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アンチ・オイディプスとは何か
やはりドゥルーズ=ガタリはどうみても懇切丁寧な説明をしていないと思う。いきなり「器官なき身体」「欲望機械」「欲望の生産性」という概念を独断的に列挙して、それらの諸概念でフロイトのオイディプスやラカンを批判していくわけだから、話が専門的だし、私のような素人が読んでも分かるわけがない。
だけど新たな概念を他人に伝えるということは、既存の概念に立つ者からの反論を想定して答える作業が必要なのではないだろうか?
この点、メイヤスーはよく頑張っている、と私は思う。
そこで、私は自分で反論しながら、ドゥルーズ=ガタリになり代わって答えてみたい。
まず既存の概念ということで「死の本能」を取り上げてみよう。
フロイトによると、人類には「死の本能」があり、それが快原理の彼岸として性的欲望の根源にあるサディズムとマゾヒズムの超越的根拠になっている。これは誰もが口外しないだけで内心では実感しているのではないだろうか。SM願望がないという人は、まあ嘘をついているか、我慢しすぎて自覚していないだけであろう。
「死の本能」が多形倒錯のSMに結びつくのは理由がある。
フロイトによると性の発展段階として、口唇期・肛門期・性器期があるが、「死の本能」は将来の死を願望することではなく、無機物への回帰、つまり誕生以前へと発展段階を逆向きに遡行する欲求だからだ。ゆえにノーマルな性器期の性交よりも、それ以前の多形倒錯に強い刺激があるのは、死の本能によるのである。ゆえにSM願望のある性的欲望には「死の本能」がある。したがって性的欲望を制約しないと破壊が全面化する。
フーコーはサド論において、四つの否定、すなわち神の否定、魂の否定、法律の否定、自然の否定により性的欲望が完全に無制約になった世界がサドの世界であると喝破している。
ドゥルーズもまた「死の本能」を快原理の超越的根拠として高く評価している。つまり精神分析が自らの超越的根拠を見いだしたというわけだ。
ところで性的欲望は食欲の自己保存欲望と異なり、抑圧しても個体が自滅しないという特徴がある。このため欲望の制約が可能であり、それが性的欲望の目標(オルガズム)と自然目的(生殖)の乖離を産み出し、文化や倒錯が成立する。
すなわちフロイトによると、性的欲望の生産性はその抑圧にある。もし法律や道徳によって性的欲望を抑圧しないならば、生産どころか破壊が全面化しサドの世界が現出するのである。
それは戦争中の占領地における暴行や拷問など、古今東西、普遍的に繰り返し生じている。フロイトはそれを人間性の堕落として非難していない。むしろ人間性への根拠のない高評価という幻想がなくなっただけだとしている。国家が殺人を推奨しているのだから、人間の性的欲望に対する道徳的・法律的制約が無効になり、その結果がサディズムの蛮行である。
ゆえに「死の本能」という概念には現実的な根拠がある。それはそうだろう、フロイトは思弁であると謙遜しているが、思弁的考察の出発点は臨床経験に基づいているからだ。
ドゥルーズ=ガタリの分からないところはここである。なぜ性的欲望が生産的であると言えるのか? なぜ抑圧をなくして性的欲望を解放することが創造性に結びつくと言えるのか?
(かれらは単に「欲望」と言っているが、性的欲望と読み換えた方が意味が明瞭になる。自己保存欲望の食欲を解放してもデブになるだけだ。文化的に意味があり、抑圧から解放されるべき欲望は性的欲望である。)
反復における「死の本能」を重視するドゥルーズが、制約なき性的欲望の生産性を主張するのは矛盾そのものではないだろうか?
性的欲望が無制約になれば暴行拷問による破壊しかない。それはフーコーがサド論で的確に論証していることであるし、歴史的事実でもある。
この疑問に真正面から答えない限り、ドゥルーズの解説者達は「器官なき身体」や「欲望機械」をいくら独特のジャルゴンで説明しても、自分たちは分かっているのかもしれないが、説明にはなっていない。
私見では、ドゥルーズはまずマゾッホ論と「アンチ・オイディプス」との関係を説明すべきだったと思う。これは両者を読み比べて、初めて見えてくることだ。蓮實重彦がマゾッホ論に着目したのは故なきことではない。
つまりドゥルーズは「死の本能」という既存の概念を作り換えたのだ。
それが出発点である。
「死の本能」を既存の概念とする限り、無制約の性的欲望に生産性などあるわけがない。
これはドゥルーズのマゾッホ論を読めば見えてくることだが、「死の本能」には単なる破壊衝動だけでなく、破壊と創造の二面性があるとしている。その創造の面を肯定したのがマゾッホなのだ。ただし創造といっても死であるから、死からの再生という意味での創造だ。
そういう意味でドゥルーズの捉えた「死の本能」には単なる破壊衝動だけでなく自己調節的な連結機能がある。
だから欲望がアレンジメントになるのだ。ドゥルーズがアーべーセーというDVDで述べていたように、女性がブランド服を欲望するのは、ブランド服それ自体ではなく、職場や日常生活や他人との関係など周囲の環境と欲望が連結しているからだ。
フロイトやフーコーの「死の本能」は自己完結的であるため、単なる破壊衝動としてしか現働化しない。
だがドゥルーズの「死の本能」は周囲の環境や人間と連結するのである。
それが現働化したものがマゾッホの描いた文学的マゾヒズムであり、サドの自己完結的世界とはまったく異なる世界である。
そこにおいては破壊衝動は直接的に解放されるのでもなく、法律や道徳によって抑圧されるのでもない。
つまり抑圧を外圧として耐え忍ぶのではなく、抑圧を戯画化して楽しむのである。支配ではなく契約によって主従関係を新たに形成するのである。それも戦前は契約主体から排除された女性との契約であるから戯画化である。既存の法体制を虚仮にしているのだ。
フロイト的マゾヒストは拷問死を至上の快楽とするが、マゾッホのマゾヒストは死んでも死なないヤツだ。非力な女性に安全に鞭打たれて、拷問死をファンタジーにすることで新たな自己を発見するのである。
つまりドゥルーズはマゾッホ論において「死の本能」を根拠とする性的欲望にも、自己調節による再生という創造性があるという仮説を打ち出したのである。それをさらに理論的に仕上げたのが「アンチ・オイディプス」だ。
その関連を踏まえると、新奇な諸概念の意味が見えてくる。
「器官なき身体」とは、口は食べる器官、肛門は排泄する器官と性道徳によって指定されることなく、抑圧による目的を持つ器官を排除した身体だ。
「欲望する機械」とは、欲望が破壊だけでなく、周囲の環境や人間と連結する自己調節機能を備えた機械という意味である。だからそれは欲望のアレンジメントと密接な関係がある。
世間的には「アンチ・オイディプス」はドラッグなどによる「解放」を唆したと言われているが、以上の観点からみると、抑圧からの欲望の解放はマゾッホの描く文学的マゾヒズムによってのみ可能になるのではいか、と私は思う。
なぜなら性的欲望を抑圧から解放するといっても、本当に解放したら暴行拷問になるでしょ。だから抑圧を戯画化して抑圧から距離をとるしか他に方法はない。ドゥルーズによるとそれは欲望自体に内在している機能であり、自己完結することなく他と連結しようとする欲望の姿なのだ。
まあ、私自身はいまだにマゾッホや谷崎潤一郎の言っていることが、快楽として実感できないのであるが、少なくとも理解はしたい。それは私自身がサドと同様、自己完結的であるからだと自覚している。
そういえば、ドゥルーズはフーコー宛書簡の中で、「ミシェルがサディストでぼくがマゾヒストなら面白いかもしれない」などと軽口を叩いていたが、やはりフーコーの欲望概念との違いを感じていたようだ。