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イーストウッドを語ろう!―テーマ別5選

はじめに

2021年9月17日。監督業50周年通算40作目にして91歳で再び主演を演じたクリント・イーストウッド監督作品「クライ・マッチョ」が本国アメリカで公開された。日本でも10月30日、東京国際映画祭のオープニング作品として上映。日本での本公開は2022年1月14日からの予定だ。

イーストウッド監督作品を多く見る方はご存じだろうが、監督作品には一貫したテーマがある。それは作品を追うごとに深められ、時代時代で観客に問いかけてくる。今回は、数あるイーストウッド監督作品から、テーマごとの1作を選んで紹介したいと思う。

1. 善と悪 「許されざる者」(1992年)

イーストウッド監督が初めてアカデミー賞監督賞に輝いた代表作。それまで監督業はどこかスター俳優の余技とみなされていたが、本作で「巨匠」の仲間入りを果たした。自ら主演も兼任し、西部劇スターのセルフイメージも、良い意味で打ち破っている。

イーストウッド監督は、その監督作で度々「人間の善悪」について触れている。「牛泥棒」(1943年)に影響を受けたというその作風は、「人間は善でも悪でもない灰色の存在」として描かれ、立場の違い、視点の違い、価値観の違いによって、物事は善にも悪にもなることを語っている。

本作でも、噂ほど悪人でない賞金首となった牧童、被害者の顔をして牧童を極悪人に仕立て殺してもらおうとする娼婦、「町を守る」という名目で来訪者から武器を奪いながら自ら暴力で町を支配する保安官、物語ほど格好良くも無ければ正義も強さもないガンマンたちと、常に善悪やイメージが反転する人物が登場する。

彼らの行為のうち、いったい何が正義で何が正しいのか、観客は自身の価値観を揺さぶられながら「善悪とは?」という割り切れない問題を考えさせられる。ジャンル映画として一定のフォーマットを持つ西部劇でこれをやっているから尚更そのメッセージが際立つ一作だ。

この「人間の善悪」というテーマは、これ以前の作品からも内在し、私の見解では「グラン・トリノ」(2008年)まで続くテーマだ。制作された時代でイーストウッドが何を思い、どのように考えを深めたかを追いながら作品を見るのも面白いだろう。

同じテーマを扱う作品として、「ホワイトハンター ブラックハート」(1990年)「パーフェクト・ワールド」(1993年)などもある。

2. 「英雄」の実像 「ハドソン川の奇跡」(2016年)

一般的に英雄的な活躍をした人物に焦点を当て、その実像に迫る作品も多く手掛けている。その性質上、近年は実話を基にした作品が多く、それがためによりリアルに観客に訴えかけるものがある。切り口としては前項の「人間の善悪」に近いものがあるが、「英雄」にフォーカスしているところに特徴がある。

本作は、2009年に実際に発生した旅客機のハドソン川不時着事故の機長、チェスリー・サレンガーバーを主役とした一連の事故とその後を描く作品。事故当初、機長は乗客乗員155名の命を救った「英雄」とされたが、事故調査委員会の調査によって、他の空港に着陸できたにもかかわらず、ほとんどの場合が死亡に至る着水を選択した「疑惑の機長」としてその責任を問われることになる。

ある視点によって全く異なる評価となってしまう点については、前項と共通するものがある。また、「英雄」とは常に正しく迷いなく堂々としているものと思われがちだが、リアルな「英雄」は常に衆目と自身との戦いであり、もろく頼りないものとしてその「実像」が描かれる。

「英雄」とは自らなるものではなく作り上げられてしまうもので、それが故に、語られることが真実とは限らず、物語によっては語られている以上に残酷であったり感動があったりもする。自分の目で見ているもの、感じているものが全てでないかもしれないということを、改めて気付かせてくれる。

同じテーマを扱う作品として、「父親たちの星条旗」(2006年)、「15時17分、パリ行き」(2017年)などもある。

3. 伝承 「グラン・トリノ」(2008年)

イーストウッド作品の中期以降、人から人へ技能や精神といったものを伝承しようとする作品がいくつもある。それは生きる知恵・良心・技能といったもので、イーストウッドが主演し、自身より若い、血のつながりの無い者に伝承するというケースが多いのが特徴だ。

本作は、隣家に引っ越してきたモン族を毛嫌いしていた主人公が、トラブルを経て次第に打ち解けていき、モン族の少年に自身の持つ経験や知恵を伝承する物語。その中には前項までの「人間の善悪」や「英雄」の実像といったテーマも含まれるが、タイトルの「グラン・トリノ」が象徴するように、そのスピリットは血族でない少年に引き継がれていくのが印象深い。

当時78歳で、同年代の俳優も引退や死没が増える中、自身も俳優業の幕引きとして選択した本作は、イーストウッド自身が体現できるこれまでのテーマの総括としての視点で見るのも面白い。ラストシーンやその後に流れるイーストウッド自身の歌声は、彼の出演作を多く見ていれば見ているほど、涙するものになるだろう。

同じテーマを扱う作品として、「センチメンタル・アドベンチャー」(1982年)「ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場」(1986年)などもある。

4. ニュートラルな視点 「硫黄島からの手紙」(2006年)

彼の出世作「ダーティハリー」(1971年)の作中で、「ハリーはイタリア人も黒人もみんな嫌っている(Harry hates everybody. limeys, micks, habes, dagos, niggers, honkis, chinks…)」という台詞がある。これはハリー一流の皮肉で、裏を返せば誰も同じ扱いをするという意味だ。イーストウッド本人も、作中において人種に対してニュートラルな視点を持っている。

本作はアメリカ映画でありながら、全編ほぼ日本語で制作されている特殊な作品だ。アメリカ人が制作した映画の日本人は、中国人と混同していたり、特徴がアメリカ流に派手に脚色されていたりというケースが多いが、本作は「日本映画」としてほぼ違和感なく視聴できる。

また、硫黄島の戦いは、太平洋戦争においてアメリカ兵の死傷者が多い激戦であり、その分日本軍を「悪」にして描くことは容易であるはずが、むしろ日本の敢闘精神を称えるかのような面もあり、イーストウッド映画によって硫黄島の戦いを知った日本人も多いだろうことは、なんとも皮肉だ。

この「ニュートラルな視点」は、前項までと一貫した「立場を変えて見てみる」ということで得られた結果と言え、つい自身が属する共同体や社会に偏りがちな観客の価値観をも、ニュートラルな状態に戻してくれる。

同じテーマを扱う作品として、「トゥルー・クライム」(1999年)「リチャード・ジュエル」(2019年)などもある。

5. 伝記 「J・エドガー」(2011年)

前項までのように、実話を基に自身が語りたいことを加味していく作品もある中、出来るだけ史実や出来事を忠実に描こうとする作品もある。これらは監督のメッセージより取り上げられる人物そのものやその背景にフォーカスする傾向が強い。

本作は半世紀近くに渡ってFBIの長官を務めたフーヴァーの経歴を描くのだが、その人物の考察がイーストウッドらしい。フーヴァーを語るとき、恐らく幾つもの描き方があるだろう。
FBIを国内の諜報活動において卓越した組織に仕立てた手腕は「偉人」とも取れるし、その「情報」を武器に恐喝まがいのことをしてFBIの確固たる地位に居続けたという点では、「独裁」という側面も見て取れる。
また、私生活では母を溺愛、さらに同性愛者であり異性装者であったという点を取り上げれば、また違った視点が生まれてくる。

イーストウッド監督はこれらを全て同質のものとして扱う。これもまた前項までのテーマと通ずるところがある、彼ならではの視点と言える。イーストウッドはこの映画のインタビューで「我々はポートレイトを描いたに過ぎない」と語っているが、まさにその通りで、そこから何を引き出し何を感じるかは観客次第ということになる。

同じテーマを扱う作品として、「バード」(1988年)「ジャージー・ボーイズ」(2014年)などもある。

おわりに

長々と語ってきたが、イーストウッド監督作品の良いところは、それぞれテーマや観客への問いかけもありつつ、それぞれジャンル映画として楽しめるところにある。正直、テーマとか投げかけられても重い…と思う方も、是非気軽に見て欲しい。

以下は比較的軽い気持ちで見ても楽しめる作品である。是非、一度視聴してもらいたい。


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