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資本主義への違和感
社会の「最大公約数」なんてない…
この世界では「ニーズがある=儲かる」。ニーズがそこにあるなら、その分野を開拓するのは面白いのかも。必要とされているけど、まだこの世に存在していない商品やサービスを生み出して生活を豊かにするのは結構なこと。おかげさまで僕らは便利な時代を生きている。とってもありがたい話。
ただ、同じ世界に生きている人間同士でも、その人の持っている視点・観点によって見え方は全然違う。人によって何に悩んで、なにを必要とするのかも違う。価値観、そして何を「正義」と考えるかも全然違う。好きな食べ物にも、美味しさにも正解はない。1人として同じ人はいない。
「需要とのいたちごっこ」が終わらんぜよ
色んな人の価値観や正義が重なる綺麗な「最大公約数」のようなものはないから、どんどん「必要なもの」が世の中に増えていく。人の欲は限りなくて、その意味ではニーズ(需要)は無限大。ただ、製品・サービスが増えることの代償だって大きい。社会がどんどん複雑になって、「ゲーム」の難易度は上がる一方。色々ともつれている中で、その困りごとを解決するにはどうすれば良いのか考えるのは大変だ。
【いたちごっこ】
遊びはきりがない。互いに同じようなことをいつまでも繰り返すだけで、決着がつかないこと。「いたちごっこの愚かしい議論」
ノーリスク・ノーリターン
この世の中の掟:「何かを得ると、何かを失う」。新しい「商品やサービス」が登場する度に、新しい「困りごと」もセットで生まれてくる。
「自由」vs「責任」
「情報が増えて選択肢が広がった」vs「情報が多すぎて収集がつかない」
「SNSの楽しさ・利便性」vs「SNS依存・いじめ」
「食品が長持ちする保存料」vs「人体の健康」
「除菌」vs「人間の免疫力低下」
「見た目の良い野菜」vs「遺伝子組み換え・廃棄」
豊かになっているのは確かだけど、悩みのレベルが高次元になっているだけで、祖父母の時代と比べると幸福度ってどうなんだろう?とふと思う。
レベルアップした悩みと葛藤 (就活アドバイザーさんの例)
例)就活アドバイザーさん
居ることで幸せになる人(学生)がいると信じてやってくれている。就活生と企業、両サイドの幸せを願ってやってくれている。でもその中でも、利益は最大化しないといけない。すなわち、学生を企業に送り込まないとお金は発生しない。でも、本質的に相手のことを思いやって寄り添うことが常に「ベストな就職先との出会い」というゴールには繋がらないような気がする。ここらへんの矛盾を抱えながら、みんな社会で働いているのかな?
「資本主義vs地球」 一体、何が一番大事なんだろう?
プラスチック、添加物、洗剤の垂れ流し。そして農薬も大問題。雨が降ったら農薬の過剰な栄養分が河川に流れ出す。農薬は「不自然」だから、生態系が崩れる。特定の栄養が増えると、特定の微生物が増える。それに応じて藻が増える。でも、微生物のバランスが悪いから、微生物全体としては減る。魚も減る。川に流れ出た農薬は、海から蒸発してまた山にも過剰な栄養が行ってしまう。回り回って災いになる。結局は、自分達自信の首を締めることになる。
どこからか、売る立場の「良心の呵責」がなくなっていない…?平然とお金を貰いながら「本質的には良くない物を提供する」はダメだと思う。資本主義レースを続けることは自爆行為だと感じる。資本主義の価値観で「成長」を追い続けていたら地球が限界を迎えると思う。地球を守らないといけない。
【良心の呵責】(りょうしんのかしゃく)
悪い事をした自分に対して、自分自身の良心からの責めや咎めを感じ、苦しむこと。
階層分けされたこの世界 「徒歩vsプライベートジェット」
この社会には綺麗に分かれた階層がある。生活レベル毎で「生きる世界」が違う。服装、食事、移動手段、住居。どれをとっても、お金というエントリーチケットを持っていないと「豪勢な世界」は見ることもなく人生を終えることになる。
【豪勢・強勢・剛勢】
ぜいたくですごいと感じさせる様子。また、勢いの強く盛んな様子。
例)「豪勢な料理」
でも、この社会の中での一般的な「優劣」の付けられ方の例の最たるものとしては「徒歩<プライベートジェット」だと思う。でも、徒歩の豊かさとプライベートジェットの豊かさは同じくらいだと思う。歩きながら、外の空気と景色を思い切り楽しむのはとても豊かな行為。プライベートジェットで、他の誰にも邪魔されずに、美味しい飲み物でも嗜みながら、最速で目的地まで到着できることもとても豊かなこと。
お金は大事だが、違和感がすごい
「お金がもっとかかっている=素晴らしくて豊か」じゃない。でも、自分を含めてそういう一般常識に頭が支配されてる気がする。お金じゃ測れない部分を大事に生きたい。親友たちに「一緒に時間を過ごしてくれてありがとう」とお金は払わない。もしかしたら感謝を込めて何かをご馳走することはあるかも知れないけど、基本的には「無償の愛」だと思う。でも、ビジネスが張り巡らされているこの社会だと、「見返りありき」のありがとうの応酬な気がしてならない。違和感。
【応酬】
①互いにやり取りすること。また、先方からしてきたことに対して、こちらからもやり返すこと。「杯の応酬が続く」「相手のやじに応酬する」
②贈られた書状や詩歌などに返事をすること。また、その返し。応答。
でも、これも捉え方次第だと思う。今は自分はこんな違和感を抱えているけど、社会に出て楽しく仕事をしている「人生の先輩」たちは、上手いこと自分の中で折り合いを付けて生きているんだろうなぁと思う。その考え方の知恵をおすそ分けしてもらいたい。
フレディー・マーキュリーの孤独
フレディマーキュリーのドキュメンタリーをみていて感じたことを思い出した。スターは孤独。たくさんお金はあっても、死に際まで人を集めてパーティーして、酒に溺れていた。そこまでいくと、なんのためにお金を稼ぐのか?「お金を稼ぐ=幸せ?」このシステム内ではそうかも知れない。人々の(自分を含めての)お金への執着は宗教的だと感じる。お金が無かった時代に戻ってみたい。お金という概念無しに過ごす毎日って、どんなものなんだろう?
最後まで読んでくださってありがとうございます!
また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋
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