具象画→抽象画への移行の間に6年くらいブランクがありました。
抽象を描こうと決めたら、意外とスムーズでしたが、その前の6年間は大きなキャンバスには向かえていませんでした。
パリから台北に移り彼の実家でお世話になりながら、中国語を勉強、二年後に結婚、その一年後に長男が生まれ、二歳違いで次男が生まれました。
夫は結婚してすぐに台湾の外交関係の仕事に就き、その関係で長男が四か月の時にはイタリアに、数年後にはセネガルのダカールに家族で移動し三年半暮らしました。ダカールから直接パリに赴任になり、その二年後には台湾へ。台北に戻った時には、上の子が8歳下の子が6歳でした。
台北には6年間いましたが、その間は特許法律事務所に勤務、時間のある時デジタルでイラストやマンガを描いていました。というのも台北に戻ると、なぜかファインアートとしての絵を描くことはあまりできなくなっていました。(人によって違うのでしょうけど、私には、台北というお金を稼ぐことが中心の場所で、キャンバスに向かってじっくり絵を描くというのは、とてもとても困難なことでした。台湾で美大を卒業していたら、また違っていたのかもしれませんが。)
その後また夫の移動が決まり、赴任先はまたもやパリでした。三度目に住むことになったパリ。三度目ともなると、パリに大きな期待も夢も持たなくなりますが(笑)その代わり色んなリサーチをしなくてもいいというメリットがあります。絵を描きたければ、どこに行けばいいか、どんな形が自分にむいているか、大体把握ができています。実際は、パリに着いてしばらくは、アパート探しや子供の学校選び、自分たちの生活が落ち着くまで絵を描く気持ちも時間もありませんでした。特に中学二年と小6の息子の学校をどうするかという課題がありました。子供たちが学校なじんでくると、私もまたアトリエをいくつか探し、毎日のように描き始めました。
二回目の赴任のとき、小さな子供をベビーシッターに預けて通っていたアトリエの先生には、たくさんのことを学びました。
勿論、三回目のパリでも、その先生が主催するアトリエに通いながら、いくつか違うアトリエにも通い、自宅でも大きな絵にも取り組みました。
本格的に抽象画に移行したのは、その頃からでした。
もともと具象画の半分崩れたようなもの、例えば肖像画だと影の部分から顔の輪郭を消したり、群衆を描いても人物のシルエットが半分黒い影で覆われていたり・・・ただ100パーセント抽象だけで、例えば三角やマル、色だけで表現するのはまだまだ抵抗がありましたし、作品として成り立つのか疑問もありました。
でも、考えてみるとパウルクレーの絵も四角や三角でお城を描いていたり、ターナーの描く霧に隠れた列車の風景も、抽象画の一種でした。いきなり形のないものを描くのは大変なので、風景を描いて境界線をぼかしたり、静物画をデフォルメを強く描くなどしているうちに、抽象画の面白さと奥深さにハマっていきました。でも時々、線で形を作ることが無性にやりたくなり、その頃展示した作品には、象やウサギの絵も混じっていました。
次回は、パリのアトリエの紹介をします。