小説『暁の帝〜推古天皇編〜』第一章第一節(9600字)
西暦570年。まだこの国が「日本」と呼ばれる前、「倭国」とか「大和」と呼ばれていた時代のこと。
海を渡った大陸では、高句麗、百済、新羅が熾烈な争いを繰り広げていた。三国の歴史は、その西側に広がる中国(当時は陳)の動向と合わせて、倭国にも多大な影響を及ぼした。
進んだ文化や武器を作るための鉄鋼技術など、倭国にとって大陸から得られる恩恵は大きい。一方で、自分達よりはるかに進んだ文明は、属国として支配される可能性も示していた。
当時、倭国にはまだ、国全体を統一した君主もいなければ、統治する仕組みもない。土地ごとに豪族と呼ばれる支配者が乱立している状態から、後に日本と呼ばれる国の土台が、今の奈良県飛鳥地方において誕生したところだった。
豪族たちが領地を拡大していく中で、それぞれの安定を目的に、合議制による自治機構が生まれた。そして、いつしか「大王(おおきみ)」と呼ばれる君主が選び出されるようになったのだ。
大王は豪族たちの投票によって選ばれたが、力の強い豪族が大王の座につけば、自然とその立場に固執するようになる。やがて、投票はありつつも、長男がその地位を継ぐという習わしが定着した。
しかし、大王といえども、有力な豪族を力で抑え込むほどの強い権力を持っているわけではない。大王の命令によって出兵が行われるとしても、要請を受けて実際に兵を出すのは豪族たちであり、大王はあくまで象徴的な存在だったのだ。
中央集権型の仕組みにおいて大きな権力を持つ「天皇」という存在が誕生するのは、ここから100年後の話である。
そして、この物語の主人公は、現大王、欽明(きんめい)の娘。名を額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)という。後に、倭国初の女性君主として即位、歴史上においては推古天皇と呼ばれる女性である。
推古天皇は、日本の歴代女性天皇の中では最も長寿であり、在位期間も最長となった。海外を見渡しても、女性君主というのは珍しく、当時までに数人ほどしかいない。
倭国においても、部族の長や大王は男性が当たり前であり、後継者も男が望まれた。この時代は一夫多妻が許されており、大王たちは複数の妻を娶っていた。大王の妻たちに求められたのは、後継者となる男子を産むことであり、それは一族の将来を左右する。少なくとも豪族に生まれた女性に自由恋愛などというものはなく、自分で嫁ぎ先を選ぶことはあり得なかった。そうやって個人の幸せより、家の幸せの方が優先されたのである。
いわゆる近代的な自我や自己実現的な幸せというのは、当時にはまだ無い。それははるか後の時代に、作られた概念や価値観である。とはいえ、この時代の人が、意志なく生きていたわけではない。いつの時代にも抑圧や葛藤はあり、皆懸命に生きていた。
そんな時代において、額田部はどのような思いを抱え大王になったのか?
何を成し遂げたいと思い、生きていたのか?
これは、そんな一人の女性の物語である。
***
短い夏が終わり、秋が訪れたばかりのある日、大王の暮らす宮殿から二頭の馬が飛び出していった。
先頭の馬に乗っているのは、この日、十六歳を迎えたばかりの額田部皇女(ぬかたべの ひめみこ)である。さらに額田部の後について行くのは、九つ年上の三輪逆(みわの さかう)。大王の欽明に仕える部下で、額田部にとっては兄のような存在だった。三輪は前を行く額田部に声をかける。
「馬子様の呼び出しを無視して本当に良かったのですか?」
「今は一刻も早く広姫のところに行ってあげたいの!」
「だからと言って、何も私まで巻き込まなくてもいいのに」
「あなたが一緒であれば、少しは大目に見てくれると思って」
「そうやって、利用される方はいい迷惑なのですからね。大体、馬に乗ることすら、あれほど反対されているというのに」
「今はそんな悠長なこと言ってられないの。急ぐわよ!」
額田部は男でも尻込みするような速度で馬を走らせていく。三輪は剣の腕前だけでなく、馬の扱いにおいても、宮中に並ぶものはいないほどの名手だ。その三輪に劣らない馬の扱いを見せる者などそうはいない。毎度手を焼かされる三輪だが、前を走る額田部の安定した姿勢を見るにつけ、感心せずにはいられなかった。この美しくも無鉄砲な姫が、どうか幸せになって欲しいと心の底から願う三輪だった。
額田部と三輪は10分ほどで、飛鳥川に到着した。額田部の予想通り、広姫が川のほとりにいる。額田部は馬を降りて手綱を三輪に託すと、一人川岸に歩いていき、広姫に声をかける。
ーーやっぱりここだった。
広姫は額田部の存在に気づくと、わずかに頬をゆるませたが、すぐに川の流れに視線を戻した。
いくら親友といえども、失意のどん底にいる広姫にかけられる言葉は少ない。額田部は広姫の横顔を眺めながら、静かに寄り添ってあげようと決めた。彼女は流産したばかりなのだから。
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