灯りを望む丘
つまらない事で喧嘩をしてしまった。
本当につまらない理由。
奈津が真吾の悪口を言っていた。
真吾は太っていてリレーでは足手まといだって。
真吾は太っているけど、いつも優しくて友達想いのいいやつなのに。
私は奈津に歩み寄り言葉より先に手を出してしまった。
反射的に。
右肩を強く押された奈津は虚を突かれた表情をしたが、すぐに眉間に皺を寄せて私を睨みつけてきた。
「冗談じゃない。どうして手を出すの」
私は言葉より先に手を出した事を後悔したが、互いに逆上した世界に従うしかなかった。
「いや、今のは冗談じゃないでしょ。私には分かる。奈津のそういう声のトーン。本心で言ってる時のやつ」
「ハァ?馬鹿じゃない⁉︎未可子だっていっつも真吾に言ってるじゃない。どうして私だけ!」
奈津が私の右肩を強く押しのけた。
いままでの奈津から感じた事のない力がじーんと肩に乗っかって離れようとしない。
多分、お互いに使った事のない汚い言葉を発して、出したこのない力を使って掴みあっていた。
喧嘩ってこんなにも悲しいものなんだ、とその時は分からなかったけれど、先生たちに止められて、あちこちがじんじんと痛み出して涙が溢れている事に気がついた。
先生たちはいつも仲良くしている女子が喧嘩したものだから、しきりに理由を知りたがった。
しかし、二人とも確かな理由は分からないでいた。
保健室に連れて行かれる最中、少し離れたところで群生を成している生徒の中にいる真吾を見つけた。
今まで見たことがない悲しい表情をしていた。
その横に立っていた輝は真吾の表情を見て「大丈夫だ」と言って優しく肩を二回とんとんとした。
この二人は喧嘩なんてしないだろうなと、とぼとぼと歩きながら思った。
中学に入学して初めての体育祭だった。
小学校から面々はほとんど変わらず、特に新鮮さはなかったけれど、やっぱり楽しみな行事には変わりなかった。
小学生の頃は無かった競技やクラス別の催し物があったりした。
普段なら余り感じない闘争心が皆から感じられて、なんだか今日だけは非現実的だと思った。
奈津か言った言葉もその闘争心が言わせてしまったものなんだな、と気がついたけれど、私が出した手はどうしたら説明がつくのか分からなかった。
二人とも喧嘩をした事は初めてで、仲裁が入った後の仲直りの仕方も分からなかった。
先生たちは半ば強引に私たちに仲直りの握手をさせた。
奈津の手はとても熱かった。
私は悲しくなった。
「落ち着いたら戻っておいで」
と言い先生たちは保健室を出て行った。
外からは音量調節を間違ったスピーカーの割れた音に混じって生徒たちの声が聞こえた。
奈津は隣で俯いたままだった。
私は小さくごめんと言った。
奈津はうんと言った。
でも、と言って続けた。
「どうして手を出したの。いつも言ってるじゃん。悪口じゃないやつ…未可子だって…言ってるじゃん。太ってるって…」
奈津の少し震えた声に私は胸をギュッと掴まれたように感じた。
「ごめん。よく分からない。でも、嫌な感じがした」
「本心で言ってるってやつ?そんなトーンだって…」
「うん」
「そんな本心だなんて…思ってなかったよ?どうしてそう思ったの…」
奈津は下を向いていた。
「ごめん」
なぜそんな事を言ったのか分からない私は謝るしか無かった。
「もういい…」
そう呟いて奈津は保健室から出て行った。
楽しみであったはずの行事が酷く霞んで面倒になった。
中途半端に晴れた天気にも腹が立った。
外からは相変わらず音割れした音楽が流れており、私だけ全くの蚊帳の外だな、と感じてとても虚しい気持ちになった。
保健室には三台の寝台があった。
真っ白なシーツが皺なく敷かれていた。
私は椅子から立ち上がって寝台のそばに立った。
右手をシーツに押し付けてグッと握ってみた。
シーツは思ったより硬くきっちり敷かれていて思ったようにならなかった。
何度かやってみたけれど、シュッシュッと短く音を立てるだけで、依然として皺は出来なかった。
私はどうでもよくなって寝台に横たわった。
「私だけ…私だけ…」
秋の気候に飲み込まれるように私は眠ってしまった。
眼を覚ますと間仕切りの薄緑のカーテンが映ったので、ここが保健室でしかも眠ってしまっていたことに気がついた。
時間を確認しようと身体を起こすと、隣から「大丈夫か」と低い声がしたので、ビクっとした。
「おい、そんなにビビるなよ」
輝は少し微笑みながら椅子に座っていた。
輝の声にはまだ慣れない。
小学生から中学生になる間に声変わりをしたようで、同じクラスで話しかけられた時に自分のイメージとかけ離れていて輝の声だと理解出来なかったことを思い出した。
日頃から良く話すけれど未だに慣れないでいる。
「ごめん、輝」
私は輝に何時かと聞くと、今は12時半でお昼休憩だという。
「真吾が心配してたぞ」
「そう…ごめん。奈津は?」
「奈津はいつも通りだよ。いくつか競技にも出てたし」
「そっか」
「お前のあんな姿見るの初めてだった」
輝は窓辺に目を向けて外の風景を眺めて言った。
「そうだよね…喧嘩なんて」
「いや、そうじゃないよ。手を出した事だよ。いつも楽しそうにしている二人が取っ組み合いの喧嘩をしてた」
私は寝台の縁に移動して腰をかけた。
ごめん、と言うと俺に言うなよ、と輝が返した。
「奈津は仲直りしたって言っていつもの奈津戻ってたよ。真吾は…」
少し間があった。
「真吾は自分のせいじゃないかって心配してたよ。真吾だよなやっぱり」
真吾は何を言われても何をされても怒っているところを見たことがなかった。
真吾にデブというと
「デブには全てを無効化する力がある!」
「デブと言った人間をデブにする力を俺は持っている!」
と謎の力を行使してくるから、周りはいつも笑いに溢れている。
その姿を見て私や奈津は笑う。
何故だか分からないけれど涙が出るほど笑ってしまう。
「奈津も意図して言った訳ではないだろうが、未可子がそう思った理由は分からなくもないよ」
「そう思ったって?」
輝はうーん、と唸り少しして繋げた。
「太っているとかデブとか真吾からすれば、全部単語でしかないけれど、何かに役に立つかどうかって人間の部分だろ?俺はそこだけは引っかかるな。未可子も多分そうだと思う」
「うん」
「だから、奈津にはそういったんだ。そしたら、ちょっと睨まれた」
輝は衒いなく笑った。
「そんなつもりないって?」
「うん。難しいよな、言葉って。文字と言葉の違いって本当にその一部分だけの違いだもんな。未可子だって手を出すつもりなかったんだろ?」
私が答えあぐねていると
「そんなつもりなかったって、多分誰もが分かってるよ。未可子は優しいから。それはみんな分かってる。でも、してしまったんだよな。なんでだろうな。俺だってムカっとすることはたくさんあるし、手を出しそうな事も結構ある。それでも手を出さないのは喧嘩にその状況を解決する術がないって分かってるからかもな」
輝は私の眼を見て言った。
輝は小学生の頃に酷い喧嘩をして学校でも問題になった事があった。
下校途中だった輝は真吾と二人で帰路についていた。
竹藪が多い通学路で住宅地まで一本道であったが、少し逸れると広い空間があって、小学生の中では秘密基地と呼ばれて良く遊び場として道草したりした。
その日、脇道のあたりから数人の声がした。
二人は気になって脇道を通り秘密基地へ向かった。
秘密基地では数人と一人の対峙があった。
明らかに普通ではなかった。
一人方はシャツやズボンに土汚れがついており、膝には血が滲んで痛々しい姿だった。
「何してんだ」
真吾に聞くと、その時の輝は今までに見たことのない表情で、声も今に近い低い声だったという。
少し言い合いがあった後、そこでは誰にも止められない闘争が繰り広げられていた。
暴力とは無縁だと思っていた輝がここまで怒りに任せて喧嘩している姿に真吾は何をするも無く、ただ見ている事しか出来なかった。
膝に血を滲ませた一人と真吾は訳もなく涙を流していた。
騒ぎを聞きつけた大人が学校に通報してこの件は治った。
喧嘩をした人間は暫く謹慎になって学校を休んだ。
真吾は当時の状況を先生たちに説明しなければと思ったが、上手く説明する事が出来なかった。
もう一人も「わかりません」と言って泣いていた。
数日後、輝は今まで通り学校にやって来た。
クラスの中には「ヤバい奴」だとか「番長」だとか揶揄するものもいたが、輝は何一つ態度を表に出さなかった。
輝はカバンを自分の席に置くと真吾の元に行き
「ごめんな、真吾…ごめんな、ほんとうに」
と言って優しく微笑んだ。
真吾は少し怖くなった。
外見はそのままだが、明らかに中身が変わっていると感じたからだった。
感情の一部を心の奥底に隠してしまったような仄暗い感覚が輝のあの笑みから伺えた。
「大丈夫」
真吾は一言だけ呟いた。
その瞬間以外はいつも通りの輝だった。
以降、輝は暴力や悪口といった他人を傷つける行為をする事はなくなった。
「だからさ、いつもの未可子でいようぜ。真吾だって奈津だって、いつもの未可子が好きなんだから」
私は泣きたくなる気持ちを抑えるので必死でそれに答える事が出来なかったが、昼休憩が終わるチャイムの音がその均衡を解いてくれた。
「ありがとう。奈津にしっかり謝るよ」
「よしよし。それでこそ未可子!しょげてるお前は未可子じゃないぞ!」
と勢い任せに言って、私の頭をとんとんとした。
行くぞ、と言って先を歩く輝の背中がやけに大きく見えた。
中学生になって体型も男の子から男子って感じになって。
「ちょっと、待ってよ」
私の足取りは軽くて空回りしそうだった。
リレーは私たちのクラスが5組中4位だった。
真吾は一生懸命だったけれど、たくさん追い抜かれた。
他クラスの男子が「おっせぇ」と笑っていたが、輝は「真吾!頑張れ!」と誰よりも大きな声で応援していた。
私もそれに続いて「真吾ー!ファイトー!」と叫んだ。
グラウンドの対面に待機していた輝が私に向けて親指を立てて合図を送っているのが見えた。
走り終えた真吾は膝に手をついて、夏場の犬のように短い呼吸を続けていた。
「真吾、ナイスだったよ」
奈津が真吾に声をかけていた。
ありがとう、と途切れながら言って真吾は地面に座り込んだ。
私は声をかけそびれてしまった。
奈津と真吾の間にはいつもの空気感があるのに私と真吾の間には色の違った空気感を感じた。
その間に奈津がいたからだけれど、声をかけられない自分に腹が立った。
輝が仲を取り持ってくれたのに、自分から距離を置いている不甲斐なさが惨めに思えた。
体育祭は大盛り上がりで閉会した。
が、私にとって悪い意味で思い出に残る体育祭になった。
帰路は自然と一人になった。
奈津とも短く言葉を交わしたが結局は最後まで「ごめん」の一言が言えなかった。
保健室で言ったものではない、しっかりと奈津の眼を見て言う「ごめん」がどうしても。
喧嘩の後に見た真吾の表情が頭の中をぐるぐると回って離れなかった。
奈津は輝と話しながら教室を出て行った。
間際に私の方に手で「またな」と合図をした。
永遠に謝るチャンスが無くなってしまうように感じた。
クラスのみんなが続々と教室から居なくなっていった。
やがて、私と真吾だけになった。
「ミカ、帰ろうよ」
「うん」
重い腰を上げて二人で帰路についた。
真吾は私のことをミカと呼んだ。
理由は分からない。
その時々によって理由が違った。
「奈津が二文字だからミカ」だとか「同じ学年にミカコが3人もいるからミカ」だとか。
「奈津から何か聞いた?」
何気なく真吾に聞いてみた。
「ううん、何も。輝も何も行ってなかったよ。ただ、大丈夫だから心配はするなよって」
「そう」
とぼとぼとした歩調が意図せず真吾と重なって変に同調していた。
「あのね、ミカ」
なに?と言って真吾の方を向いた。
「今日の夜さ、時間ある?」
「あるけど…何かするの?」
「内緒!内緒なんだよー!」
と愉快に語尾なんかを伸ばしたりして言った。
「ねぇ、なにするの?」
「夜にさ、真っ暗の中、あの丘に行く。その先は秘密!」
真吾が指した指の先には小さな丘があった。
小さくて見えないけれど、よく幼稚園児の頃に遠足で行ったところであると分かった。
「ミカも行けば分かるって」
伝えたことに満足して真吾は軽快にスキップしてみせたけれど、数歩で普通の歩幅になった。
「いててて」
「真吾も痩せれば思いっきり走ったりできるのに」
そう言うと、真吾は声色を変えて言った。
「分かってないな、ミカは!ミカも普通の体型でいられるのはこの僕が太っているからに他ならない!皆が太らないように僕が
世界からエネルギーを吸収し続けているのさ!」
真吾が太ったお腹をポンポンと鳴らしながら歩く姿が馬鹿馬鹿しくて笑った。
私のその顔を見て
「そうそう、ミカはそういう表情が一番似合ってるんだよ」
と言って、同じように笑った。
そうしていると、真吾の家の前に着いた。
「それじゃあ、今晩19時ね。丘まで自転車で行けるから」
バイバイ、と小さく手を振って真吾は家に入って行った。
同じ町内だから私の家はすぐそばにあった。
夜にあの丘に行ったことはなかったが、一体何をするのだろう。
あと、誰か来るのか聞きそびれしまった。
「まぁ、いっかぁ」
と呟いて自宅に向かった。
秋にふさわしい風が髪を優しくほどいた。
落ち込んでいた気持ちも不思議と分からないまでになっていた。
「え!今から行くの?危ないじゃない!」
という母の声が聞こえて来そうだったので輝の家で皆んなでご飯を食べる事にして家を出た。
日が落ちて西陽がやけに影を引き延ばして自転車がお隣さんのジープの様になった。
その上をまたがる私は異様に縦長なネッシーみたいになった。
丘の麓に差し掛かるあたりでジープもネッシーも居なくなった。
少し急な斜面ではあるが、勢いよく漕ぐと意外にも自転車でも進めることが出来た。
幼稚園児の頃はこんなところを自転車で登るなんて考えたこともなかったな、と思った。
数回、うねうねと坂道を翻って丘に辿り着く頃には凄く身体が熱くなってハンドルを握る手の中は汗で濡れていた。
久々に来ると意外と高かったことに気がついた。
街灯がちらほらと灯されて家々から漏れる光がボワっと宙に浮かぶように見えた。
帰宅時間に差し掛かり道路では赤いランプを点灯させた車が右往左往していた。
自分の家はどこかと探していると、後ろから声が近づいてきた。
「未可子が一番乗りか」
西日に照らされて朱色の輝が手を振った。
私も少しだけ手を振った。
「幼稚園の頃ではこんな景色見てなかったよな」
「そうだね」
しばらく当て所なく眼を景色に泳がせていると、奈津と真吾のがやって来た。
この四人が集まるのは何となく分かっていたけれど、今日は何だかんだ気恥ずかし気持ちになった。
どうしてだか分からない、と思いたい気持ちもあるけれど、本当は自分でも分かっていた。
素直になれない私が一歩踏み出す私を押さえつけているような、そんな気持ちが身体の奥底から熱を生み出しているのがよく分かった。
「未可子…」
奈津が小さくそう言って対峙を拒むように西の山に沈んで行く太陽を静かに眺めた。
夕方が夜に変わる瞬間が悉く美しく感じた。
私以外の三人も多分そうだ。
四人並んでもう眩しくない太陽を山の向こう側に消えていくのを静かに待った。
山際の太陽は生き物のようにみるみる内に山にめり込んで行った。
朱色が消えると夜は突然やって来た。
音も静かに感じて、さほど強くもない風の音が耳に触れた。
誰が何を言うも無く、ただ今日という日のこの夜を静かに堪能した。
先程とはまるで違う景色があった。
家々の灯りは煌々として存在感を示していたし、車のテールランプも赤々として主張していた。
闇の中の光は私には少し眩し過ぎたかもしれないな、と思った。
そこまでの高台ではないから展望台から見る夜景とは質の異なるものだけれど、所在が分かる光は私には痛いという感覚をもたらした。
物理的な痛さではない、心の悲鳴。
今の私は闇の中を歩いているようなものだ。
奈津に向かって、訳もわからず手を出してしまう私が光なわけがない。
痛い…
心が…
「私も…私も痛かった…未可子に押されたからじゃないよ。未可子に強く掴まれたからじゃない。私も痛かった…心が…」
「どうして…分かるの?」
私が夜景に視界を奪われているうちに、口から抑え切れない気持ちが溢れ出していたのだろうか。
「未可子…」
輝がハンカチを手渡してくれた。
「ミカは優しい。優しいから自分を苦しめてしまう。僕はそんな言葉一つで挫けたりしないけれど、ミカは僕を気にかけてくれたから奈津に当たってしまったんだよね。僕の気持ちをミカ自身の優しさが追い越してしまったんだ。本当に勝手だよミカは」
真吾の口調はとても穏やかで冬の風なら流されてしまいそうだった。
「未可子、私もあの時ビックリして…あんなことになったけれど…後で考えてみたらさ…他の学年の知らない人たちの前で…真吾を馬鹿にしたのが許せなかったのかなって…」
奈津も涙声になって、だけどしっかりと言葉にして話してくれた。
「ごめんね…奈津。真吾も…ごめんね。輝も…ごめんね。自分でもよく分からないの…何であんなことしたのか…」
私は素直な気持ちになろうとすればするほど、自分が何を言ったら想いが伝わるのか分からなくなった。
だけれど、みんなは相槌をうちながら聞いてくれた。
「私にとってね…みんなは光みたなもの。私を見つけ出してくれた光なんだよ。いつも見つけられるばっかりで…私は根が暗くて怖がりだからいつも闇だと思ってた。何をするにも…みんなの影であるような存在で。でも、私は…あの時、奈津が闇に飲み込まれるように思ったの…真吾を引き連れて…こっちの闇に。それはダメだって…そう思ったけれど…正しい方法が分からなくて」
私はそれ以上言葉を続けられなかった。
「それは違うぞ、未可子」
輝が静かに言った。
「どうして、俺たちが光なんだ?どうして、未可子が闇なんだ?俺は未可子を闇だと思った事は一度もない。むしろ光だと思っていた。闇があるとするならば、それは未可子の優しさだよ。未可子は優しい。そんなことはここにいるみんなが知っている。他人には優しく、自分には厳しくってあるだろ?俺は違うと思ってる。自分に優しく出来ない人間に他人に優しく接することなんて出来ない。甘やかすだとか、そういったものは優しさとは呼ばない。未可子は俺たちには優しくしてくれる。翻って未可子自身にはどうだろうな」
自分自身に対する優しさ…
私が分からないでいると、輝が続けた。
「未可子には自分を認める優しさはあっただろうか」
自分を認める優しさ…
私はみんなから認めてもらう事が嬉しくて、だからみんなを認めて友達になった。
だけれど、そこには相手と自分の認識しかなく、自分の自分に対しての認識がない、そういう事だろうか。
「自分を認めるのはある意味で簡単かもしれない。でも、実際のところ理解するのはとても難しいよな。俺もあの日から自分に対して何かを認めて今の自分になった。他人に優しくなったし、自分を認める事が出来るようになった。真吾が言う、優しさが追い越したというのは、多分未可子自身の闇を無視してしまったという事だと、俺は思う。その闇は俺たちにとっても、未可子にとっても大切なものだ。もうわかるな。
誰だって闇は持っているものだ。それを光で消そうとしてはいけない。闇がなければ光は存在を認識する事が出来ない。自分の闇に対して優しくしなくてはならない」
私は胸につっかえていたものがすっぽりと無くなり、秋の冷えた空気がみるみる流れこんでくるような感覚を覚えた。
それは何物にも変えがたい私としての認識であり、大切な友達の存在であった。
「輝の話は難しい…でも、私だって闇があると思う。未可子が感じたあの時の雰囲気はきっとその闇。闇は表に出すものではなくて認めてもらうものなんだよね…」
奈津は鼻をすすりながらゆっくりした口調で言った。
「ほら、二人とも握手な」
真吾はそう言いながら右手で涙を拭った。
お互いに向き合って、ごめんね、と言い、また、ごめんね、と言った。
奈津の手はとても熱かった。
私は嬉しかった。
多分、私の手もとても熱い。
互いの体温が互いの闇に火を灯すように。
八つの瞳に夜景が反射した。
キラキラとしていて、展望台から見る夜景より美しいに違いなかった。
街の灯りからは決して望む事が出来ない或る丘の物語。