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短編小説《北郷結威とダークネスナイト》

 僕は、空白を食む。
 空白の時間は、僕にとって酒の肴だ。

 心に留めていても虚しさしか湧いてこない。そんな空白なんて食べてしまえばいい。
 ムシャムシャ食べて、食べ尽くして、美味しい酒で一気に流してしまえばいい。
 
 この街の夜の闇は、それをすべて許してくれる。
 余計なことは言わず、無条件で僕を包み込んでくれる。
 
 この闇は、『彼』だ。
 
 *
 
 石巻の夜が好きだ。街明かりはキラキラと輝き、今夜も夜空をぼんやりと紅色に染め上げる。シャンプーや香水を混ぜ合わせたような独特の甘ったるい匂いが、マンションのベランダで腰掛ける僕の鼻腔をくすぐる。
 
 ボーッと見上げる夜空には、三日月と金星が接近して浮かんでいた。いつか『彼』と見た夜空もそうだった。
 
「三日月と金星のランデヴーだな」
 
 あの時、『彼』──北郷さんはそう言って、残りわずかのスミノフを一気に飲み干した。
 
 *
 
 北郷さんとの出会いは突然だった。
 
 20歳での大学進学。秋田の田舎町から宮城の港町へ引っ越してきた僕は、初めてのひとり暮らしで戸惑っていた。引っ込み思案な僕は大学にも馴染めず、友達も作れない。友達はおろか、知り合いすらいない。
 そもそも、独りぼっちなのは秋田にいた時からだ。
 学校ではいつもいじめにあっていた。それを家族に相談しても、お前が弱いから悪いんだと一蹴される。
 ようやくそこから逃げ出して、新しい生活を始めようと思ったのにこの始末。
 やっぱり僕は弱いのだろうか。心が空っぽになって、胸がギュッと苦しくなる。空白だらけの僕の日々。毎日何が楽しいのか、次第にわからなくなっていった。
 
 朝が来て、光を浴びることが、億劫になっていった。
  
 ある日の夜、僕は駅前まで散歩に出かけた。夜風が気持ち良い、初夏の夜のことだった。
 秋田の田舎では、みんな僕のことを知っているから、歩いているだけでもすぐに噂が広まる。他に話題もないから、知ってる誰かの噂話をするしかないのだろう。
 でも、この街で僕のことを知っている人は誰もいない。みんなが自分の時間を生きているから、いちいち他人を気にしたりしない。
 独りぼっちではあるものの、ここへ来たことによって、ある意味僕は自由になれたのではないかと思った。
 
 そう思うと、この街の夜の闇もどこか愛おしく感じた。
 
「闇に包まれた街は楽しいか?」
 人影まばらな駅前のバスロータリー。バス停のベンチに腰掛けた男性が僕に話しかけてきた。40代ぐらいだろうか。黒のスーツを着た、彫りの深いワイルドな顔立ちの人だった。
 初めて会うその人から、僕は何故か目が離せなかった。彼からは、この街の夜の闇に似た『何か』を感じたのだ。
「楽しいです」
 僕が迷いなく答えると、彼は満足そうに微笑んだ。
「1杯やんねぇか?」
 ベンチの隣をポンポンと叩いて、彼は僕をそこに座るよう促す。僕は躊躇いもなくそこへ座る。
「ほらよ」
 彼が僕に差し出したのは、1本の瓶。赤と白のラベルが特徴的で、『SMIRNOFF』と書かれている。
「まあ、飲め」
 彼も同じ瓶を取り出し、カシュッとキャップを回す。僕もそれに続く。キャップを回すその音が夜の闇に響き、耳に心地良い。
「じゃ、乾杯」
 彼はそう言って僕に瓶を向ける。
「乾杯、です」
 僕も同じく、持っていた瓶を彼の方に向けた。
 その後軽く一礼し、僕はその酒を一口飲んだ。口の中で弾ける炭酸。甘みのあるレモンの香りが、爽やかに、でも優しく、鼻を抜けていく。
「美味ぇよな。俺、好きなんだよ」
 足を組みながら右手に瓶を持ち、彼は言う。初めて飲んだけど、これは僕も好きな味だ。
「北郷結威」
「えっ?」
「北郷結威。俺の名前だよ。『ユイ』っていうけど女じゃねぇぞ」
 彼はそう言ってまた瓶を傾けた。
「名前もですけど、苗字も珍しいですよね。『ホクゴウ』さんって初めて聞きました」
 僕は言う。
「ああ、それはよく言われるな。元々こっちの人間じゃねーんだよ、俺」
「そうなんですか」
「ま、なんやかんやあってここに辿り着いた、って感じかな。生きてりゃいろいろあんだろ」
 北郷さんはまた一口飲んだ後、少し乱暴に頭を搔いた。怒ってるのかな、と思ったけどそれは取り越し苦労だったようだ。顔を上げた北郷さんは笑みを浮かべていた。
「だから、嫌なことも、面白ぇことも、全部ひっくるめて閉じ込めるんだよ。この街の夜の闇の中にな」 
「閉じ込める?」
「ああ。この街の闇は全部受け止めてくれる。騒がし過ぎず、静か過ぎない……。俺には、そんな夜が心地良くてたまんねぇんだよ」
 北郷さんは無邪気に笑った。さながら、何か楽しいことを見つけた少年のようだった。
「お前は、どうだ?」
 その笑みのまま、僕に尋ねてくる北郷さん。
「僕も……そう思います」
 つられて、僕も自然と笑みがこぼれていた。
「僕もいろいろあって……だけど、この闇は僕を包み込んでくれてるみたいで……心地良いんです」
 さっき感じた、この街の夜の闇の愛おしさ。それはきっと、僕の気のせいなんかじゃない。
「ハハッ、同じだな」
 また無邪気に笑う北郷さん。
「光だけが正しいわけじゃねぇ。求めてた正解は、闇の中にあるかもしれねぇんだよ」
「求めてた、正解……」
「この街の夜の闇は、それを教えてくれる」
 そう言うと、北郷さんは夜空を仰いだ。僕もそれに続く。
 ちょっと狭い夜空は、街の明かりでぼんやりと紅色に染め上げられていた。遠くで、三日月と金星が隣り合っているのが見える。
「三日月と金星のランデヴーだな」
 北郷さんはそう言って、残りわずかのスミノフを一気に飲み干した。
「ふたりして、どんなこと話してるんでしょうね」
 僕もそう言って、残り3分の1のスミノフを一気に飲み干した。

「ありがとよ。付き合ってくれて」
 北郷さんはそう言って立ち上がった。
「いえ。この街に来てから、誰かとこんなに話すことがなかったので……僕、楽しかったです」
 僕は思わず、本当のことを言った。優しい闇の中、その闇に惹かれた者同士語り合うことがとても新鮮で楽しかった。
「……そうか」
 フッと北郷さんが微笑む。
「そういえば、お前の名前を聞いてなかったな」
「僕の名前、ですか」
「ああ。教えてくれよ」
 この街の夜の闇のように、優しい笑みを向ける北郷さん。僕はまた自然と笑顔になり、その名を口にした。
 
「北村、美冴希です」
 
「ミサキ……いい名前だな」
 闇の遠くで、ウミネコの鳴く声が聞こえた。
「また一緒に飲もうな」
 北郷さんはそう言うと、まだ明けることのない街の闇の中に溶けていった。
 
 *
 
 僕は、空白を食む。
 今までの日々を、貪り尽くす。
 
 虚しさしかない空白を食べ尽くせば、そこにはきっと、夜の闇がやって来る。
 その温かさを胸に抱いたまま、さらに僕は美味しい酒で心を満たす。

 乾杯の相手は、『彼』だ。
 
 *
 
 あれ以来、北郷さんに会えていない。
 ……いや、もしかしたら会っているのかもしれない。
 
 この街に夜が来て、僕の心が優しい闇に包まれる瞬間、北郷さんはそこにいるのかもしれない。
 
 今夜もまたベランダに腰掛けて、この街の夜の甘ったるい空気を吸い込む。
 僕の右手に握られているのは、あの瓶だ。そのキャップを捻ると、カシュッと心地良い音が響く。
 
「乾杯、です」
 僕は瓶を夜空に掲げる。
 
「今夜の闇も気持ち良いですね……北郷さん」
 紅色に染まった夜空を見上げながらそう呟き、僕はぬるくなったスミノフを一気に喉へ流し込んだ。
 
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 最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
 
 このお話は、私の実体験もちょっと入っています。
 大学進学で秋田を離れ、宮城へ。
 知らない土地でたったひとり……心細い日が続きました。
 
 でも、突然の出会いがあったんです。
 私が道に迷っているところに声をかけて助けてくれた『とある人』との出会いです。

 その人と会った日の夜の闇は、空っぽだった私の心を包み込んでくれているようでした。
 
 あれから10年。
 今ならお酒で乾杯も出来ます。
 
 世の中が落ち着いたらもう一度あの街へ行って、心地良い夜の闇に包まれながら、美味しいお酒が飲みたいです。
 
 優しい夜空に向かって、今日も『乾杯』。
 
 2020.8.9(Sun)
 北祓夜筝

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