モノとの出会い方・付き合い方ー消費の意味を問うてみるー
今回、京都の3大学(京都大学、京都市立芸術大学、京都工芸繊維大学)共同の社会人向け人材育成プログラムの「Kyoto Creative Assemblage」のサマープログラムが7月9日と10日に2日間開催された。テーマは、「都市と地域の再生可能性」というテーマで、なんとも私の興味関心のド真ん中のテーマであった。
また、最近視聴しているポッドキャスト「敗者のつぶやき」のコーディネーターである山内裕先生、愛読しているトランスローカルマガジン「MOMENT」を出版しているRE:PUBLICさん、最近読み始めて苦戦していた「多元世界に向けたデザイン」を監修された水野大次郎先生、アーバンデザイナーとして日々記事などを拝読しているDan hill氏など、推しの企業や研究者の方々が総動員するイベントであった。つまり、私にとっての願ってもいなかった夢のような推し活でもあった。
1つ目の記事は、テクノロジーの発展とそれらの存在を問い直すことの必要性をイヴァンイリイチの「コンヴィヴィアリティのための道具」を用いて考察した。ぜひ、今回の記事を見る前に一読していただけると幸いだ。
そして、今回は、引き続きDan氏の講演で私が気になった部分を考察も交えて綴りたい。
EV車による気候変動アクションの限界
2つ目にDan氏の講演で興味深かったのは、「EV車」についての議論であった。環境配慮や持続可能な移動手段としてEV車の普及が話題となり、世界中で開発競争が目まぐるしく勃興している。私の通学路にもEV車専用の電気スタンドが設置され、異様に静かなEV車が後ろから現れて驚くようなことも日常となり、町の様相に少しずつ変化が生まれている。確かに、EV車はガソリン車よりも発電方法に注意をすることができれば、環境に配慮した移動をすることができる。
一方で、EV車は、リチウムやコバルトなど希少金属をバッテリーに使用しているため、希少金属の採掘における児童労働問題や人権問題、過度な採掘による環境問題などの影に隠れた社会課題を多くはらんでいる。
さらに、イギリスの全自動車だけを電気自動車に変えようとしても、研究上では、現在存在するコバルトの2倍の量が必要となるため、現実的にガソリン車から電気自動車の完全なる意向は不可能であるそうだ。
このような課題が数多あるEV車産業において、Dan氏は電気自動車へのシステムチェンジよりも、車の数を適切な数まで減らし、その後にガソリン車からEV車へシステムチェンジするべきだと言及した。これは、先の記事のCedric Priceの言葉にも準ずるもので、EV車を環境問題のウルトラCとして捉えるのではなく、「そもそも車が必要な数は何台なのか、車を使わなければいけない現状をどのようにすれば減らすことができるのか、そもそも車はなぜ必要なのか」を熟考するべきだということだ。
エシカル消費、エシカル購入
この話は、一見、車産業に限った話に聞こえるかもしれない。しかし、「そもそも必要だったのか?」とそもそも論に立ち返ることは、どの業種にも共通して必要なことで、今回は近年話題の「エシカル消費」を元に考察をしてみたい。
現在、「消費は未来への一票」や「エシカル消費」という言葉を発端に、環境や社会課題に配慮した製品を消費する際の意識変革が重要視されている。しかし、ここでいう消費とは、「購入する」ことが大部分を占めているのではないかと思う。確かに、「購入」自体は、市場や産業を成長することにつながるため、エシカルな製品が普及するために重要な行動の一つである。しかし、エシカルな商品を購入することに注力し続け、一人では使いきれない量のエシカル製品を保有している人も少なくないのではないだろうか。 また、新しいEV車を購入するとしても、現在持っている環境配慮が低いと思ってしまった車の捨てた後の行方を詳細に考えられる人はどれくらいいるであろうか。
そこで、まず「購入以外のエシカル消費」を考えてみたい。
消費という言葉の意味を調べてみると、辞書的には2つの意味があるようだ。
つまり、そもそも消費には、購入する以外にも、「使う、使い果たす」ことも別途意味に含まれている。これをエシカル的に捉えると、水垢がついた電気ケトルのお手入れをする、肩掛けが破れたリュックを繕う、チェーンが壊れた自転車を修理するなどが上げられるのではないだろうか。このように使う一つをとっても、製品や状況によって色々な解釈をすることができる。この解釈の仕方を多元多様に持つことができている状態こそが、エシカルな状態なのではないと考える。
エシカル=個人の哲学がある
先ほどの章では、消費について触れたが、少し「エシカル」についても触れたい。最近、推している取り組みをされる団体「一般社団法人unisteps」の代表である鎌田安里紗さんが以下の動画内で
サステイナブルと言われるものを買うだけではなく、「なぜその商品を買うのか、どのように使うのか、またどのように捨てるのか」を自分なりに熟考し、モノとの付き合い方を構築していくことの必要性を説いていると、私は解釈している。これは、先のEV車を環境負荷の課題解決とするのではなく、EV車を含め車といかに付き合っていくのかを自分なりの仮説や哲学を持つ必要があることと捉えられるのではないだろうか。
小結
EV車やファッションを通して、今回は「消費」や「エシカル」を問い直してみた。また、前回から精通して言えるのが、テクノロジーやプロダクトはサステイナブルやエシカルの完全なる答えにはならないということだ。この商品を買えば、エシカルな・サステイナブルな生活になるのではなく、その製品を買うこと・使うことに自身なりの哲学や指針となるものが通底してあるかがより重要だと考える。
EV車を買う前に、新しいサステイナブルにこだわっている衣服を買う前に、たとえサステイナブル性が低かったとしても今持っているモノと真正面から向き合い、自身なりのモノとの付き合い方を振り返ってみても良いのではないだろうか。
(次回に続く)
P.S. 欧米のサステイナブルな取り組みを過度に賛美し、日本人はとてつもなく欧米に比べサステイナブルに遅れていると卑下される場面が多い。特に、マスメディアで多く感じる。しかし、「忘れられた日本人を開く」であれば欧米でいうコモンズ・サードプレイス、ソーシャル的精神、「分解の哲学」であれば欧米でいうリペア文化のように、英語やカタカナ語で現在必要だと言われるモノは、昔から日本にも存在している。そのため、日本的・日本らしいエシカルやサステイナブルな哲学は、欧米と少し違う形ではありつつも、私たちの暮らしのすぐそばにある。そのため、煌びやかに見えがちな”海外事例”を過度に賛美せず、逆に日本人を過度に卑下せず、日本人らしいエシカルさをこれからも模索したい。
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