信頼という愛情表現。親が子供に残せるもの。
親が子供に残せるもの。それは、将来子供が自分の子供時代を振り返った時に「自分はしっかりと親から愛された」という記憶ではないかと思う。
親からしっかり愛されたという記憶が子供の自信を育む。
その自信というのは、過去の成功体験といった実績に裏打ちされたものではなく、結果を残せるか分からない新たな世界に飛び込む際のベースになる「根拠のない自信」。
最近、そんなことをふと考えるようになった。
歳を重ねても、
- 新しいことをしてみたい
- 根拠も保証もないけれど、何となく自分には出来そうな気がする
- どこに住んでも、どんな人とでも何となくやっていけそうな気がする
- だからこの先も人生きっと何とかなる
こんな風に考えられるのは、きっとぼくが小さい頃親からしっかりと愛されたからなんだろうと思う。
「親から愛されたから自分は大丈夫だ」という明確な認識というよりは、「このような考え方が出来るのは、きっと親から愛されて育ったからだろう」と気付く。
ある時にふと、「この根拠のない自信はきっと親から無条件に愛されてきたからだ」と、後から振り返って気づく。
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30過ぎで自分にも子供が出来、娘との日常を過ごす中、その日常が娘の将来に何を残すのだろうと考えてた。
親が子供に残せるもの。
養育。
栄養のある食事を共にし、毎日清潔な服を着させ、乾いた布団でゆっくり寝かせる。習い事を含め、娘がしたいことをさせてあげる。そんな生活に必要な経済力を確保する。
それはぼくにとってはあまりにも当たり前で自明のこと。
安心。
家庭が娘にとって安心の場であって欲しい。外でヤな事があっても、家に帰ってきて過ごす時間が彼女を回復させる、少なくとも家でだけは好きに自分を表現できる、そんな場であって欲しい。
だから、ぼくはいわゆる「しつけ」というものをあまりしない。偏見にまみれた親の狭い視野、狭い価値観を押し付けたところでそれが娘の将来に役立つのかは分からない。
愛情。
愛情を与えるとはどんな事だろう。子供にとってはどういうものを愛情と感じるのだろうか。
「厳しいしつけも親の愛情」なんて言い方があるけれど、ぼくにはそう思えない。それは「愛情」ではなく、親の「世間体」や「エゴ」だと思っていて、
しつけというのは社会の成り立ちや身に付けるべき習慣を辛抱強く丁寧に言葉で伝え続けていく事。
子供が言うことを聞くかどうか、親の言いつけを守るかどうかではないと思う。
信頼。
愛情とは信頼のことなんだと思う。他の誰が何を言おうが、どう評価しようが、子供の可能性を見つめ続ける。
その可能性が形になって花開くことを応援し続ける。見守り続ける。そんな信頼のことを愛情と呼ぶ。
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最近、娘の大好きな習い事が再開した。
何年か先に始めた周りの子供たちに追いつこうと一生懸命に練習に励んでいた矢先の外出自粛、活動休止。再開。
でもね、きっと大丈夫。すぐに追いつくよ。それだけ楽しんでやってるんだし、その姿に大きな可能性がくっきりと見えてるから。
だから大丈夫。
親から愛されて育ったぼくが言ってんだから、間違いないよ。この根拠のない自信には、「親に愛された」という確かな根拠があるんだから。
だから大丈夫。
そのまま育ってくれたら、それだけで大丈夫。
信頼という愛情を、ささやかに表現していきたい。
愛されたという記憶。
信頼されたという記憶。
親が子供に残せるのはそれだけだと思う。