『女のいない男たち』(書評ラジオ「竹村りゑの木曜日のブックマーカー」4月21日放送分)
※スマホの方は、右上のSpotifyのマークをタッチすると最後まで聴くことができます。
<収録を終えて>
数々の映画賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』の原作を含む、6つの短編集です。
ラジオでもお話をしたように、映画では、原作のストーリーにかなりアレンジを加えています。
原作では、主人公家福とドライバーのミサキの会話を中心にストーリーが展開します。2人は互いに自らの喪失を語り合うことで、自分の人生に起こった不条理を許していこうとします。
映画では、原作の物語にさらにエンジンをかけるために、チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』を登場人物たちが演じるというストーリーを大胆に加えています。
その結果、原作では「痛みを受け入れる」ことに重点が置かれていましたが、映画ではその先の「痛みを抱えて生きる」ことや、その切実さに言及できていたように思います。
特にそれを可能にしたのが、『ワーニャ伯父さん』登場人物のひとり、ソーニャがラストで語る台詞です。
救いを求めないまま生きることの痛み、そして、それでも生きていくという信念を、ソーニャは身をもって示します。
生き方の純度が最大限に高められると、それは結晶となり人の心を打つのかもしれません。
ソーニャの体内で錬成された結晶は言葉となって溢れ出し、物語を越えて家福やミサキを導いたのだと思うと胸が詰まるような気がします。
私が映画のシーンで特に好きなのは、愛車を運転する際にはタバコを吸わないようにと言っていた家福が、ドライバーであるミサキに喫煙を許可し、ともにタバコを燻らせるところです。
車を運転しながら、ミサキは車内にタバコの煙が充満することを防ぐためか、オープンカーの屋根から外にタバコを突き出します。そして、助手席に座る家福もそれに倣い、車の屋根からは2本の火の付いたタバコが空に向かって並ぶ格好になります。
まるで2つの聖火を掲げて走っているようなその様子は、希望を感じさせつつもどこか切なく、近しい人を失くした2人が行き着く先に、どうか安らぎがありますようにと願ってしまう、とても美しい場面です。
『ドライブ・マイ・カー』を含む短編集『女のいない男たち』は、そのタイトルの通り、様々な形で女性の存在や関係を喪失した男性が登場します。
なぜ作者が喪失を前提にした物語を書いたのかは物語の中で示されておらず、作者自身も前書きに「僕にもその理由はよくわからない」と書いています。
ただ、どの男性も、ただ女性を失ったというわけではなく、そこには様々な意味付けがあり価値観の変容があり、時にそれは、新しい選択肢を生んでいます。喪失からも何かが生まれるのだということを、間接的に読み手は受け取るのかもしれません。
村上春樹さんの文書を読むと、いつも細かい雨の降る静かな昼の一時のような気持ちになります。日常生活の中に不思議なやすらぎを与えてくれるような気がするのです。
それでは、今回はこのあたりで。
またお会いしましょう。
<了>