなんですね。
 恋人に会いに行くような旅ね。ロバや、石畳や、世界でただ一つの”その”窓辺と一緒になってしまう旅ね。
 確信に満ちた恋心が放たれると、それは相手の心を必ずや開く。そのとき、テオさんのいのちも満ちるのでしょう。
 先日の旅のお土産話にも、いのちはあふれていました。でも、そのことは、テオさんがまた書簡に書いてくれるでしょう。ほとばしる恋心を成就させる凄みのある旅のシェアを。

 わたしの方は、モミの木の山も、一月いっぱいでまたどこかに運ばれてしまうでしょうから、それまで存分に、香りを慈しむことにします。


 

 

 

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