見出し画像

005 「狂気の歴史」(フーコー著・田村俶訳)を読む

第1部第5章 気違いたち
 この章でフーコーは古典主義時代における狂気経験の複雑で矛盾した様相を明らかにしている。話は入り組んでいるが、すべての哲学を疑問符に叩き込むだけの迫力があるので、丁寧に見ていくことにしよう。
 モンテーニュやエラスムスなどが経験した狂気の批判的形象は、一見すると理性から狂気を排除していないように見える。なぜなら、モンテーニュは天才的頭脳の持主である友人が狂人施設に監禁されているのを見て、自分も狂人かもしれないと思うのであるし、エラスムスによれば神から見ると人間理性は狂気だからである。
 つまり狂気の悲劇的形象(ボッシュ、デューラーなど)は理性に対して威嚇的なのだが、批判的形象は威嚇的ではない。すると理性が狂気に陥らないようにするには、意志の問題ということになる。つまり真理を意志するのが理性であり、狂気とは真理への意志を放棄した怠惰な精神ということになる。だから狂気が倫理的性格を帯びるようになるのだ。
 確かにそう言われれば、哲学は抽象的な論理を動機もなく探求しているのではなく、その根底には真理への意志がある。大陸合理論もドイツ観念論も非常に意志的な哲学である。
 つまり哲学者が真理の探究のみに従事するという倫理的決意は、一見、世俗を超脱した高邁な決断のように見えるが、そのことによって逆に狂人を怠惰な精神として、倫理的に非難しうる主体に陥れてしまう結果になる。
 そうだ、この「決意」は哲学の至る所で語られている。デカルトの方法的懐疑が唯一のものではない。スピノザもそうである。その「決意」が哲学する動機を構成していると言えるであろう。
 確かにスピノザは『知性改善論』で不断最高の喜びを永遠に享受できるものを探究する決意を述べているが、『エチカ』ではすべてが必然であり自由意志を否定しているように見える。フーコーによれば、スピノザの必然は、自由の否定ではなく完成であると捉えている。そこはもっと奥が深いんだけど、フーコーは立ち止まる。哲学としてスピノザを解釈するつもりはなく、哲学者の「決意」を歴史上の実定性として捉えれば充分だからだ。
 そしてフーコーは、その「決意」こそが狂気の倫理的評価を可能にしたのであり、狂人の監禁と無関係ではないと指摘している。哲学者の真理への決意が、真理への意志を放棄したがゆえに道徳的非難の対象となる狂人を生み出したのである。
 
 そして狂気が非理性領域の中に紛れ込んで混然一体となっているのは、非理性に対する倫理的非難を狂気も共有しているからである。古典主義時代の理性が狂気の識別について鈍感だったからではない。
 だが他方、非理性の中で狂気も独特な相貌をもっているとフーコーは指摘している。それは公開と動物性である。
 非理性とは放蕩、躁暴、淫乱などであるが、それらは家族内のスキャンダルとして秘匿される傾向にある。監禁制度とは刑事罰ではく、家族の申請に基づいて国王が勅許する行政制度であったらしい。つまり司法裁判として公開せず、秘匿するために監禁するというわけである。ところが狂人は監禁施設において定期的に見世物として公開されていたという。これは他の非理性とは異なる扱いである。
 フーコーはこれについて、狂気は非理性と区別されていたのではなく、非理性のスキャンダルのすべてを負っていたこと、さらに他の非理性に残存していた人間性が全面的に喪失したため、動物と同様の扱いを受けたためだとしている。
 したがって古典主義時代の狂気経験は倫理的性格を帯びると同時に、人間性喪失として動物のように苛酷に扱われるという背反する二面性があることになる。
 フーコーによると狂気の実証主義的把握は、この動物的自然となった狂気に起源があるとしている。ということは科学的世界観の「自然」さえも万古不易の客観的対象ではないということだ。

 何をゴチャゴチャ言っておるのだ、とお叱りを受けそうではあるが、この「分散」した感じこそがフーコーである。小綺麗にまとめているのではない。本書自体が非理性の塊のようなもので、それはフーコーが昔であれば、非理性的愛とされた同性愛者であること、つまり古典主義時代ならば監禁される側にいることと無関係ではないだろう。
 読んでいるうちに何故オレはこれに付き合っているのかという疑問が叢雲のように湧いてくるのだが、分析力というか識別力が格段にアップするのは確かである。気づかなかったことに気づくのである。
 ただその識別力は人間のものというより、動物的な感じがする。まあ、何であるにせよ、力能が拡大することはポジティブで喜ばしいことだ。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?