喜びこそが人生。
ある日電車に乗っていた僕は、窓から遠くの山を眺めていた。
山に木がたくさん生えていて、その全てが上に向かって伸びていた。
太陽は偉大だ。
坂口恭平という人は、「喜びこそが人生」と言っていた。
木にとって、太陽は喜びなのだと思う。
生命力全体で太陽を求めて伸び、広がり、その一生を全うする。
ならば自分の人生は喜びに捧げられているのだろうか。
というよりも、自分をちゃんと喜ばせてあげられているのだろうか。
では、喜びとは何か。
坂口恭平は、「喜びの根源は創造にある」と言っている。
さらに、「つくるとは、喜びが失われてるっていうことにたいしての抵抗でもある。」と。
「つくる」ということが喜びの根源。
つくりだすものは、現実の世界という外側の領域に面しながらも、媒介としての肉体の内側から発露した、自分にとってしかない本質の世界だ。
そこにこそ見たい景色があり、触れたい感触があり、どうにもならない外側をどうにかする唯一の手立てとなるのだろう。
息子二人は今日も一日中何かをつくっていた。
手を動かし続けてイメージの具現化に没頭する。
思い立ったら早いのは、それが内側からの欲求であり、どうすれば応えられるかを知っているからだ。
絵、造作、踊り、歌。
アウトプットの形は様々で、発露したものへのアプローチとして最適な方法が選択される。
もっと簡単にいうと、その時一番楽しいことを、ただやる。
楽しいうちはいつまでもやり続けるし、飽きたらやめる。気づいたら次の創造へ移行している。
それを止めるのは、いつもどこかで親の禁止や外の世界の都合である。
子供を放っておいたら、何かをつくり始めるし遊びもクリエイトし始める。
外の世界が止めさえしなければ、エネルギーが尽きない限りいつまでも続いていく。
社会に出てから今までずっと感じてきた、まとわりつくような形容しがたい生きづらさや違和感は、喜びの根源から遠ざかってしまったことと無関係ではない。
その外的要因としては資本主義の暴走による影響が最も大きいことは、ここ数年でやっと理解しようとしている今日この頃ではあるけれど、その奴隷に甘んじてしまっている現実は否定できず、まさに「喜びが失われてるっていうことにたいしての抵抗」を今すぐにでも始めなければ、いつまで経ってもこの生きづらさや、それだけでなく気候変動や戦争が止まない外側の世界の絶望を、外側のせいにしたまま生きていくことになるんじゃないか。
それはちょっと良くないなと思うからこそ、じゃあ何を、いつ、どうやってつくるのか、が重要になってくるわけだが、とりあえすこうして手を動かして、何か書いているというのが僕のささやかな抵抗の種なのである。
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