大直禰子神社(名古屋市中区)
僕が大直禰子神社を初詣の最初にしたのは個人的な事情であり、ありきたりな理由でもあり、運命だと思っている。
オオタタネコという人物については名前だけは知っていたというくらいの知識レベルで、奈良県桜井市にある大神神社の初代神主ということと、古史古伝の『秀真伝』の撰録者ということしか知らなかった。これではあんまりだということで、少し調べてみた。
オオタタネコという人物は男性で、『古事記』では意富多多泥古命、『日本書紀』では大田田根子、『秀真伝』ではウタタネコと表記されている。古事記によると意富多多泥古命は「容姿端正しくありき」ということで、歴史書にわざわざ記されるくらいだからさぞかしイケメンだったのだろう。
崇神天皇の御世に疫病が流行して民の半数以上が死んでしまうという厄災があった。民が逃散したり反逆するようになり、国を治めるのが難しくなった。
天皇は神浅茅原(桜井市茅原)で倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼のモデル? 箸墓古墳)に神憑りをさせると大物主神が降りてきて、吾を敬い祀れば国は安定し、平和になると言われた。
大物主のお告げを得た天皇は斎戒沐浴し、殿内を浄めてお祈りをしたが、なかなか国は良くならなかった。すると夢のお告げで大物主神より大田田根子に私を祀らせよと命じられた。
そう命じられたのはいいけれど、天皇は大田田根子がどこの誰なのかまるでわからなかった。早速、使者を四方に送って探させると、茅渟県陶邑(大阪府の泉北丘陵一帯)で見つかった。イケメン陶芸家だったのかな?
崇神天皇に「お前は一体誰の子か」と尋ねられた大田田根子は「父を大物主大神、母を活玉依姫といいます」と答えた。
この問答は日本書紀によるもので、古事記にはもう少し細かく書かれていて、建甕槌命の子だと記されている。新撰姓氏録には大物主五世孫と書かれている。
天皇は大田田根子を祭主として、御諸山(=三輪山)に意富美和之大神(=大物主神)を祀らせると、ようやく天下静謐になった。
僕が初詣に行った大直禰子神社の祭神の大田田根子という人はこういった経歴の人だった。かなり端折って説明文を書いてしまったが、ここに書けなかった面白い話もたくさんあった。日本書紀って、実際に読んでみると面白い。
こんな風に大田田根子を調べていると、不思議な縁を感じる。
大神神社には10回以上は参拝しているし、三輪山にも登ったことがある。この辺りに魅せられて、移住を考えたこともあった。それは結局叶わなかったが、今は大直禰子神社や三輪神社にも縁ができた。
大直禰子神社は江戸時代までは「おからねこ」と呼ばれる猫の神社だったらしい。僕が参拝した時に猫が本殿の中で丸くなっていた。本当にここは猫の神社なのかもしれないと思った。