近現代文化の諸問題 第3回 文明開化の功罪~夏目漱石「現代日本の開化」
日本近代の出発はおよそ黒船や明治維新から始まるということで間違いありませんが、その文明開化路線に方向性が決定づけられるのは、「明治六年の政変」以降と考えられます。つまり西郷隆盛の維新精神から大久保利通の「富国強兵」路線への大きな転換がここで行われたわけです。
明治10年の西南戦争をはじめとする、士族の反乱は、そうした新政府の文明開化路線への最後の抵抗という見方もできます。
その綱引き関係は、その後の自由民権運動を経て、明治末期の日露戦後の条約改正まで続きます。
中でもその中間地点にあたる、明治22年の大日本帝国憲法発布は、アジア初の明文憲法とあいまって、日本の近代化路線の重要な転機ともいえます。
第1回でも触れた通り、日露戦後の明治末期、西暦でいうと二十世紀初頭頃が、およそ日本近代の一通りの完成と見ていいでしょう。明治の45年間は、まさにこの近代化の成立過程と符合します。
いずれにせよ、近代日本はいつから出発したのか。これまで前提と思っていたことを一度は疑い、別の視点から斬り込むことで、新たな世界が見えてきたのはないでしょうか。
文学・思想界では、「文明開化」を言論界から進めていった人物としては、まず福澤諭吉の名前が挙げられます。
周知の通り、福澤諭吉は新政府からの要請を断り、在野の言論人として、日本人の「啓蒙」に努めた人物です。中でも『文明論之概略』は、日本が欧米列強に伍して生き抜くために「野蛮」から「半開」そして「文明」へと至る道筋を示しております。
さて、文学者として今回取り上げるのは、明治の文豪・夏目漱石です。福澤諭吉の1万円札と並んで、野口英世の前の千円札の肖像だったことを、記憶にある人も多いと思います。
漱石については、あまりにも有名なので、改めてその経歴を詳しく取り上げるまでもないかもしれませんが、まずはその概要を振り返ってみたいと思います。
漱石は藤村よりも5歳年長にあたります。慶応3年1月5日、西暦でいうと1867年ですから、江戸時代最後の年に生まれたことになります。
因みに漱石の年齢は、明治の年数とほぼ一致するので、経歴を確認するときにも便利です。
その漱石は、十四歳で二松学舎に入学し漢文学を学び、16歳で成人学舎で英文学を学んでいます。今で言う中高生ぐらいの年齢で、東洋の漢文と西洋の英文、両方学んでいたわけですね。
とりわけ英語ができた漱石は、大学予備門で英文学を選び、第一高校本科では、あの俳人・正岡子規と出会います。
子規は漱石同様、漢詩の趣味があり、かつ落語にも親しんでいました。
憲法が発布された明治22年に帝国大学の英文科に進み、26年に大学院に進学。同年、東京師範学校の講師となります。
結核により約1年間の療養の後、愛媛県の松山中学に赴任。その教師時代の想い出が、かの名作『坊ちゃん』につながります。
何よりも松山時代、学生時代の親友だった正岡子規と再会したことが、日本近代文学史上、画期的な出来事でした。
漱石にとって、子規は俳句の先生でもあり、この「漱石」の筆名も子規の数ある雅号から譲り受けたものです。
松山の愚陀仏庵という下宿先で、二人は約2ヶ月ほどの共同生活を行います。この時のわずか55日間が、子規は俳句、漱石は小説として、近代における「日本語」の誕生を生み出します。
時あたかも日清戦争の年、子規は従軍記者となるため、東京に上京、間もなく漱石も松山から熊本の第五高等学校に赴任します。あの小泉八雲の後任の英語教師としてでした。熊本では、後に妻として『漱石の思ひ出』を著した鏡子夫人と結婚します。
漱石がイギリスに留学するのは明治33年のことでした。その間、正岡子規が脊髄カリエスにより、30半ばの若さで亡くなるのでした。
帰国後の明治36年、漱石は東京で第一高等学校講師となり、帝大や明治大学の講師も兼任します。
そして、日露戦争が終結する明治38年、あの『吾輩は猫である』を、俳誌『ホトトギス』に連載。
この俳誌は友人・子規が遺してくれた俳句雑誌ですが、そこから高濱虚子などの俳人たちも輩出されます。同誌には、翌年『坊ちゃん』や『野分』なども発表しています。
そして明治40年、漱石にまたも人生の転機が訪れます。長年の教壇生活から離れ、朝日新聞社に入社するのです。
朝日新聞といっても当時は今の大新聞というほどではありませんでしたが、漱石は記者というわけではなく、同紙で長篇小説を連載。職業作家としての道を歩むことになるわけです。
そこから『文鳥』や『夢十夜』などの短編、そして前期三部作の第1作となる『三四郎』が生まれます。
特に『三四郎』『それから』『門』の3作品は、青春文学でもあるので、学生のうちに読んでおきたい名作です。
その後、漱石の闘病生活も始まり、明治末期まで、胃潰瘍に苦しみ、入院や療養などを繰り返します。
とりわけ『門』の執筆中だった明治43年の修善寺温泉での大患は、一時は危篤状態に陥るなど、漱石としては最も苦しんだ時期でした。
その間、明治44年には、文部省からの文学博士号授与を辞退しています。
朝日新聞主催の講演旅行は、そうした療養期間に催されたものでした。
作家としての復帰作は、大正3年(1912)の『こゝろ』です。教科書に載るほどの名作なので、お読みになった方も多いと思いますが、この小説は「先生の手紙」に仮託して、自分が生きてきた明治時代の終焉を総括する―そういった遺書的な側面をもった作品でした。
翌年、漱石にとって自伝小説ともいうべき『道草』を朝日新聞に連載。芥川龍之介や久米正雄といった門下生に出会うのもこの時期です。
そして大正5年、作家・漱石にとっては未完の大作となった『明暗』を同紙に連載。その年暮れの12月9日に、49歳で亡くなります。
さて、ここまで漱石の生涯を概観してきましたが、如何だったでしょうか。
我々がよく知る職業作家としての夏目漱石は、実は30代の終わりから40代末にかけての10年程度だったことに、改めて驚かされる人もいるかもしれません。しかしながら、このたった10年の間に、今日まで読み継がれるような名作を数多く遺しているわけです。
それまでの漱石は、英語教師であり、かつ研究者としては英文学者でもありました。
様々な一面をもつ漱石ですが、今回、紹介したいのは、〝文明批評家〟としての夏目漱石像です。
漱石の文明批評は、実は小説作品にも現れています。あの前期三部作の第2作にあたる『それから』です。
『それから』には、長井代助という「高等遊民」―すなわちいい年しながらも働くことを軽視し、読書や思索にふけるという、今でいう「ニート」や「引きこもり」にあたる主人公が登場します。
え?、明治の頃に「ニート」がいたの?…と思われる方もいるかもしれませんが、まさに日露戦後の日本は、昭和で言うと高度成長期にあたります。(第1回の柄谷行人の歴史反復説を想い出してください。)
物が豊かになっていくと同時に、こうして働かなくても家に資産さえあれば、好き放題生きていける青年たちが登場しはじめるのです。
漱石の弟子にあたる、阿部次郎や和辻哲郎といった大正世代の知識人も、まさにその世代にあたるわけです。
長井代助は、どうして働かないのか。作者漱石は、登場人物を通して次のようにいわしめています。
「何故なぜ働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働らかないのだ。第一、日本程借金を拵(こしら)へて、貧乏震ひをしてゐる国はありやしない。此借金が君、何時(いつ)になつたら返せると思ふか。そりや外債位は返せるだらう。けれども、それ許(ばか)りが借金ぢやありやしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。」
長井大助という人物はまさにこの台詞に言い尽くされるものでしょう。
「働かない」自分を正当化しつつ、その原因をその当時の日本の現状に求めていく。
ここには、かつて黒船来航に脅えた嘗てのアジアの小国の姿はありません。
日清・日露での2つの戦争の勝利によって、日本は安政以来の不平等条約を、漸く改正するに到ったからです。
(教科書にも登場する「領事裁判権の認可」と「関税自主権の不所持」ですが、この2つに拘束されることによって、日本は半世紀以上の間、半分〝植民地〟同様の地位にあったといえます。)
しかも、日露戦争に辛うじて勝利したとはいえ、犠牲者は陸海軍総数8万5千人に及び、賠償金は不獲得。その不満から、日比谷焼き討ち事件が起きたことはよく知られていると思います。
幸い戦後の高度成長期は、そうした犠牲者は出すことはありませんでしたが、戦争以来の負債を抱えながらも、急激に一等国に進んでいくという明治末期の日本は、なんとも昭和の「右肩上がり」の時代に酷似しております。
さて、本題の夏目漱石の文明論に移ります。
以下に引用するのは、漱石が療養のさなかの明治44年に、和歌山県で行った講演の一部です。
「現代日本の開化」という題目で、明治日本が文明開化路線に舵を切ってから、既に40年もの歳月を経ていることも念頭に置く必要があります。
本来ならば、もっと長文なのですが、その一部をダイジェストで紹介したいと思います。
「開化」とは、まさに今でいう「文明開化」のこと、漱石はそのさなかの人物ですが、その「開化」に「消極的に活力を節約しようとする動き」と、「積極的に刺戟を求める面」の2つを求めています(①)。
その中で、例えば明治期の数十年の間に、市街の移動手段は人力車から自動車へと移り変わりました。現在のモータリゼーションの始まりです。さて、このように確実に労力が節約された時代となりましたが、果たして、人間の苦痛は減ったのでしょうか(②)。
そこで、漱石は西洋の「内発的開化」に対し、日本の「外発的開化」という問題提起を行います(③)。
周知の通り、西洋世界では、宗教改革やルネサンス、産業革命といった数百年に及ぶ斬新的な社会変革を辿った末に、近代化を進めていきました。では、日本はどうであったか。
確かに前回の島崎藤村の問題提起のように、既に黒船来航より半世紀前の19世紀初頭には、後の日本の近代化につながるような、新しい精神の覚醒はあったかもしれません。
しかしながら、実質日本人が総力で文明開化路線を取り入れていったのは、明治初年以降のわずか数十年前の出来事です。つまり、西洋社会が数百年かけて実現させた近代国家への歩みを、日本は人の一生にも満たない、たった数十年で成し遂げたことになるわけです。
しかもそれは、遡れば「黒船の脅威」という、自衛手段から始まったものです。欧米列強の植民地支配が始まった19世紀のさなか、日本はいつ阿片戦争によって大英帝国に支配された清国と同じ道をたどってもおかしくない状態でした。これはまさに漱石のいうところの「外発的開化」ともいうべき状況ということになります。
もしかして、藤村がいうように、わが国も19世紀初頭の文化文政期のめざめから、数百年かけて、独自の文明開化を進めていけば、単なる西洋の模倣に留まらない、日本独自の「内発的開化」を実現できたのかもしれません。
(しかしながら、実際の歴史はそのように順調に歩まれたわけではないことは、周知の通りです。)
そして、日本の「外発的開化」について、当の漱石本人が、鋭い問題点を指摘しながらも、そこからどうすればいいのか、積極的な代案を示してないことも事実です。しかも最終的には、「涙を呑のんで上滑りに滑って行かなければならない」という、殆ど絶望にも似た結論で締めくくられているのです。
おそらく、この講演録を一読して、はじめから「胸がすいた」とか「よくぞ言ってくれた」とか思う人は、まずいないと思われます。
むしろ現代の我々自身も、大なり小なりの形で近代化の恩恵を蒙っているはずですから、正直「わざわざこんなひねくれた見方をしなくても…」と反発を覚える人もいるかもしれません。
しかし、漱石は、日本の「文明開化」によって、快適で便利になった利点とともに、果たしてそのことによって、人間がこれまで抱えていた苦悩は解消されたといえるのだろうか―そういった人類の進歩における諸刃の剣といった根本的な問いを突きつけたわけです。
得てして文学者や思想家のそのすべてではありませんが、その多くは後世に伝わるような多大な業績を遺しながらも、当の本人が天邪鬼でひねくれた見方をしていることは珍しくありません。
その一方で、日常われわれが生活していて〝当然と思っていること〟〝前提として共有されていること〟から、敢えて気づかない視点や意識しないこと、中長期的な見通しを示して、問題提起することも、文学者や思想家の創造力が果たす一つの役割とも考えられます。
今や「デジタル・ネイティヴ」という言葉があるように、すでに生まれた時代から、世界のグローヴァル化、IT化は急テンポで進み、ネットワーク社会を当然と受け止めて、何の違和感もなく過ごしてきた人たちも少なくないと思われます。
そのことによって、仕事からライフスタイルまで大きく効率化され、これまで不便だった作業もかなりの部分で解消されたことも事実です。
その渦中にあって、なかなか気づきにくいかもしれませんが、人類は急激な発展を遂げた一方、もしかして大切な何かを失ってはいるのではないだろうか―そうしたことも、この機会に文豪の視点から一度振り返ってみることも、決して無駄な思考実験ではないと思われます。