目的のない豊かな世界
最近、小学生の娘との間で定番になった遊びがある。近所の知らない道を自転車でただひたすら「散歩」する。これだけだ。しかし、これが結構面白い。ルールは簡単。Google mapを閉じて、何も目的を持たず、知らない道だけを行く。
辿り着いた先ですることも特にない。ひたすら「散歩」をして、気になった場所で自転車を止め、その風景を観察する。家から5キロ程度の範囲内、「知っているはず」の近所に自分たちの知らない風景がいかに溢れているか、名もなき風景の中にいかに堪能すべき魅力が詰まっているか。毎回の気付きがある。
「お父さん、今日はほんまに知らん道だけを行くんやからな」。
以前、知らない道ばかりを選んだつもりが、辿り着いた先が過去に娘と行ったことのある由緒ある神社だった、ということがある。今回はそのようなことがないよう、念押ししてきたのだ。
その時の神社の参道には、見事なグラデーションに彩られた落ち葉が落ちていて、その色合いは言葉で表現できない深みと時間経過のもたらす豊かさをシンプルに表現していた。その落ち葉にくっついて離れないカタツムリが、「足元」の多様性を教えてくれた気がして僕は静かな感銘を受けたのだけれど、娘にとっては日々目の前を猛烈な勢いで駆け抜けていく豊かな一瞬の一コマに過ぎないのだろう。
でも、そんな豊かな瞬間の積み重ねが娘に人間的な厚みを与えてくれるのだ。だから今日も目的のない自転車の「散歩」に出掛ける。
家を出て、これまで通ったことのない細い道を慎重に選んで進んでいく。普段、車で通る道からは目にすることも意識することもない、細い農道や曲がりくねった道を選んでいく。
稲刈りが終わった田んぼの切り株には、稲刈り後の株から緑色に再生してくる二番穂が豊かに実り、横の畑ではキャベツやブロッコリーが元気よく分厚い葉っぱを付け始めている。納屋に吊るして干された玉葱の束、その鼻を突く香りは僕が子供時代を過ごした田舎の原風景を想起させ、ここにはまだまだ僕の知っている自然の風景が残っていることに安心感を覚えた。
家を出て30分ほど走ったところで、大音量で鳴く鳥たちの声が聞こえてきた。耳を澄ますと、どうやら5種類から6種類程度の鳥が鳴いている。少し進むとそこは手付かずの原生林のような場所であり、神社の境内の一部だった。鳥の鳴き声はそこから聞こえていた。
人影のない神社の境内。端っこに自転車を止め、社殿を参拝しようと歩き出すと背後から、「お父さん、ちゃんとお辞儀してへんやろ」という娘の声。振り向くと、自転車を止めた場所からわざわざ入口の鳥居の外まで引き返して丁寧にお辞儀をしてから鳥居をくぐろうとする娘の姿。あれ、こんなの教えたかな。僕も鳥居まで引き返して、娘にもう一度付き合ってもらい2人でお辞儀をして鳥居をくぐり直した。
社殿を参拝し、鳥の声が聞こえる林に進んでいくと、1.5m四方くらいの小さな祠がいくつか並んでいる。そのうちの一つ、学問の神様、菅原道真を祀った小さな祠の屋根の下にセミの抜け殻がくっついているのを娘が発見した。
予想以上に沢山あるので数えてみると、なんと小さな祠一つに実に40個ものセミの抜け殻がくっついていた。知らない道を経て偶然辿り着いた先の神社の境内、その中にある小さな小さな祠の屋根の下で、この夏に40匹ものセミたちが土の中から頑張って這い上がり、人知れずこの場所で成虫になって新たな世界に飛び立ったのだ。
なんだかすごいもの見れて良かったねと話しながら、さらに自転車を進めて行く。家からそう遠くは離れていない場所に、まだまだ知らない道があるもんだと感心しながら進んでいくと、また別の神社に出会った。
今度は鳥居の手前で自転車を止め、僕が率先して鳥居の手前でお辞儀をする。「おっ!えらいやん」と娘の声。これじゃどっちが親か分からない。
鳥居をくぐってすぐの足元に「百度石」があった。何か祈りごとがある時に昔の人は百回神社を尋ねてお祈りすればその願いが叶うと信じられていたこと、ただ本当に百回通うのは大変だから一回の参拝でもその場で百回お祈りをすれば願いは叶うと信じられている、という百度石にまつわる話を簡単に説明した。真剣に耳を傾ける娘。何度か小さく頷く姿から、その意味を理解したようだ。
「じゃあ、百回お祈りしたら、おばあちゃんの脚が良くなるかな」
娘の発した言葉に驚いた。百度石の説明に、娘の頭に真っ先に浮かんだのは、脚を悪くして5年ほど経つ義母の姿だったのだ。今では家の周りの日常生活を送るのが精一杯という状態。小学生時代の僕ならきっと「自分の習い事が上達しますように」といった程度の祈り事を思い浮かべたはずだ。
義母を思い遣る娘の優しい心に僕は本当に満たされた気持ちになって、その温もりのある他人への意識がこの子の人生を幸せにすると一人頷いた。
娘のまっすぐな気持ちを形にしようと一緒に百度参り。
「小石を百個集めて祈った回数だけ百度石の前に置いていこう」とは言ったものの、綺麗にならされた神社の境内には基本的に砂利のような細かい石しかない。それでも少しでも大きな「小石」を集めようと神社の境内を懸命に探索する娘。何とか小石をかき集めて丁寧に百度、お祈りをした。
「義母の脚が良くなりますように」。
そして、「この先も娘に幸せな人生が待っていますように」。
百度のお祈りを終えて、その場で義母にLINEで報告した。小学生でも読めるように平仮名で、すぐにお礼の返信があった。本当に嬉しい、これで脚も良くなるから一緒に遊びにいこう、と。
こんなに温もりのこもった時間、なかなか立ち会えないなと思った。
僕らの世界には、目的を持つことで見えなくなるものがある。目的ばかりを意識することで見失うものがある。「右」や「左」、「上」や「下」、「0」や「1」ではなく、その間にこそ無限の多様性やグラデーションがあり、それを支える生命力があるということ。
僕らはしばしば目的だけを追いかけて、目的地に「ちゃんと」「早く」辿り着くために生きてしまう。その前提から得られる情報の多くはおそらく贅肉のようなものであり、生きる上で根本的に必要な栄養を得ることなく、大切な時間や場所をいとも簡単に通り過ぎてしまう。
目の前にある何でもない時間経過がもたらす豊かさ、足元にある何でもない風景が見せてくれる豊かさ。それは目的を持たない世界において、言葉では安直に切り取ることのできない厚みと奥行きを持って僕らの目の前に姿を現す。目的を持たないことで初めてその存在に気づく。
神社の小さな祠の屋根の下で人知れず成虫となり新たな世界へ飛び立った40匹のセミたち。小さな体の中で、しっかりと優しい心を育てていた娘の姿。
目的を持たない世界の、豊かな広がりを見た気がした。