どうやら月には人がいるらしくて(私のメディアリテラシー②)
前編「たとえば神様みたいなAIがあったとして」はこちらです。
どうして知りたくないことも知らなくてはいけないのか。
「それは未来のためですよ」と答えてから数日、実は少しもやもやしていました。
それは未来のためなんでしょうか?
知りたくないことを知ったとき、世界の不完全さを感じたとき、確かに胸は痛みます。
この痛みは、「未来」のためのものなのでしょうか。
今ここにいる、私の「現在」にとっては苦しいだけなのでしょうか。
じゃあ、未来のために現在は我慢をしなくてはいけないのでしょうか。
そんなとき、偶然に聞いた言葉がありました。
ウラジミール・ジャンケレヴィッチという20世紀のフランスの哲学者が提唱した「死の二人称」というものです。
ジャンケレヴィッチは、「一人称(私)の死」と「三人称(他者)の死」の間に、特権的な「二人称(あなた)の死」があると言っています。
「あなた」は、私にとっての他人なのですが、それでも「あなたの死」は「他者の死」とは全く違うものです。非常に親しく感じられる「あなた」という存在の死は、まるで自分のもののように、身を切られるように辛い出来事なのです。
「あなたとは、特権的な他者である」
そう聞いた時に、なんて美しいのだろうと思いました。
決して理解しあうことはできない、なぜなら他人だから。
それでも理解したいと思う、なぜならあなたは他の人とは違う、特別だから。
そんな「届かないことが分かっていても、手を伸ばしたくなる」相手、それはまるで夜空に浮かぶ月のようです。
まるで月のような人が「あなた」であり、そんな「あなた」を見つけるために、私達は自分の殻から出て、他者と交わるのです。
それは、いつか訪れる未来のためではなく、今ここに生きる自分が、今どこかに存在する「あなた」を求めているからです。
「どうして知りたくないことも、知らなくちゃいけないんですか?」
ひとつは、未来のためです。
でももうひとつは、現在の自分のためでも、確かにあるのです。
たとえどんなに仲の良い家族でも、友人でも、恋人でも、完璧に分かり合うことは不可能です。
でも、それでも分かりたいと願ってしまう、そして分かってほしいと願ってしまう、そんな矛盾を孕んだ「あなた」は、快適さしかないフィルターバブルの内側にはいないのです。
だから、私達は守られたバブルの外側に出て、月に住む「あなた」を探しに行くのでしょう。
そこはきっと、今までのような快適な空間ではないはずです。
でも、私が「あなた」を欲しているなら、知りたくないことだらけの世界の中から「あなた」を見つけ出すしかないのです。
実はこれは以前、友人に対して長々と語った一連でもあります。もちろん酔っ払っています。
滔々と喋ったことに少し疲れ、私はぽつんと言いました。
「まあ、月に人がいるはずはないんですが」
ふうん、と頷いた後、少し首をかしげて友人は言いました。
「月に人はいないって、だれが決めたんですか?」
ん、と面食らった私。
「だって、月に人はいないじゃないですか」
鸚鵡返しで反論です。
「月に人がいちゃいけないんですか?」
えっ、これは、どういう意味で言っているの。
「月に人がいるのを見たことがある人がいないだけで、それは月に人がいないことにはならなくないですか」
え、あ、ハイ。
「いない証明はできなくないですか」
ええ、あれ、はい?
「大体、同じ景色を見て、この海は綺麗だねって言うのも証明できないですし」
そ、それは、Aさんが海が綺麗だねって言うシチュエーションも含めて、Bさんにとっては綺麗なんじゃないですか。
「じゃあ月も一緒」
……!!
「月に人はいます」
何ということでしょう。
どうやら、月に人はいるようなのです。
月に人はいると信じれば。
そして誰かと、そうだよね、と言い合えるなら。
それならば。
全ての矛盾を超えた「あなた」も、やはり存在するのです。
何だか今夜はおかしな夢を見てしまいそうです。
そこではジャンケレヴィッチとかぐや姫とウサギとモノリスが餅つきをしていて、(しかも結構それが美味しそうで)みんなでつきたてのお餅をもちもち食べながら地球を眺め、まだ来ないのかねえ、遅いねえなどと勝手なことを言っていたりするのです。
<了>