書くことの哲学

書くという行為に憧れがある。
ジャック・ケルアックは銃ではなくペンを執って革命を起こした。
怒りや悲しみ、喜び、あなたに伝えたい何か、もやもや。その他去来する無数の感情を、人はその胸の内だけには決して、抱えきれない。
そして何らかのかたちでアウトプットされていく。

クラゲは踊るし鳥は歌う。しかし書く動物は人間しかいない。
書く、つまり思考し組み立て(ときにバラし)紡ぎ出す。
では、動物は思考するか。
あの手この手で獲物を狩るとき、あるいはそれから逃げるとき、そこには駆け引きがある。果たしてこれは思考か。
いや、これは本能の蓄積プラスアルファ現場仕事のアレンジ少々。
少なくとも動物にとっては絶対的な目的を前提とした行為でしかない。

人間は、「目的は何か」と思考する。
「何のために」と思考する。

書くとは思考の経過あるいは結果。
その軌跡。

数世紀前に生きた哲学者の言葉を今を生きる人が求める。
人の思考の経過なり軌跡が時を超えた見知らぬ別の人の何かに触れる。
これは一体何なのか。
知らない人が書いたこと。勝手に考えたことなのに。

動物的本能さえあれば種は存続していけたのではないだろうか。
思考という、もはや種の存続の観点からみたら無駄とも思える特殊アビリティによって、人はその軌跡を書き遺し、受け取る後世が価値を見出している。

きっと人類は、進化の成功と勝利を確信し、暇になったのだ。
生き残るという目的の達成はもはや、毎日出てくる給食のように慣例化し、余裕ができた。余計なことを考える余裕ができた。
人生に意味などなく、ただの暇つぶしと、誰かが言っていた。

人間は考える。
幸福とは何か、時間とは何か、絶望とは何かと。

意味などない人生のさなかであるからこその寄り道。それを探求と呼ぼう。
もしかするとこれは進化への探求なのかもしれない。
もう一つ先へ、今ある認知の向こう側へ、時空の彼方へ、全人類の中の少年が思いを馳せる。
書くという行為への憧れは、あの日の少年が見た夢。





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