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知りえない物語の断片

夜風に当たろうと、街を散歩していると、料理のいい香りがしたり、テレビを見ている家族の談笑が聴こえたりと、さまざまな音や匂いが飛び込んでくる。
夜は視覚情報が少なくなり、嗅覚や聴覚が鋭くなるのだろうか。

夜の街の様々な匂いの中で、お風呂からと思われる香りが意外に多いことに気づく。嗅ごうと思って嗅ぐのではなく、ふと鼻に届くくらいの一瞬の香りである。
この誰のか分からないシャンプーか、ボディーソープの香りに、何とも言えない、刹那的な哀愁を感じるのだ。
一歩間違えると変態に扱われてしまいそうだが、髪を洗っているのが老若男女、誰かは知らないし重要ではない。

お風呂に関する思い出があるから心惹かれるのか…心当たりはない。
先日、またこのお風呂からの香りが鼻に届いた。
そのまま歩き続けているうちに、その哀愁の正体が、ふと分かったような気がしたのだ。
自分と並行した時間に、顔も名前も分からない誰か、一日を終えて髪を洗っている。そこに他人の生活があって、その生活は、自分が決して知りえない、広がりをもった一つの世界。自分自身の一生は、その世界を知ることなく終わる。
それに対する哀愁なのかもしれないと思ったのだ。

でも、そんなことは当たり前だ。
親交を結ばない限り、他者の生活を垣間見ることなどまず無い。
もし、とても親密な関係だったとしても、お風呂の様子など窺い知る機会なんて余程でないと有りえない。

旅先の街で夕暮れに感じる哀愁も、これと似ているかもしれない。
マンションや家の明かりひとつひとつに、誰かの生活がある。
自分自身が一生を通して決して住むことのない街があることや、知らない土地に、知らない誰かの生活、知らない人生があること。そこには誰かの感覚を伴った人生があり、世界がある。

そういう、知る由もない「当たり前」の存在への不思議。
あるのは知っているのに、決して知ることのできない不思議な感覚。

自らが関わりえない他人の人生という広がりは、自らが関わりえない遥か彼方の星や銀河を見たり、その途方もない時間を想像するのと似た感覚がある。街ですれ違うのは、遥か彼方にある銀河の数々と同じ。

一生知ることがない物語が無数にあって、その存在の断片がそこら中にあふれている。彼らの人生という物語の断片が、今日も五感にその存在を知らせてくる。

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