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感動は”あるべき世界”との重なりから生まれる?
これまでストーリー講座的を継続してきた中で、一つのゴールを「感動のメカニズムを解き明かす(感動の方程式を作る)」ことにおいていました。
「感動」という現象は、私にとって最も尊いものであり、それを簡単に言葉にしたり、理解できるはずがないと分かりつつ、探究という意味で一つの目標にしています。
フロッギーの連載に書いた「感動のしくみ」などは現時点での私の考えを言葉にしたものです。
□第6回 ストーリーで感動が生まれるとき
https://froggy.smbcnikko.co.jp/27733/
その中で、人が感動する時には、自分が抱えている内的CQ(心から求めているものや精神的に克服すべき課題)が叶ったり、克服されたりすることが多いと書いています。
そして、そのことについて、年末にふと別の角度からイメージが湧いてきたので、それを今日は書かせてもらいます。
それは「人はみな”あるべき世界”を持っていて、それと目の前の世界が重なると感動するのではないか」というイメージです。
”あるべき世界”というと、なんだか宗教的に聞こえてしまうかもしれませんが、自分が楽しそうにしていたり、幸せを感じている断片的なイメージの集合体のようなものという方が近いかもしれません。もちろん、「争いのない世界」とか「努力すると報われる世界」とか”秩序”や”真理”の話も含まれています。
そういった”あるべき世界”が常に人の無意識には存在していて(散在しているという方が正しいかもしれません)、でも一方現実は思い通りにいきませんので、普段はあまりスポットライトの当たらない”世界”としてひっそりと存在しているのだと思います。
それが、現実世界、あるいは作られた世界の中で叶ったりした瞬間を体験すると無条件に心が震え感動したり、無性に”ありがたい(有難い)”と思ったりするのではないでしょうか。
それは、”あるべき世界”というキャッチャーミットにボールが届くと周り出すメリーゴーランドのようでもあり、真冬に入るお風呂のように、ジーンと広がる幸せの場合もあります。
どちらかというと前者が予測と実測の差が激しい時の煌めきで、一方、自分で意識できていないものや、あるいは生物レベルの根源的な感動の場合は後者に近い捉え方になるような気がします。
あるいは、フロッギーの中でも書いていますが、私は「意識的興奮」と「無意識的感動」を使い分けており、メリーゴーランドの方は若干「意識的興奮」の方に寄った「感動」と言えるかもしれません。
また、最初に書いた感動の定義「まだ言語化できていない(あるいは向き合いたくなくて奥に逃している)矛盾、葛藤、抑圧みたいなものが、ストーリー中の主体(主人公)の内的成長を通じて、擬似的に自分でも解決された瞬間を「感動」と呼ぶ(”悟り”にも近いもの)」というのと、今回書いたことも基本的には同じことなのでしょう。
「答えのわからない」問題や障害に向き合い、それを乗り越えた瞬間を、「潜在的にはその答えが分かっていた」と言っているだけとも言えます。
しかし今回、そういう言葉を持ち出してきたのは、例えば「沈むゆく夕日を見て感動する」とか、そういう何気ないものへの感動とかが、私の定義では内包しづらいなあという意識があって、そこから芽生えたイメージでした。
もう一つセットで考えたいと持っているのが「感情」と「感動」の関係です。誤解を恐れず言えば、私は「感情」と「感動」を切り離すべきだと考えています。感情が極まっての感動もありますが、それは「興奮」と呼ぶべきものが多い気がしているのと、感情が極まらない感動も確かにあると思うからです。
今日は、納得のいくほどには書ききれませんでしたが、引き続き「感動」や「創造性」といった世界を、自分なりに探究できればと思っています。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。