反体制とは、
僕は、反-体制というのは先ず、反-自己でなければならないと思っている。つまり、自己は既にして予め、体制に組み込まれてあるものだからだ。所与のものとしての自己は、体制の内側にある。体制の外側、社会や政治の外側に、人は立つことは決してできないものだと思う。
だから、リベラルだと思っていた人たちが、時の政権や政治家の不手際、間違いを陰謀論めいたものとして隠蔽だの癒着だの忖度だのと簡単に批判したり、今だと目立った活動をしている地方自治体の首長を単なるポピュリストだといって切り捨てる態度を取っているのを見ると、とても悲しい気持ちになる。
リベラルというのは、自分自身のその判断や他者への批判をさえ疑うものではなかったのか。
フーコーの「生-権力」という概念による「権力論」、例えばマルクス主義的権力観に対する彼の根底的な批判は、そういう類いのものではなかったのか?
いや、そんな小難しいことでないのかも知れない。ただ僕はもっと適当で、人間についてどうでも良いというか。どうとでも在り得るというか。清廉潔白を求めていないというか。もちろん不正は良くないのだけど、一方で性善説的で性悪説的な、誰もが正しさを求めつつも、いい加減な存在で。政治家だって。
僕はそんな人間に、興味が尽きないのだ。だからこそ、簡単に何かひとつのことを以て誰かを断罪する気にもならないし、ある一面を以てその人物を軽々に判断することについては、警戒しているというか。そんなことは勿体ないというか。
少なくとも、僕は正義の人間ではない。たぶん、そういうことなんだけど、残念ながら世の中には自分の正義(感)を疑わず、それに酔いしれている人が多過ぎるのだ。
(という主張もある一つの正義になってしまうのかも知れない可能性は頭の片隅に入れつつ...)