最果タヒ『パパララレレルル』(書評ラジオ「竹村りゑの木曜日のブックマーカー」1月20日放送分)
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<収録を終えて>
大好きな作家さんの作品を紹介するときは、いつも緊張します。
最果タヒさんはその筆頭になる方で、その詩だか物語だか、ひょっとしたら妄言だか分からない言葉の並びには不思議な求心力があって、まるでわんこそばを頂くように次から次へと、ごくごく読み進めてしまいます。
今回の『パパララレレルル』には、童話のオマージュや最果さんのオリジナルストーリーなど、26の短篇が収められています。どの物語も主人公の一人語りで進められていくのですが、全ての主人公に客観性が装備されていません。そのため、読めば読むほど語り手である「わたし」が何者であるのか、「わたし」が語る事実は果たして事実なのか、「わたし」の語る「あなた」は本当に「あなた」なのか、全てが分からなくなっていくのです。
で、なぜかそれがすっごく気持ちいいのです。
文章に酩酊しているということなんでしょうか?
私はお酒で言うと、超辛口の日本酒とクラフトジンが好きなのですが、最果さんの文章はジンっぽい感じがします。ラベルがすっごく可愛いやつ。
今回、収録後記を書くにあたって『パパララレレルル』を読み返して、ちょっと面白いことに気が付きました。
最果さんは句読点の打ち方が勇敢なのです。
最近の作家さんやライターさんは、一文をなるべく短くするよう求められることが多いそうです。これは、読み手側の長い文章を読むだけの読解力が低下しているためです。一文が長いと、何言ってるか分かんなくなっちゃう人が増えているということです。
一方、最果さんは基本一文が長いです。そして、その一文の中でも視点や感情や思想がくるくる変わっていくので、何だか気まぐれな猫を追いかけているような気持ちになります。理屈よりも、その足取りを辿ってみたいと思わせるような。
さらに読点(「、」のこと)の打ち方も一定でなく、小刻みに読点を打つ箇所と、全く打たない箇所でスピード感が全く違うのです。例えるなら、ジェットコースターが急にゆっくりゆっくり頂上を目指していったと思ったら、次の瞬間には一気に落っこちるような。呆然としている間にいつのまにか終着地点に到達して、さあ、あれは全て夢だったのですよと言われるような。
ラジオの中では、最果さんの言葉のデザイナーとしての能力を念頭に紹介をさせてもらったのですが、こうして考えると、言葉のミュージシャンでもあるのかもしれません。
言葉のアーティストに翻弄されたい方は是非。装丁も素敵ですよ。
それでは、今日はこのあたりで。
また、お会いしましょう。
<了>