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大学生のレポート:公害問題(水俣病)を環境経済学の観点から

市場の失敗:公害

公害問題の代表例である水俣病の原因は「市場の失敗」にある。この原因の解決策としては、未然防止に重点をおいた政策が望ましい。以下で「市場の失敗」と公害問題の大枠である環境問題について説明し、なぜ環境問題の未然防止が重要なのか説明する。

市場の失敗
人々や企業が利潤を最大化しようと利己主義的に行動(「見えざる手」に従って)したことで、社会的に望ましくない結果になること。
例)独占や寡占、失業や公害、貧富や格差など

Wikiより

「市場の失敗」は、環境破壊を賠償する費用が「内部化」されないまま、環境の恩恵をなんの代償もなしに使ってしまっている状態の事を指す。「環境の使用コスト」を軽視し、企業が利潤追求を続けた結果として、市場の失敗は発生する。人間に、全く環境汚染をする余地が与えられていないという訳ではない。だが、自然の持つ汚染を吸収して浄化する能力を超えて環境を汚染してしまうと大気汚染、水質汚濁などの形で環境問題になってしまう。森林伐採や漁業の収穫行為も、限度を超えると自然破壊となってしまう。

外部不経済の「内部化」
企業の生産活動などに伴う環境への悪影響への対策を積極的にとらないことで削減されている「環境コスト」を市場で売るときの価格に反映させることを「内部化する」という。

全国地球温暖化防止活動推進センター

環境問題はどこまで?

環境問題の概念はとても広く、心地よい生活のために必要な景観、町並みも含まれる。不動産で景観が評価されている京都の昔ながらの物件を保全する行為は、「アメニティ破壊」を防いでいる。快適さが維持できなくなる事から始まる環境被害も深刻になれば人の命が関わってくる。命や健康は元通りに確実に戻すことが出来ない、不可逆的で金銭的な補償が不可能な性格を有する。公害の被害によって避難を強いられれば、人との繋がり、コミュニティが破壊されることもある。こうした社会的関係性も不可逆的であり、補償で復元することは出来ない。

アメニティ(快適環境)
豊かな緑、さわやかな空気、静けさ、清らかな水辺、美しい町並み、歴史的な雰囲気など、身の回りのトータルな環境の快適さのこと。

環境被害のはじまり

また、環境被害の波及の仕方は一様ではない。社会的な弱者から順番に被害を受ける。物理的に被害の原因から離れられれば被害を受けずに済んだとしても、転居に際する金銭的余裕が条件になる。被害が起こる前からこの不均質性は存在していて、低所得者の方が環境被害のリスクが高い場所に住まなければならない傾向がある。このように、環境被害には連続的な繋がりがあるため、公害病の認定の基準を明確に設定することは極めて難しい。

資本主義

そして多くの場合、環境問題を引き起こす企業等の主体は、環境被害について触れる事を毛嫌いする。資本主義のこの世の中では、競争に負けてしまえば極端な話、生計を立てていけない。だから、コストを削減し、利潤率を高める努力が強く求められる。よって、利益追求のために労働者の安全と健康、環境保全などが犠牲になってしまう。安上がりな粗悪な原材料を使用し、公害防止を疎かにすることで利潤は確保できてしまう。

水俣病

水俣病の被害の原因は、アセトアルデヒド生産工場でのメチル水銀の垂れ流しだ。脳神経障害が、認定患者の基準を下回っている人も合わせると20万人という単位で確認された。知覚、聴力、言語障害が確認されて初めて水俣病患者として認定される。麻痺、けいれん、死亡、不妊、死産流産などの被害は無視された。妊娠した母から伝播し、生まれた瞬間から水俣病に苦しむ患者もいた。胎盤は毒を通さないと信じられていたが、その間違いがこうした形で証明されてしまった。問題は現在進行系で、存命の水俣病患者の二世への補償も課題だ。健康障害を抱える人々、補償、救済を受けられない人々が今も苦しんでいる。人間以外の被害も甚大で、魚を食べたカラスが急に空から落下したり、猫が狂死したりしている。時の流れと事態の複雑性によりもみ消され埋もれてしまっている被害がたくさんある。

熊本の工場

熊本のチッソ水俣工場は、新興企業だったから安全性が確認されていない新技術をいち早く採用していた。技術革新の競争の中で利潤拡大に夢中になって、必然的な安全性までをも無視してしまった。始めのうちは湾内で収まっていたが、汚染物質を川に流し始めて事態は悪化した。その結果、工場近辺での水銀濃度の異常値が公式発見されたが。そこから生産停止までには12年かかった。水だけでなく甲殻類からも水銀が検出されたが、対策は講じられなかった。なぜなら、規制やペナルティがなかったからだ。「企業の城下町」である水俣地域の市長は元工場長で、経済・政治的な強い影響力を持っていた。ピーク時、この地域の人口の7%は工場員で、一社が納税の全体の50%を占めていた。それは、企業の衰退が自分たちの生活への打撃になる事を意味した。被害を受けていない人からすると工場のおかげで生活が持っている側面もあったため、「水俣病患者vs被害を受けていない市民」という構図での緊張関係も存在した。これが原因で、水俣病患者があからさまに避けられたりする差別も問題となった。水俣病のせいで差別された人達の中には、親戚からも避けられた事例もあった。企業との裁判に勝訴した後でも状況は変わらなかった。差別や偏見で日常生活に息苦しさを覚え、都会に引っ越した人もいる。

企業の言い分

チッソは「世界大戦の爆薬のせいだ」などのデタラメを盾に環境規制から逃れ続けた。その上、被害の因果関係の説明責任を、立場も弱く専門的な知識を収集するための経済力もない市民に求めた。立証に時間がかかることをわかった上で企業は時間稼ぎをしようとした。

それを見かねた心ある専門家達は無報奨で調査をし、企業と戦った。人々の無知と貧困に漬け込んで、定額の見舞金で損害賠償請求権を放棄させた企業を相手取った裁判は被害者側の勝訴となった。

しかし、身体的な被害、家庭や地域での人間関係の崩壊、社会的な差別等による精神的な苦痛などの複雑で連鎖的な被害を考えれば、とても裁判での勝利だけでは釣り合いが取れない。被害者団体とチッソの間では、一時金を条件に紛争終結の協定が結ばれ、総額320億円を約一万人に一律260万円ずつ支払うことで政治的な決着がついた。

ただ、その費用負担は国の一般会計からなので、水俣病の責任は曖昧なままだ。胎児性、小児性の患者による追加訴訟も起こっている。こうした被害の補償は、県民の払う税、当件とは関係のない企業の税からも支払われた。熊本県債に留まらず、国の一般会計からも支出された。結局は、国の単位、すなわち国民にまでしわ寄せが来たのだ。間接的に、責任を問われる覚えの無い立場の人達が肩代わりを強いられた構図だ。一企業が自らの責任を果たし切れないからといって、このような事が正当化されてはならない。

未然防止の重要性

ここまでの内容を踏まえれば、未然防止対策の経済合理性は明白だ。例え、金銭的に余裕があったとしても、どこまでが被害者か言い切れないような連鎖的被害の全てに対して賠償金を払う事は不可能だ。水俣病の被害には、取り返せない性質のものが多い。

先に述べた連鎖的被害よりも、もっと単純な例で言えば、水銀を完全に海から除去することも出来ない。だからこそ、余分な補償費用を避ける意味でも、取り返しが付かなくなる前から万全の対策を期しておく必要がある。何かあってから損害費用を払うくらいなら、元から万全の対策したほうがコストは下がる。

さいごに

最近は自己肯定感が爆下がり中なので、前からずっとやりたいと思っていた今までに自分が大学で勉強したことの復習として「大学生のレポート」シリーズを続けることで、「少しでも前に進んでいる感覚」が欲しくてこんな内容のnoteを出しています。自分の中で、せっかく大学に4年間通っているんだから「賢くて知識がある人」であれたらいいなぁという理想と、留学から帰ってきてからほぼ全部今までやっていた勉強の内容が頭から抜けてしまっている自分の現実のギャップが凄すぎて、最近は結構悲しいです。高すぎるゴール設定をやめねば。。そしてこんなnoteも、細やかな「ちょっと学問っぽいことをわかってるぜアピール」なのかも知れません笑 でも内容としては高校生までの自分では考えが及ばないような内容でためになって非常に興味深いので好きです!

最後まで読んでくださってありがとうございます!また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋

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笠井康弘
僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。