曖昧さの中に生きる。海外ビジネスの現場から思うこと。
責任の所在。これは誰の責任か。誰の権限で物事を進めるのか。
海外で、特に欧米のお客さんを相手に仕事をしていると、この手の議論に頻繁に出くわします。
1年半ほど前、仕事でタイに張り付いてました。場所はタイですが、お客さんは欧米人。この大型プロジェクトの最終清算が、先日漸く完了したところ。
海外の方の仕事の進め方というのは、「考え方」というレベルを超えて、「思想」そのものが違うなと思わされることが頻繁にあります。
1. 責任のありかを明確にする。
欧米人の組織というのは、仕事を進める上での責任の所在が非常に明確です。中から見ても外から見ても非常に分かりやすい。
20代から30代前半にヨーロッパに駐在していた時、欧米人の部下を何人か自分で面接して雇った経験があるのですが、実際に雇う際には「job description」なるものを作成して、そこに書いてある仕事範囲だけをやってもらいます。
そこからはみ出た仕事は基本的にしてくれませんし(雇用条件=給料に含まれないという理屈)、ぼくがその人の上司であることを明確にうたって、上司の指示でのみ仕事をする。その線引きを明確にするんですね。
タイの仕事でも、お客さん個々人の役割と責任は非常に明確になっていて、お客さんAさんとBさんの各責任範囲は外から見ていても非常にクリア。
その代わり、Aさんの責任範囲を完了して、次にBさんの責任範囲へと仕事が移行していく場合、Aさんの責任範囲の仕事がきっちり完了していることを全て書類に残していく必要がある。
ぼくらの立場からすると、自分たちの納めた設備の安全性、健全性、品質といったものをとにかく書類にすることを求められる。
設計でいえば、設計開始段階での大きな計画(思想)があって、それを詳細に図面に落とし込み、規格に沿っていることを順番に系統立てて書類で示す。
お客さんからコメントがついた場合には、そのコメントが解消されていることをまた書類で残す。そして書類の出来栄え、論理性も非常に細かく見られます。
はっきり言って面倒くさい作業だし、めちゃくちゃ手間もかかりますが、いざ事故や不具合があった場合に、「誰の責任か?」が非常にはっきりするわけです。
お客さんの立場からすると、そういう書類の積み重ねがないと、後々自分の責任が問われるかもしれない。最悪は事故の責任を取らされて、その損害に関して所属先から訴えられるかもしれない。
そういうやり方が良いかどうかは別にして、責任の所在をとにかく明確にする。そういうクリアな世界です。
2. 日本の曖昧さ。
一方の日本企業。この辺りの「責任の所在」は非常に曖昧です。
一応の組織表らしきものはどこの企業にもあるものの、中で何が起こっているかというと、実際には直属の上司ではない人間が指示をしてきたり、直接関係のない部署がコメントしてきたり。
あるいは、「顧問」や「相談役」といった、責任範囲と役割が最初から曖昧な人たちも存在します。
また、上記に述べたような「厳格に書類を積み重ねていく」といった発想も希薄。特に、「論理的な書類体系」といったものがあまり綺麗な形でまとまってないという印象です。
と、ここでは何も欧米式が良くて日本式が良くない、と言いたいわけではありません。
例えば、日本式でやった方が「役割云々なんて言わず多数の人をかけてとにかく目の前の工程を縮める」みたいな人海戦術には有効だし、
「あ・うん」のコミュニケーションで書類の積み重ねがなくてもスーッと仕事が流れていきます(少なくとも同僚が日本人だけの場合は、ですが)。
一方で欧米式では、とにかく安全や品質を大量の書類で確認していく、万が一事故があった際の責任所在を明確にしておく。
これが優先されるためどうしても時間がかかります。工程は二の次、三の次になる。
これはもう、文化や思想というレベルでの差異だし、どっちが良い悪いの話ではないと思っています。
何を優先するのかという価値観の違い。世界には色んな仕事のやり方がある。そう思っています。
3. 曖昧さの中に生きる。
日本の曖昧さ。ぼくは結構好きなんですね。
人は本来、曖昧な存在だと思っているから。そんなにきっちり線引きの出来る存在ではないと思うから。
そして、曖昧さの中からしか生まれないものがあると思うからです。
「絆」や「繋がり」といった言葉に象徴されるものは、ごちゃっとしたグレーで曖昧な中にこそ存在するんじゃないかな。
誰の責任か?というクールで厳格な世界からは生まれてこないんじゃないかな。そんな世界の先には結局「戦い」しかないんじゃないかな。
曖昧さを許容する。
曖昧さの中に生きる。
そんな寛容な態度と心持ちが世界を平和にする、って実は真剣に思ってたりします。